第44話 学園祭を待ちわびる影 ~旧校舎の『ナニカ』、祭りを夢見る~前編
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制服姿の妖怪たちが集う、奇妙で愉快な迷宮。
それは、かつて誰にも見られなかった『教室の隅』で、ひとりきりで夢見た祭りだった。
その瞬間——
旧校舎で教室の空気が、わずかに揺れた。
時計の針が、止まったまま震えた。
黒板の端に置かれたチョークが、ほんの少しだけ転がった。
静まり返った教室で、『ナニカ』が、静かに目を開けた。
その『ナニカ』は、確かに、祭りの匂いを知っていた。
迷宮では、制服姿の妖怪が笑っていた。
その笑いが、旧校舎の窓を、ほんの少しだけ震わせた。
空っぽの教室。
でも、黒板の前に、一冊のノートが開かれていた。
ページには、震えるような文字で、模擬店の企画が書かれていく。
「お化け屋敷」「焼きそば」「占いの館」「迷宮の宝探し」
その文字は、どこか懐かしく、どこか幼い。
でも、確かに『誰か』が書いていた。
ノートのページが、風にめくられていく。
その先に、最後のページが現れる。
—来場者の皆さまへ—
・旧校舎は、現在使用されておりません。
・廊下の軋みは、誰かの記憶です。
踏みしめる際は、静かにお願いします。
・旧校長室には入らないでください。
鍵は開いていても、心は閉じています。
・図書室の奥には、貸し出し記録のない本があります。
読まないでください。それは存在していないからです。
・音楽室のピアノは、誰かが弾いていた記憶です。
音楽が流れても、拍手は不要です。
・制服の試着は一度だけ。
二度目は、戻れないかもしれません。
・迷ったときは、階段を数えてください。
数が合わなければ、夢です。
・帰るときは、名前を思い出してから。
忘れたままでは、帰れません。
楽しい祭りになりますように。
最後の一文。
少しだけ、文字が滲んでいた。
◇
『ナニカ』は、給昇降口の扉が、音もなく開いた。
誰もいないはずの旧校舎に、『ナニカ』が入ってくる。
靴箱の列。
名前の札は、すべて色褪せていた。
廊下の窓には、夕方の光が斜めに差し込んでいる。
『ナニカ』は、一歩ずつ、ゆっくりと歩いていく。
その足音は、まるで水面に落ちる雫のように静かで、けれど確かに響いた。
靴箱の前で立ち止まる。 そこには、いくつもの古びた上履きが並んでいた。
黄ばんだ布地、剥がれかけたゴム底、つま先に残る泥の跡。
どれも、長い間忘れられていたことを物語っている。
だが、その中に――ひときわ異質な一足があった。
片方だけ、まるで昨日置かれたかのように、真新しいまま。
白く、清潔で、ほこり一つない。
まるで誰かが、今もそこに通っているかのように。
『ナニカ』は、その靴の前で立ち止まり、じっと見つめた。
そして、ゆっくりと手を伸ばす。
――その瞬間、廊下の奥で、かすかな足音が響いた。
カツン、カツン。
誰もいないはずの旧校舎に、もう一つの気配が忍び寄る。
足音が、『ナニカ』の目の前までやってきた。
けれど、そこには誰の姿もない。
ただ、確かに――そこに『何か』がいた。
空気が揺れる。
温度が変わる。
見えない存在が、『ナニカ』を見つめている。
足音は一度、ぴたりと止まった。
まるで『ナニカ』を見定めるように。
そして、静かに踵を返す音。
コツン、コツン……。
足音は、廊下の奥へと遠ざかっていく。
だが、数歩進んだところで、また止まった。
静寂。
まるで、「ついてこい」とでも言いたげに。
『ナニカ』は、しばし立ち尽くした。
そして、ゆっくりと、靴箱の前を離れる。
コツン。コツン。
その足取りは、先を行く音に重なるように、まるで呼吸を合わせるように、静かに、確かに、後を追った。
夕陽が差し込む廊下に、二つの影が――いや、一つの影と、影にならない『ナニカ』が、並んで歩いていった。
その先にあったのは、食室だった。
足音は、扉の前でぴたりと止まる。
『ナニカ』も立ち止まり、ほんの少しだけ首を傾けた。
扉の向こうから、かすかに漂ってくる匂い――それは、焦げたパンの香ばしさと、味噌汁の湯気に混じる、懐かしい匂い。
記憶の底を、そっとくすぐる。
遠い昔、誰かと笑い合いながら食べた昼食。
あの頃の温もりが、ふいに胸を締めつける。
「・・・おかわり」
誰かの声が、ふと耳元でささやいた。
それは風の音か、記憶の残響か。
あるいは、もう一度『ここで食べたい』と願いながら、叶わぬまま消えていった者の、最後の言葉だったのかもしれない。
『ナニカ』は、そっと扉に手をかけた。
冷たい金属の感触が、現実を引き戻す。
――ギィィ……
扉が軋む音とともに、食室の中へと、一歩踏み出した。
評価いただけると続編を書く意欲に直結します




