プロローグ
「……あ、猫?」
彼女の目線の先を追うと、にゃーと鳴く黒猫が物陰からそろりと現す姿が見えた。
物陰、というか本棚の裏だ。ここが旧校舎の図書室で、すっかり外の自然と調和してるほどに腐り気味になっている。
もう午後四時を回る頃だが、橙色にはまださせないと夏の清光がこの部屋を照らし、汚さがよく見える。
「野良猫?だよね。どっから来たのかな?」
そして、なぜか俺は会って間もない彼女と二人きりでこの部屋を訪れていた。
「……たぶん、さっき俺が開けた窓から入ってきたんだろうな」
「そんなハエが入ってきたみたいなことある……?」
「ここを気に入ってるか知らんが、俺がこの図書室を訪れる時にたまにいるぞ」
先ほどの重たい空気を抜け出すため、俺たち二人はその野良猫の話題に変える。猫の手も借りたいということわざがあるが、黒猫とはついてないな。
「ほんと警備緩いよなここ。入らせない魔法とか取り入れればいいのに」
「なっ、猫が何かするわけないじゃん。むしろ大歓迎だよ」
「……そうか?」
すっかりこいつは魔法という言葉に慣れたようだな。
はぁー、と彼女は俺の言葉にため息つくと、今度は猫の方に目を向ける。
「お腹空いてるのかな?でも勝手に近づいたら怖がっちゃうよね……」
しゃがんで目線の高さを低くした彼女だが、その猫はあまり近づかなく、そこでじっとしている。
スッとこいつがしゃがんだのが刺激したせいか、どちらかというと訝っているな。
「あ、それに私食べ物持ってないや。ミンティアならあるけど……アリ?」
ナシよりのナシだろ。
「俺がやろうか?もし猫が来た用にチュールあるけど」
リュックを開け、中に入っているチュールを取り出す。しゃがんでいた彼女は離れていた猫と同じ瞳で見つめてくる。
「……え。もしかして孝一くん結構この猫に親しいの?」
「まぁ……うん。あげたらすぐどっか行くし、読書の邪魔にならん」
「優しいのか優しくないのか……」
ジト目でため息をつく彼女に首を傾げながら、取り出したチュールの袋を開ける。
その香りに反応したのか、その猫はゴロゴロと鳴き、興味を強めているのがわかる。
「ま、まって、私があげたいっ」
そしてこの人間もこしょこしょと囁き、目をキラキラして上目遣いでお願いしている。
開けたチュールを彼女の口に寄せると、なにしてんの?と疑問の目で訴えられ、チュールを引き取る。
「ほら……怖くないよー怖くない怖くない。おいしいから」
ニヤニヤしながら近づく彼女だが、やはり知らない人からだと警戒心を持つ。背中が上がり、後ずさる猫を見て彼女はしょんぼりする。
「な、なんでぇ……。チュールって最強アイテムじゃないの?」
気持ちはわかる。だが、この状況はまるであれだな。児童に近づく危ないおじさんだ。
「刺激させない方がいい。野良猫だと尚更警戒心を強める。まずは匂いで鳴らしてからゆっくり近づいたらどうだ?」
「孝一くんは、いつもどうやって餌をあげてるの?」
「あー俺は……なにもせずとも近づいて来たな」
いつも一人でなに考えてるかわからん置き物のようにいるから、多分人間としてすら見られてないだろうな。
「へーー」
どこか棒読みに聞こえる彼女の返事に首を傾げるが、反応するのは後回しだ。
「あ、食べてるぞ」
「え」
いつのまにか彼女が無意識に動かさなかった、チュールを持った手に近寄っていた。
「あ、食べてる……かわいい〜。やっぱり私の純粋な優しさに気づいたのかな?見る目あるよ君」
「え?」
「え」
ペロペロ舐めてる猫の横で、人間二人がきょとんと困惑している。
「いや……多分そこは汲み取ってないと思うな」
「うぐっ……。ス、ストレートだなぁー。孝一くんって素直っていうか裏がないというか」
うん。君にだけは言われたくない。
「もっとこう……遠慮とかないのかな孝一くん」
「ないな」
「ないな!?」
目を丸くする彼女に構わず言葉を続ける。
「そういう人間臭くて無駄という無駄を絡ませた典型的な考えは嫌いだ」
もっと言えば、少し吐き気がする。
「そうなんだ……。なんか孝一くんを本にしたら、小学生の感想文みたいになりそう。今日は暑かったから学校に行かなかった。とか、今日誰かに話しかけられたがめんどかったから無視した。みたいな」
「意味わかんねぇし、なんで本なんだよ……」
「だっていつも本しか読んでないじゃん」
猫に餌つけしながら、そばの本を見て、俺の声を真似している。心なしかとても低く喋っているように聞こえる。
「もっと自分の色というのが見えないんだよね。基礎的で簡単な文しかなさそう」
きっとこいつはもっと感情を出せということを伝えたいのだろうな。語彙力が無さすぎて理解が少し遅れたが。
「読みやすくていいじゃないか」
「……あ、二つの意味で?アハハオモシロイネ。ミルメアルヨキミ」
冗談を言ったつもりはないんだが。こいつは相当感受性が豊かなのだな。
「……あ、行っちゃった」
たらふく食ったのか、猫は満足げに窓へと歩き、とびこえていった。
「俺たちも行くか」
「うん」
先ほどの彼女との会話を振り返る。
感情。それは行動力の起源であり、依存対象である。汚くも美しくも見え、だからこそ尊ぶべきだと彼女は思っているだろう。
わかっている。君の伝えたいことは全てわかっているよ。
だがな、俺はどうも受け付けないのだ。足手纏いにかならないと思っている。
正しい行動を何一つできない落ちこぼれが、感情は操って自分のものにしろと言っているのを聞いたことがある。
心の底からその言葉に唾を吐く。感情なんてないに越したことはない。言い訳にしか使えない。感情のいく終点は苦しみ一点にしかない。
だから俺は捨てる。目的を見失わないために。
――この世界の敵であるおまえを、殺すために。




