第158話 事前選考地獄
それから、約1ヶ月後。
チーム光のオフィスは、しばらくのあいだ静かな戦場になっていた。
机の上にはノートパソコンとタブレットが並び、再生と停止を繰り返す指だけが忙しく動いている。
フォルダの数は一向に減らず、この日が、チーム光として本格的に事前選考を始める初日だった。
応募総数は1万人以上。
動画未提出や形式不備、明らかに条件を満たしていないものを除いた時点で、数はすでに3分の1近くまで減る。
経歴や動画のクオリティがすぐ見てわかるほど低いものもある。そして、そこまで削っても、「きちんと見なければならない」応募は、まだ1000件弱残っていた。
マリ姐が、画面から目を離さずに言った。
「……なんで、1000も残るのよ。
3曲フル尺で、そこそこハードル上げたつもりだったのに……」
詩音が別の端末を操作しながら答える。
「しかも、まだ増えてます。
締切直前の駆け込み提出が、かなり来てますね」
マリ姐は小さく呻いた。
「……聞いてない」
遥は黙ったまま動画を再生している。
この段階で見ているのは、才能や相性ではない。
オーディションの場に立てる、最低限の技術的なラインを満たしているか。
それだけだった。
一曲目。
問題ない。
二曲目。
少しだけ、表情が変わる。
三曲目の途中で、再生が止まった。
遥は、しばらく画面を見つめたまま何も言わなかった。
「……ここは通過でいいか」
それ以上の評価は、今はしない。
“違和感”は、まだ胸の奥にしまっておく。
詩音が、画面から目を離さずに言う。
「ぱっと見で落とせるものもあります。
演奏が途中で止まっていたり、明らかに練習不足だったり。
音が合ってないのに、最後まで修正しないものもありますね」
マリ姐は頷いた。
「そこは、まだ楽なのよ」
本当に厄介なのは、その先だった。
「でも……結構、みんなちゃんとしてますね」
詩音のその一言が、この作業の重さを物語っていた。
遥がぽつりと言う。
「光くんの影響力、ちょっと読み違えたね」
誰も否定しなかった。
動画は次へ進む。
似たような完成度。
似たような正しさ。
似たような安心感。
この段階では、それで十分だった。
詩音がふと顔を上げる。
「……これ、何人くらいまで絞る予定でしたっけ?」
マリ姐は一度だけ天井を見てから答えた。
「できれば50人くらい。
多くても、70か80」
詩音が思わず息を吸う。
「……1000から、それですか」
「ええ。
会場の都合もあるし、3日間で見るなら、それが限界よ」
遥は、次の動画を再生しながら言った。
その瞬間だった。
ドアが軽く開いて、光が顔を出す。
「……始まった?」
マリ姐が即座に返す。
「今日からよ。これ、やばいわ。覚悟しなさい」
光は室内を見回した。
机の上に並ぶ端末。
無言で再生される動画。
「あ……これ、ちゃんと選考なんだね」
「今さら何言ってるの」
光は苦笑しながら、空いている椅子に座った。
「じゃあ、俺も見る」
光がニコニコしながら動画を切り替えていく。
「……これもいい」
「お、これも好き」
「全部いい!」
30分ほどして、マリ姐がついに手を止めた。
「あんたねぇ。
選ぶ気、あるの?
いまの基準、何なのよ」
光が少し考える。
「えー……見てて楽しいか、かな?」
マリ姐は間髪入れずに返す。
「じゃあ、こう考えなさい。
もしあんたが今この演奏をしたとして、
それを自分のチャンネルにアップする?」
光は画面をもう一度見つめた。
「……え、そっか。
それなら、うーん……今のところアップするのは無いな...」
マリ姐が目を見開く。
「え。そんなに見てて、一つも?」
「うん、ゼロ」
即答だった。
マリ姐が頭を抱える。
「極端!!ゼロか100しかない、この人!」
詩音が苦笑する。
「……選別役に、致命的に向いてないですね」
マリ姐は、大きくため息をついた。
「ここは大人がやるしかないか…。あんたは好きに飽きるまで見てて良いから、もしビビッときたのがあったら言って。」
——
その少し後、部屋の空気が変わった。
隣の部屋から、ピアノの音が混じり始めたのだ。
光はいつの間にか隣の部屋の鍵盤の前に座っている。
譜面台には、なぜか開かれたノートパソコンが置かれ、演奏動画が再生されたままだった。
マリ姐が眉をひそめる。
「……あんた、何してるの?」
「PCの演奏動画とセッションして遊んでる」
光は楽しそうに言う。
「上手くない人って、
逆にリズム変わったり、
とちったりするところが、
意外と面白いんだよね」
隣で雪が、その様子を撮影しながら少し楽しそうに見ていた。
「そういえば光、
誰かと合わせて演奏する経験って、
ほとんどない気がします」
光は首を傾げる。
「んー……
ルナリアさんのバンドの人たちと、くらいかな」
マリ姐は、言葉を失った。
(……超一流で、
絶対に狂わないし、自然と合わせてくれる人たちとしか
合わせたことがない……)
嫌な予感が、背中を走る。
(……これ、
当日とんでもないことになるんじゃ……)
戦慄を隠しながら、
マリ姐は再び画面に視線を戻した。
光バンドのオーディション、
それは、もう戻れないところまで来ていた。




