第三章『俺が世界に映せたのはせいぜい校舎のガラスくらいだった』
孝一の勝利宣言から数日が経った。いつも通り点呼ギリギリに登校した俺は、孝一の前の席に座り、「おはよ」と軽く話しかけると「ん、」と最低限な返事を返される。
前例なんてこれまであったのだろうかと思い返すほど、近頃孝一は試験勉強に没頭していたので、次第に俺と孝一との会話は減っていき、ほかの友達と談笑する時間が増えた。
昼休みになっても、孝一は自分の世界を作っていたので、話しかけもせずに廊下で雄也と理人と、先生の愚痴やお互いの予想した頻出単語の言い合い、転校生のファンクラブに入るのかどうかなどとごく普通な雑談をした後、話題は孝一の話へと移り変わる。
「なぁ、あの自己ういち、最近めっちゃ勉強してんじゃん?なんでなん?」
「知らね。どうせ転校生に良いところ見せようとしてんだろ」
「おい、もう孝一の悪口はよせ」
俺は低く注意すると、二人はへいへいと謝るフリをする。正直ムカつくけど、この世界の住民ってだけで、反論し、改善されることはできないだろう。俺も深く共感している自分がいる。
孝一への陰口は今に始まったことではないし、この学校の暗黙のルールの一つになっていた。だからといって、それを正当化する理由なんてあってたまるかって話だし、俺の耳に孝一の悪口が入ったら、構わず指摘しにいくつもりだが、それでも、この黒に染まった霧が晴れる日は来るのかと、何度も考え込んでしまう。
孝一はこれに対し、まったく気にしていないと言及していた。
いや、なんでそこで強がるんだよと強く問いかけるも、猿から猿言葉を言われたとてどうでもいい、とため息混じりに貶しており、孝一の、それこそ彼独自の天秤を徐々に知った俺は深くは問い詰めなかった。
「それで言うと、ひろみも結構勉強してるよな?せっかく来たんだしいろんなところ旅行すればいいのに」
続けて理人は「魔法とかも……」と言いかけたが、取り消した。
ひろみの世界にはない、この世界特有の魔法。なんだそれは?と彼女にとっては急に現実味のない単語があるが、これはフィクションではなく、本当にある。
一見聞くと、なんとワクワクする単語なのだろうか。そんな世界に転生できたらな、と妄想しない学生はほとんどいない。
だが、ここは現実だ。お金で回っている世界。その概念を好む人はあまりいないので、理人も口を結んだ。孝一への印象もこれに直結している。
そんなことを考えていると、雄也は「まぁ時期が時期だしな」と相槌する。
「でもこの学校のテスト、加えて言うと、今回のテストバカみたいにむずいらしいから、なんというか、可哀想だ」
試験は代々、この学校の創立者が作った試験を使い回ししているが、歴代で5教科満点を取った生徒はいないという。テスト用紙は回収されるので、先輩に頼んでも曖昧な情報しか出てこない。それでもないよりマシだ、と学生達が先輩の学年に寄るのは少なくなく、この時期になると廊下が騒がしくなるのはいつものことらしい。
「にしてもさ、俺ら二年の廊下が騒がしくなってるのはなんでだ?」
いつのまにか、俺らのクラスの前に少し人が集まっていた。どうしたどうした、と俺ら三人は近づくと、ファンクラブのメンバーと思われる者が数人、眉間に皺を寄せて廊下から中を覗いていた。
ファンクラブとはもちろんひろみ一目惚れ団体。言わずもがな、中でひろみが孝一に話しかけてる、とかそこら辺のことだろう。雄也がファンクラブの人に聞くと、まさに予想した通りだった。これに関しては流石の俺ら三人も辟易する。
「ひろみ、なんで自己ういちなんかに話しかけてんだよ」
「俺とのデートは断ったくせによ」
悪意の籠った声が飛び交う。ピリッとした俺は近寄ろうとするが、雄也と理人に止められる。反って刺激を与えるだけだ。
