第53話 カワリの逆転
【カワリ視点】
身体中を鎖でぐるぐる巻きにされ、猿轡まで噛まされたわたしは、体の大きな奴に抱えられて夜の学園の正門へ運ばれた。
門の外へ出たところで、屈強な騎士の腕へ引き渡される。
門の外には、何台もの馬車と大勢の騎士が待機していた。
その中央に、1人の男性が立っている。
獅子のたてがみを思わせる金色の髪。燃えるように赤い瞳。周囲の騎士たちよりも頭1つ高い長身からは、近づくだけで息が詰まりそうなほどの威圧感が放たれている。
「んんんんんっ!」
その姿を見た瞬間、わたしは驚愕した。
同じ学園へ通っていながら、これまで遠目でしか見たことのない高貴な存在。
身分による差別が禁じられているこの学園でさえ、誰もが自然と礼を尽くす人物。
ゼノン=ウィシュタリア。
忌々しいメイ王女の兄にして、ウィシュタリア王国の第1王子だ。
普通の場所で会っていたなら、あまりの光栄に片膝をついて礼をしていただろう。
だが、ゼノン王子から告げられたのは、断崖絶壁から突き落とされるような言葉だった。
「カワリ令嬢。貴女にかけられた疑いについては、すでに関係者から報告を受けている」
ゼノン王子は、難しい顔でわたしを見下ろした。
「これより貴女を王国へ移送する。起こったことを嘘偽りなく話してもらい、そのうえで、しかるべき裁きを受けてもらう」
「んんんんんっ!」
それは、死刑宣告にも等しかった。
冷たい汗が全身から噴き出す。
なんとしても逃げなければならない。
必死にもがこうとしたが、身体は鎖で拘束され、騎士の腕に抱えられている。指1本、自由に動かすことができない。
しかも、ゼノン王子の後ろには10人を超える騎士が控えていた。
その全員のそばを、色も形も異なる精霊が飛び交っている。
魔法騎士だ。
1人で100人の騎士に匹敵するとまで噂される、王国最強の騎士たち。
さらにゼノン王子の近くには、アーサーと、名前までは思い出せない高位貴族の子息までいる。
逃げられるはずがない。
がっくりと肩から力が抜けて抵抗をやめると、騎士は窓1つない真っ黒な護送馬車へ、まるで荷物のように身体を押し込んだ。
鎖が床へ固定され、扉が閉められる。
ガチャリ、と重い鍵のかかる音がした。
◇
ガタリ、ゴトリと馬車が走る。
車輪が石を踏むたび、身動きのできない身体が跳ね、硬い床へ打ちつけられた。
この馬車には、貴人に対する配慮など何もない。
罪を疑われている人間を運ぶための馬車なのだから、当然なのかもしれない。
けれど、脳裏に浮かんだのは、教会からニュギュウ伯爵家へ引き取られた日だった。
お父様に乗せてもらった、生まれて初めての馬車。
座席は柔らかく、身体が沈み込むほどふかふかだった。
お姉ちゃんの代わりに、これからはわたしが幸せになる。
どんな服を着よう。
どんな料理を食べよう。
これから、どれほど素晴らしい人生が待っているのだろう。
あのときのわたしは、希望に満ちていた。
それなのに。
まさか、こんなことになるなんて。
怖い。
助けてよ、お姉ちゃん。
この先に待つ人生へ絶望し、天国にいるはずのお姉ちゃんへ必死に祈った。何度も何度も、数えられないくらいに。
◇
どれほど走り続けたのだろう。
窓のない馬車の中では、時間の感覚さえ分からなくなる。
いつの間にか、馬車は止まっていた。
休憩しているのだろうか。
それとも、もう目的地へ着いたのだろうか。
しかし、扉が開く気配はない。
騎士たちの気配を探りながら、クルールの力を引き出そうとした。
マーネスに教え込まれた方法で精霊とのつながりを作ると、目の前にクルールが現れる。
俯いたまま、何も話そうとしない。出てこられるなら、さっさと助けろと無性に腹が立った。
それでも、身体強化によって力が何倍にも膨れ上がるのを感じた。これなら、並の鎖など力任せに引きちぎれるはずだ。
「んんんっ!」
だが、鎖は硬く、びくともしない。
次にクルールの風を手元へ集中させ、刃に変えて鎖へ叩きつけた。
カキン、と硬い音が鳴る。
それでも、鎖には傷1つつかなかった。
当たり前といえば当たり前だ。
これは、魔法使いを拘束するために作られた鎖なのだろう。おそらく馬車そのものにも、魔力を吸収し、外へ漏らさない仕組みが施されている。
わたしは何度も魔法を繰り返した。
けれど、結果は同じだった。
それどころか、魔法を使うたびに妙な疲労感が全身へ広がっていく。
走ったり、身体を動かしたりしたときの疲れではない。
