3、
父の一郎は恭介にホッとした顔を向けたが、すぐに打ちひしがれたように肩を落とした。
一郎には披露宴が終わっても、まだ息子の行方という苦悩が残るのだ。もう二時間以上現れない兄の身の上に、何も起こっていないと思うのは気休めでしかない。
席から立ち上がった恭介は、小柄な父の背を見つめた。憔悴しきった父に、こんな式などやめろと言いたくなって、顔をそむけた。
花で飾られた新婦席で、花嫁はまっすぐに前を見つめていた。しかしその瞳は、喜びの欠片も映していない。ブラウンの瞳は輝きを失い、化粧をした顔は魂のない人形のようだ。アップにされた赤毛の髪さえ、ベールの中でくすんだ鉄さび色に見えた。
恭介は会場の隅を通り、背後から杏奈の元へ近づいた。肩から肩甲骨まで広く開いたドレスの襟ぐりからほっそりとした首筋がベールに透けて見える。痛々しいほど力の無い、華奢な後姿。仲人の夫人の隣で、身じろぎもしない繊細な姿が恭介の心を揺さぶる。
「杏奈さん」
恭介が背後から声をかけると、茫然自失状態だったのか、杏奈はビクッと身を震わせた。そして怯えるようにゆっくりと振り向いた。恭介に気づくと、ピンク色をした小さな唇から弱々しい声が漏れた。
「恭介さん……」
席から目立たないように屈んだまま、恭介は杏奈の椅子に手を掛けた。隣の席から顔を向けた仲人夫婦に軽く会釈をして、花嫁に視線を戻す。杏奈は今にも泣きだしてしまいそうに見える。
「兄貴が……。申し訳なくって、どう言えばいいのか……」
杏奈は気丈にも微かな笑みを漏らした。
「恭介さんのせいではないのですから、謝ったりしないでください。きっと何か事情があるのでしょう」
「ええ、不慮の事故に遭ったりしていないかと、心配しています。兄貴は故意にこんな仕打ちが出来る人間ではないですから」
杏奈は一瞬、くるっとした大きな褐色の瞳を曇らせた。恭介は事故と言ってしまってから、すぐに後悔した。
「いや、勿論無事だと思いますが」
恭介の方に心持ち体を向き合わせた杏奈は、両手をドレスの膝の上でしっかりと握っている。
「そうですね。私もそう信じています。きっと何か都合の悪いことが起こったのでしょう」
「兄貴のことだから、来る途中で、研究に関係するものでも見つけたのかも知れませんね。兄は小さいときから、何かに没頭し始めると、周囲のことが見えなくなるんです。その点ではけっして良き夫とは言えませんよ」
恭介の言葉を聞いて、杏奈は微かに口元を綻ばせた。
「それはよく分かります。何度か大事な研究中だといって、約束をすっぽかされたことがあります」
「本当ですか? 全く、困ったヤツですね」
杏奈が長い睫が囲む目を細めて微笑むと、恭介はホッと肩から力を抜いて彼女に言った。
「最後の花束を渡す時、僕がエスコートしますね。兄貴が後で式の写真を見たら、文句を言うかもしれませんが」
「有難うございます。これだけはどうしてもやりたかったから。亡くなった母と、父のために……」
そう言って、彼女は瞳を伏せ、美しく弧を描いた眉をきゅっと寄せた。表情が一瞬暗くなったように見えて、恭介は一瞬眉をひそめた。
「ご両親と父に渡す赤いバラは、庭に咲いたものを摘んできたんです。私と父が育てたの」
「え? 自分で咲かせた花なんですか? お父さんと?」
杏奈は恥ずかしそうにこくりと頷くと、微かに口元を綻ばせた。
「あの倉橋所長に、そんな趣味があったとは意外だなあ」
「ええ、皆さんそうおっしゃいます。でも、休みには一日中、庭の手入れをしているんですよ」
「ああ、そういえば、杏奈さんのお母さんはイギリスの方でしたね? ガーデニングはお母さんの影響ですか?」
杏奈は再び頷くと、うつろだった瞳を大きく見開く。
「はい。家の前は畑だったので、母のために父が買って広い庭にしました。今はいろんな花が咲いていますよ」
「そうですか。ぜひ拝見したいですね」
「ええ、いつでもどうぞ。私達、もう家族ですものね」
杏奈は頬を染めて、あどけない笑顔になった。口元から白い歯が覗いている。恭介は微笑み返した頬が引きつる気がした。
「そうですね」
と、かろうじて応えたが、一生に一度の幸せな舞台を台無しにされた花嫁に、胸を張って家族だなどと言えない。弟である恭介が慰めの言葉を口にできる訳がないのだ。
「じゃあ、時間になったら、来ますから」
恭介は立ち上がると、杏奈に頭を下げた。
「あ、はい。お願いします」
杏奈の顔からはまた笑みが消えた。立ち去る恭介の背を、黙って見つめている。
恭介は会場の閉じたままの扉を見つめた。
「兄貴……。どうしたんや。杏奈さんはとても傷ついている……」
きっと、何かがあった。あの兄が、自分の意志で彼女をこんな目に合わすわけがない。胸の携帯電話を取り出して着信を確かめながら、恭介は確信していた。
きっと……、きっと何か、とんでもないことがあったんだ。兄の身に……。