どうしてこんな人達がこの学校に入れたんだろう、と疑問に思うが、どうやら中高一貫のこの学校では、中学校からエスカレーターで登ってきた人達は少し民度の低い学生も多いらしい、と理人から聞いたことがある。
「お、おい!」
ファンクラブのリーダー的存在が、教室内に入り、二人に割り込んでいった。
「なぁ、ひろみちゃん。なんか楽しそうだね。何話してたの?」
優しく話しかけながら、孝一の机とひろみとの間に入る。たくましい体格と自信満ち溢れたその目には孝一などまったく存在していなく、ひろみとの二人の世界を作ろうとした。が、すぐさま崩れる。
「あー邪魔、今勉強し合ってんの」
「……」
え?と空気が主張したようだった。実際、俺も止めに行こうとしたが、困惑し立ち止まる。
「ひ、ひどいな?ひろみちゃん、そんな怖い人だっけ?」
「怖く言ったつもりないけど……なんか、ごめん?とりあえず、孝一くんも困ってるからさ」
ひろみは見上げながらもその人を見ていないようだった。ただ早くどっか行って?と問いかける目。リーダーに汗が垂れる。
「いやっ、ひろみちゃんは知らないと思うけどさ、こいつ、結構人としてダメなところあってさ?なんとなくわかるっしょ?」
何を言っているのか。首を傾げるひろみは「つまりどゆこと?」と疑問を話す。もしかして、ひろみは噂を知らないのだろうか。
いや、噂を知ってる知らない以前にだ。おどおどと明るげだがどこか自信なさげな、小さい子供のようなかわいさを持ち合わせているのが俺ら傍観者の共通認識だった。
だが、先ほどの冷たい声には、まるで人格の違う、とまではいかずとも、泰然自若を表しているような態度で、孝一?のような雰囲気も感じ取れる。
「だ、だから、ミスチョイスだって。こんな斜に構えるだけの一人狼が——」
「悪い、集中したいから後にしてくれないか?」
リーダーの背中からの孝一の声に反応し、後ずさって二人を見下す。
「な、なんでだ!?二人は、どういう関係なんだよ!」
ひろみのみに焦点を当てたリーダーは、最終的に二人と己との境界線を見るようになった。確かに二人に接点があるようには見えない。一人は孤独を愛する嫌われ者、一人は社交的で好かれ者。
だが、俺は知っていた。彼らには、彼らしかない共通項があることを。
「孝一くんとは、なんだろ、見てる景色が同じような、フィルターが似てるような気がするの。確かに孝一くんは人との結びに抵抗を感じてるかもだけど……」
言葉が見つからないから、目が泳いでいる。初日のひろみを思い浮かぶような、でも感情を乗っけた声帯で。
「それでも、孝一くんにも人の血は通っていると思っていて……!」
関係を聞かれ、自分と隣を鑑みて、横目で見つめる。
私たちって、どういう関係なの?あなたは私のことどう思っているの?
その問いに回答するには、覚悟を乗せ、目を向け、感情を添えるだけ。
「俺とひろみは——」
離れられない相棒だ、ってか?もしかして運命の関係とか洒落たこと考えてる?黙れ人でなしが。ふざけんなよ。母の期待を裏切って、世界の敵として産まれて、感情を捨てて、未来なんて真っ黒なくせに光でも見えたと思ってんのか。お前には何ひとつこの世界で幸せを感じてはいけない。幸せを持てないお前には何も持てない。何もない空っぽなお前はどんな光も放てられない。真っ黒なお前にこの世界ではなんの輪郭としても映れない。そう決まってんだよ。
「龍馬……」
繋がっている、たった一つの線を手に取ろうとする。だが、霧で何も見えない。龍馬ならなんて言う?胸張って見上げろとか?
見上げた先は、一つの窓だった。先に見える景色は色鮮やかで、壮観で、綺麗だった。そして、表面には微かに俺の顔が映る。情けない、惨めな顔が。
あぁ、世界はなんと美しく残酷なのだろう。世界はただ俺に無関心だ。俺が世界に映せたのはせいぜい校舎のガラスくらいだった。誰にも見えない、何者でもない。それが俺——霧生孝一という人間だった。




