第175話 光と詩音(前編)
雪が詩音に相談した翌日の夕方、光の部屋にて。
コン、コン。
「光さん、詩音です。今入ってもよろしいでしょうか?」
「え!?詩音さん?どうぞ!」
ドアが開く。
光の部屋は、ベッドと机と椅子だけの小さな空間だった。
光はベッドに腰掛けている。
詩音は中に入り、ドアを閉めると、机の前の椅子に座った。
「どうしたの急に?」
「少しだけ、お時間をいただけますか」
「いいけど。なんかあった?」
詩音は一拍置いてから、柔らかく言う。
「先日の会議、少し気になっていて。
……光さん、あの場で珍しく何も言いませんでしたよね」
光は苦笑する。
「……言わなかったんじゃなくて、なんか言えなかった、かな」
「世間にどう切り取られるか分からないから、ですか」
「うん。軽い思いつきが“宣言”になるし、冗談が“思想”になる。
俺が何か言うたびに、“どういう意図ですか”って勝手に大きくされる。だから、迂闊なこと言えないなって思った」
詩音は静かに頷く。
「光さんに実績がついて、“勝ち続ける存在”に見えるようになってから、声は確実に増えました」
一拍。
「私と光さんは少し似ています。“持っている側”は、いつの間にか“背負わされる側”になる」
光は小さく笑う。
「資産家のお嬢様が言うと説得力あるな」
「笑いごとではありません。持っているものは、期待という形で返ってきます。そして“やりたいこと”より“やるべきこと”が先に並ぶ」
「……あるかも」
「でも、それは光さんが一人で背負うものではありません」
視線をまっすぐ向ける。
「発信の整理。言葉の設計。誤解の修正。炎上の予測と緩衝。
光さんが“やりたい”と言う前に、どう届くかを整える役割は、他の人間が引き受ければいい」
光は黙る。
理屈は分かる。
でも、まだ火はつかない。
——
詩音はバッグから大きめのタブレットを取り出した。
「少し、方向を変えましょう」
「なにそれ」
「いろいろなアーティストのスタジアムライブを入れてきました。意味ではなく、衝動を探しませんか」
詩音はタブレットを光に差し出す。
光が受け取る。
「……俺だけで見るの変でしょ。ほら、隣来なよ」
ベッドをぽん、と軽く叩く。
詩音が一瞬だけ固まる。
「……失礼します」
椅子から立ち、ベッドに座る。
壁に背中を預ける光の左隣に、少し距離を空けて腰掛ける。
光がタブレットを構える。
「こうしたほうが見やすいかな」
自然に、肩が近づく。
タブレットが大きいので、二人で両端を支える形になる。
背中を壁につけ、並んで座る。
距離は、極めて近い。
詩音は、画面に集中するふりをしながら、自分の鼓動が少し速くなっていることに気づく。
——
タブレットの画面が暗転し、再生マークが消える。
次の瞬間、夜空を裂くように巨大な花火が開いた。
低音の爆発音が、タブレットの画面を震わせる。
光の肩がわずかに跳ねる。
「花火すご」
画面いっぱいに広がる光の粒。
観客席が、白く照らされる。
「派手ですね」
詩音は冷静に言うが、視線はしっかり画面を追っている。
続いて、次の動画。
暗転。
巨大なスタジアム。
中央に一人、スポットライト。
歓声が爆発する。
しかし――動かない。
微動だにしない。
「……え?」
光が瞬きをする。
「え、登場してからずっと止まってて動かないんだけど」
歓声だけが続く。
何万人もの声が、波のように押し寄せる。
それでも、動かない。
「そういう演出ですね」
「えぇ……そんなのあり?」
カメラが客席を映す。
泣き崩れるファン。
担架で運ばれていく人影。
「ちなみに、このあと一歩動いた瞬間、興奮で何十人も失神したそうです」
「えぇ!?そんなことあるの!?」
光が思わず詩音を見る。
詩音は淡々と頷く。
「存在そのものが演出になっています」
ステージ中央の人物の指が、わずかに動く。
その瞬間、スタジアムが爆発する。
光が小さく息を吐く。
「……動かないっていう選択肢も、あるのか」
目が、さっきより少し深くなる。
続いて、次の動画。
アーティストが空中へ持ち上がる。
ワイヤーで、客席上空をゆっくり移動。
観客の手が、波のように揺れる。
「え、空飛んでるんだけど!」
「ワイヤー、これまた派手ですね。安全対策も含めて相当な設計でしょう」
光の口元がまた少しだけ上がる。
次の動画。
客席中央を移動する巨大な可動ステージ。
床が透明になっていて、観客のすぐ上を通る。
アーティストと観客が、極めて近い距離で互いに手を振りあっている。
「なにこれ、人がでかい台に乗って客席回ってる」
「ファンとの距離を壊していますね」
「はは」
光の笑いが自然になる。
目が、画面の奥を計算する目に変わっていく。
“考え始めている目”。
自転車に乗って歌いながらスタジアムを回るアーティスト。
「……あの距離感ズルいな」
「ズルいですね」
二人で、顔を見合わせて小さく笑う。
一瞬、沈黙。
画面が切り替わる。
光が少し身を乗り出す。
「あ、ルナだ」
「ですね」
ステージに立つルナリア。
スポットライトを浴び、片手をゆっくり掲げる。
次の瞬間。
スタジアム全体が、同じ動きで手を挙げ、叫ぶ。
地鳴りのような声。
「え、ルナが手を挙げたら観客全員手を挙げて叫んでるんだけど。何これ」
「ルナリアアーミーと呼ばれるコールアンドレスポンスですね。毎回の定番らしいです。ファンは事前に練習してから来るとか」
光が苦笑する。
「さすがは支配の女王…」
「ですよね」
観客の動きが、まるで一つの巨大な生き物のように揺れる。
ルナリアが指を下ろす。
歓声が止まり、静寂が落ちる。
完全な統制。
光がぽつりと呟く。
「……でもさ」
少し間。
「お客さんと決めて何かやれるのは、楽しそうだよね」
詩音は横目で光を見る。
さっきより、目に光がある。
「それは、そうかもしれません」
光は画面を見たまま少し笑って言う。
「……そういうの、やりたいな」
詩音は小さく息を呑む。
——戻ってきた。
完全復活ではない。
でも、いつもの熱が、ほんの少し戻っていた。




