第178話 光と詩音、結ばれる夜
翌日の夕方。
『昨日のライブ映像、続き一緒に見ない?』
光から詩音へのメッセージは、どこかぎこちなかった。
その言葉が本題ではないことくらい、分かっていた。
それでも、向かった。
⸻
光の部屋。
昨日と同じ、小さな空間。
ベッドと机と椅子だけの、飾らない場所。
「……来てくれてありがと」
光がベッドの縁に腰掛けたまま、隣をぽんぽんと叩く。
詩音も小さく会釈をして、昨日と同じように一定の距離を保って隣に座った。
光の手には、昨日と同じタブレット。
二人で画面の端を持ち合って、昨日見切れなかったスタジアムライブの映像をいくつか再生した。
「これ、すごいよね。客席の上に透明な道ができて、その上を歩いてる」
「はい。物理的な距離をなくす、とても効果的な演出です」
「あと、これいいと思った。曲の途中で完全に音が止まって、お客さんも全員黙るやつ。あの沈黙の時間って、実は音を出してる時より緊張感あるかも」
「観客の呼吸すらも演出に取り込んでしまう手ですね。光さんなら、もっと面白い使い方ができそうです」
光が指さす映像に、詩音が丁寧に応える。
ただ、昨日と同じように盛り上がっているはずの会話の節々に、どこか空気がぎこちないのを感じていた。
やがて、いくつか映像を見終えると、光が小さく息を吐いてタブレットを机に置いた。
部屋に静寂が落ちる。
「……あのさ」
光が、いつもより少しだけ真面目な顔でこちらを見た。
「昨日は、ありがとね。詩音さんのおかげで、なんか……目が覚めたっていうか。すごく助かった」
「いえ……私は、ただ」
「それでさ、最初に言っておこうと思うんだけど」
詩音の背筋が、すっと伸びる。
「俺には雪がいるから。だから、詩音さんの気持ちには……ちゃんと線を引かなきゃいけないと思ってる」
それは逃げの言葉ではなかった。
彼の持ち合わせる、どこまでもまっすぐな誠実さだった。
詩音は息を呑んだ。
昨晩、雪が笑いながら言っていたことを思い出しながら、ゆっくりと息を吸う。
————— 『あ、そうだ。もしもの話なんだけど、光がね……』
「そのことですが」
光が顔を上げる。
「昨晩、雪さんに言われました」
「……え?」
詩音は、視線を逸らさない。
まっすぐに光を見る。
「“光がね、私のことを理由に断ろうとしたら、言ってやって。
私一人じゃ光の全部を支えきれないし、独り占めするより、一緒に支えられたらもっと素敵だと思う。
ぽっと出の人はちょっと嫌だけど、詩音さんなら一緒にいい関係になれると思うし、何より光のことを大好きなのは伝わってくるし。だから、私は大歓迎です”と」
沈黙。
光が目を瞬かせ、やがてゆっくり笑う。
「……はは」
肩の力が抜ける。
張り詰めていた空気が、嘘のようにほどけていく。
「さすが雪……ほんと、こういうところは敵わないな」
視線が柔らかくなる。
詩音は一歩、距離を詰める。
「私は、雪さんの代わりになるつもりはありません。まして光さんを奪うつもりもありません」
声は静かだが、揺れはない。
「隣に、対等に並びたいだけです」
そして、少しだけ照れながら。
「さらに雪さんが言ってました。
“三人のほうが面白そうじゃない?”って。
私も……面白そうだなと思っています」
光は黙る。
詩音の胸の奥で、ずっと押さえていた感情が溢れ出す。
理屈や建前ではない、心からの本音。
「昨日、光さんの目に光が戻ったとき……心底嬉しかったんです」
自分の声が震えているのが分かる。
「私はあの目を、もっと見たい。これからは、もっと近くで。隣で」
光の呼吸が、わずかに乱れる。
逃げる理由は、もうない。
雪は拒絶していない。
詩音は奪いに来ていない。
残っているのは、光の遠慮だけ。
一人の男性に対して五十人の女性が存在するこの世界において、複数の女性が一人の男性に寄り添うことは何の不思議でもない。
むしろ当たり前の光景だ。
ただ、光だけがそれを "不誠実なこと" だと勝手に思い込み、ブレーキをかけていただけなのだ。
光が小さく笑う。
「俺さ」
一瞬、目を伏せる。
「詩音さんのこと、たぶんけっこう最初から好きだった」
詩音の心臓が大きく跳ねる。
「でも、雪がいるからって勝手に理由にして、変に遠慮してただけだったんだと思う」
視線が重なる。
光の目から、迷いが完全に消えていた。
光が手を伸ばす。
指と指が触れる。
詩音が、応えるように強く握り返す。
「……並ぶって、こういうこと?」
「はい」
小さく頷く。
光がもう少しだけ手を引き寄せる。
指を絡めていた手はそのままに、二人の間にある距離が自然に消えていく。
詩音の肩が光の胸に触れ、寄り添う形になった。
薄い衣服越しでもはっきりと伝わってくる、柔らかながらも確かな体温。
すぐそばでかすかに香る、シャンプーの匂いと混じり合った彼特有の甘く微かな熱の匂いが、理性を内側から溶かすように鼻腔をくすぐる。
男性特有の気配をここまで無防備に至近距離で浴びる経験など、あるはずがなかった。
胸の奥が甘く疼き、下腹部のあたりにじんわりとした熱が溜まっていくのがわかる。
自分の呼吸が、自分のものでなくなったかのように熱く、かすれていく。
光の顔が、ゆっくりと近づいてくる。
もう何も考えられなくなった詩音は、祈るように小さく息を呑み、静かに目を閉じた。
触れた唇は、静かで、確かだった。
最初はそっと確かめるように。やがて、熱を帯びて少しだけ深く。
そのブレーキが外れた光の手が、詩音の肩に添えられた。
そのまま、優しい力でゆっくりと押し倒される。
ベッドのシーツに背中が沈む。
わずかに目を開けると、自分の上に覆い被さるように、光がまっすぐに見下ろしていた。
その目にはもう迷いはなく、今まで見たことがないような、強い熱が宿っている。
「……詩音さん」
甘く、低い声。
その一歩は、誰に強制されたわけでもない。
雪が扉を開き、詩音が踏み込み、そして最期に光自身が選んだものだった。
やがて、再び重なるより深い熱情に身を任せるように、詩音はゆっくりと目を閉じた。
これまで完璧に保ってきた東雲家の令嬢としての理性が、彼の不器用で優しい熱の前に、甘く溶けていくのを感じながら。