風邪をひいて微熱が出たような、身体の芯にまとわりつく重いだるさ。
魔法を使うたびに、何か大切なものが身体から抜け落ちているような気がした。
魔法を使うというのは、これほど疲れるものなのだろうか。
分からない。
マーネスの実験を受けるまで、魔法を使ったことなどなかったのだから。
もし鎖を切ることができても、外には大勢の魔法騎士がいる。
ゼノン王子だけでなく、高位貴族の子息まで。
力を使うのをやめると、クルールも姿を消した。
お父様が助けに来てくれるとも思えない。
あの書状を見たあとでは、わたしを心配してくれているなどとは到底考えられなかった。
期待できるとすれば、マーネスや帝国の人間だけ。
けれど、あの女もわたしを実験動物のように扱っていた。
助けに来てくれるはずがない。
そう思ったときだった。
「おい、お前。聞こえているなら、小さな声で返事をしろ」
誰もいないはずの馬車の中で、男の声がした。
忘れるはずがない。
わたしを地獄へ突き落とした、悪魔の仲間の声だ。
「フガッ、フガフガ!」
返事をしようとしても、猿轡のせいでまともな声にならない。
「聞こえているみたいだな」
声は床の下から聞こえていた。
次の瞬間、硬い床板が水面のように揺らめく。
ぼちゃん、と奇妙な音が鳴り、紫色の髪をした男の顔が床から現れた。
目つきが悪く、目の下には薄い隈が浮かんでいる。
どことなく、マーネスに似ていた。
「よいしょっと……」
男は床へ両手をかけると、穴の底から這い上がるように身体を引き抜いていく。
「んんっ!?」
その姿を見たわたしは、思わず顔を赤くした。
服を何も着ていなかったからだ。
以前に見た黒装束の男――改め、全裸の男がそこにいた。
「勘違いするなよ。裸なのは俺の趣味じゃない。魔法の効果のせいだからな」
男はそう弁解しながら、わたしの猿轡を外した。
「俺はジェイク=アリゲーター。契約精霊は、バケツンだ」
ジェイクの隣には、泥の入った小さなバケツの姿をした精霊が浮かんでいた。
「俺の得意魔法は《ドボン》。どれほど頑丈な地面や壁でも、物質である限りすり抜けられる。だが、魔法の対象になるのは俺の肉体だけだ。服も武器も、身体の外にある物は全部その場へ置き去りになる」
「だから全裸なの?」
「そう言っているだろ!」
大声を出しかけたジェイクが、慌てて自分の口を押さえた。
「それで、何をしに来たの?」
声を潜めて尋ねると、ジェイクは指を1本立てた。
「まず1つ。お前に文句を言いに来た」
「……文句?」
「ああ。お前は馬鹿か? マーネス様は、たしかにあとは自由にしろと言った。だからって、馬鹿正直にメイ王女の前へ姿を現す奴があるか」
ジェイクは苛立たしげに頭を掻いた。
「そこまでは百歩譲って目をつぶってやる。だが、意気揚々と精霊を呼び出した挙げ句、ダルタンの精霊だと見破られて、追及されたらしどろもどろになって……。俺も壁の中から耳だけ出して聞いていたが、危うく笑って呼吸を乱し、壁の中で溺れ死ぬところだったぞ!」
「何を言って――!」
「わあっ、待て!」
声を荒らげかけたわたしの口を、ジェイクが慌てて手で塞いだ。
その拍子に、裸の胸板がわたしの肩へ触れる。
ふざけた言動からは想像できないほど、硬く、逞しく鍛えられた身体だった。
思えば、同年代の男性にこれほど近くで触れられたのは初めてかもしれない。
ニュギュウ伯爵に触れられたときは、いつも全身が冷たくなり、ただ早く終わってほしいと願っていた。
けれど、今は違う。
身体に触れる温もりが、なぜか嫌ではなかった。
それどころか、この絶望的な状況で、わずかな安心さえ覚えてしまう。
そう気づいた途端、顔が一気に熱くなった。
ジェイクはそんなわたしの変化には気づかず、耳元へ顔を寄せる。
「この馬車は護送用だ。襲撃に備えているのか、壁が異様に厚い。普通の会話なら外には漏れないだろうが、大声を出せばさすがに気づかれる。そうなったら、お前を助けられないだろ」
「え……。わたしを、助けてくれるの?」
「待て。それより先に、最後まで文句を言わせろ。婆さんがなんて言ったと思う?」
ジェイクは顔を引きつらせ、マーネスの口調を真似た。
「『モルモットが王国に捕まった? わたしは観察しろとは言ったけど、他人に盗られろとは言ってないよ。あんたの使えない兄さんみたいに殺してやるからね』だぞ! あの婆さん、本気で俺を殺すつもりだからな!」
婆さん?
やはり、ジェイクはマーネスの身内なのか。
目元や紫色の髪が、どこか似ていると思ったのだ。
「それより、お前の答えを聞かせろ。どうしてメイ王女の前へ堂々と出ていった? 本当に正体がばれないと思っていたのか?」
「わたしは、嘘をつくのが得意なのよ」
声を潜めながらも、わたしはジェイクを睨み返した。
「現にお父様を騙して、ニュギュウ伯爵家の養女になることだってできたわ」
「それと今回の失敗に、何の関係があるんだ?」
「ミルロに、わたしに契約精霊がいないことを知られていたのよ。あいつがいつ主人のメイ王女へ話すか……。いいえ、もしかしたら、もう話していたのかもしれない」
考え始めると、不安で何も手につかなかった。
「だから、自分の目で確かめるしかないと思ったのよ。もし疑われても、わたしなら嘘をつき通せる。そう思って……」
「それで自分から出ていって、聞かれてもいないことまで喋ったのか?」
「わたしがどれほど賢く、嘘が上手なのかを説明すると――」
「もういい」
ジェイクが手で制した。
解せぬ。
「よく分かった。お前が、俺の想像をはるかに超える馬鹿だということはな」
「なんですって?」
「こんなのを主席にしたというなら、この学園も終わりだろ。ここまで来ると、もはやコントだ」
ジェイクは呆れたように息を吐き、話を切り替えた。
「まあ、いい。《ドボン》で誰かを地面や壁の中へ連れていくことはできない。しかも難しい魔法だから、潜っている間はほかの魔法も使えない」
「なーんだ。使えないじゃない」
「あのなあ! 潜入に限れば最強クラスなんだぞ!」
ジェイクは小声のまま、器用に怒鳴った。
「《ドボン》を使っている間、俺の身体は物質の内側に作られた特殊な空間へ入る。なかなか見つけるのは難しいんだ!」
「それなら、どうやってわたしを助けるのよ?」
「これを使う」
ジェイクは口を開け、奥歯へ指を入れた。
そして、歯に偽装されていた小さな蓋を外す。
その中から出てきたのは、1粒のカプセルだった。
完全に体内へ収めた物なら、一緒に持ち込めるということか。
「婆さんからだ。飲め」
「飲めって……これを?」
全身を拘束されているため、受け取ることもできない。
ジェイクの手のひらに載せられたカプセルを、わたしは訝しげに見つめた。
「この薬を飲め。そうすれば、一時的だが今よりずっと強くなれる」
「もっと強く?」
「疑うな。婆さんの薬の効果が本物だということは、身をもって知っているはずだ。もっとも、これは新しく作られた劇薬だ。どんな副作用があるのかは、俺にも分からない」
「副作用……」
「だが、死ぬよりはましだろ?」
「わたしは……死ぬの?」
「ああ。このまま王国へ連れていかれれば、まず助からないだろうな」
ジェイクはさも面白げに笑った。
「徹底的に追及され、頭がおかしくなるまで追い詰められて、知っていることを全部吐かされる。そのあとは、未知の技術を使った人間として、身体の隅々まで調べられるだろう。最後に待っているのは、処刑か、研究材料としての死だ」
「そんな……」
「お前も薄々分かっているんだろ?」
死ぬのは嫌だ。
薬には副作用があるらしい。
それでも、飲めばすぐに死ぬわけではないはずだ。
少なくとも、わたしはそう信じたかった。
でも、強くなってどうするのよ。外には王国の魔法騎士団がいる。それに、ゼノン王子たちまで……。
もしかして、この薬を飲めば、全員を倒せるの?
口には出していない。
それなのに、ジェイクはわたしの顔を見て噴き出した。
「お前、薬で強くなれば王国騎士団を壊滅させ、ゼノン王子たちまで倒せるのかと思っただろ?」
「ど、どうして分かったの?」
「安心しろ。いくら薬で強くなっても無理だ。断言する。そもそも、お前は元が最弱クラスに弱いんだよ。少しは自覚しろ。まあ、婆さんなら全員まとめて倒しかねないけどな」
入れ替え戦では、ミルロの《ブリザードアロー》を受け、一撃で凍らされた。
噴水前で仕掛けた不意打ちはかわされ、最後にはメイ王女たちの前で何もできずに拘束された。
次々と蘇る敗北に、わたしは奥歯を噛みしめた。
「いいか。この薬を飲めば、クルールの力を今まで以上に引き出せる。鎖を引きちぎり、馬車を壊すくらいはできるはずだ」
「それから、どうするの?」
「外へ出たら、ひたすら北へ走れ。この辺りは王国北部だ。国境を越えれば、帝国軍がお前を保護する」
「騎士たちを倒さなくてもいいの?」
「だから、倒せるわけないだろ。逃げることだけを考えろ」
ジェイクは馬車の壁を指さした。
「馬車の進行方向を正面にして、右手が北だ。薬の効果は長くても15分ほど。だが全速力なら、10分もかからず国境へ着く」
「追いつかれたら?」
「クルールの風を使うお前なら、薬の力で相当な速さになる。追いつける可能性があるのは、ゼノン殿下くらいだ」
「殿下が追いついてきたら?」
「戦うな。勝てるわけがない。何度斬られても、痛みに耐えて走れ。国境さえ越えれば、お前の逆転勝利だ」
わたしは小さく頷いた。
帝国は、わたしを見捨てていなかった。
実験材料という立場は、きっと何も変わらない。
それでも、殺されるよりはましだ。
4年前、冷たくなったお姉ちゃんに触れたときの感触を、わたしは今も忘れていない。
わたしは絶対に、あんな姿にはならない。
生きてやる。
たとえ悪魔の手を取ってでも、生き抜いてみせる。
「……飲ませて」
わたしが口を開くと、ジェイクはカプセルを舌の上へ落とした。
水も使わず、無理やり飲み込む。
「もう1度言うぞ。馬車の進行方向に対して右が北だ。外へ出たら、脇目も振らずそちらへ飛べ。俺たちは帝国領で待っている」
「分かったわ」
「絶対に方角を間違えるなよ。北だぞ」
ジェイクの足元で、床が水面のように揺らめいた。
「――《ドボン》」
ジェイクの全裸の身体が、床の中へ沈んでいく。
ほどなく、姿は跡形もなく消えた。
最初は、必ず全裸になる間抜けな魔法だと思った。
けれど、姿を隠し、どんな場所へも忍び込むことができる。
改めて考えれば、とんでもない力だ。
なんて羨ましい。
そう思ったのも束の間だった。
「ぐっ……ああああっ!」
身体の奥から、これまで感じたことのない力が噴き上がった。
熱い。
焼けた鉄を血管の中へ流し込まれたように、全身が熱い。
それに呼応するように、呼んでもいないクルールが姿を現した。
しかし、様子がおかしい。
クルールは身体を折り曲げ、苦しそうにもがいていた。その小さな身体から、禍々しいほどに黒く濁った風が溢れ出している。
可愛らしかった瞳は、血のように赤く輝いていた。
速く。
誰よりも速く。
地面を走るのではない。
何者にも縛られず、自由に空を飛び回る。
思い描いたのは、風の翼だった。
その瞬間、知らないはずの言葉が脳裏へ流れ込んできた。
「――《ダース・ウイング》」
黒く濁った暴風が、わたしの背中へ集まる。
「ぐっ……あああっ!」
背中に激痛が走った。
噴き出した黒い風が、妖精を思わせる一対の翼を形作っていく。
魔法で生み出された翼だった。
それなのに、まるで身体の一部になったかのように、その動きや痛みが直接伝わってくる。
翼が大きく開いた瞬間、吹き荒れた黒い風に全身を拘束していた鎖が耐えきれず、次々と弾け飛んだ。
さらに翼を1度羽ばたかせる。
爆発した黒風が護送馬車の天井を吹き飛ばし、わたしの身体は空へ飛び出した。
「なんだ!」
「どうした!」
「囚人が脱走したぞ!」
背後から、騎士たちの声が響いた。
けれど、そんなものに構ってはいられない。
わたしは一目散に北へ飛んだ。
空を飛ぶのは初めてのはずだった。
それなのに、ずっと昔から飛び方を知っていたように、思いどおりに翼が動く。
隣を飛ぶクルールから、風の流れや翼の動かし方が、直接頭の中へ流れ込んでくるのだ。
いや。
わたしが翼を動かしているのではない。
クルールが翼を動かすたび、それに呼応して、わたしの翼も勝手に動いている。
クルールが、わたしの身体を操っている。
そんな不気味な感覚があった。
直後、背後で爆発音が鳴り響いた。
周囲が一瞬、炎で明るく染まる。
騎士たちがわたしの進路を塞ごうと、炎の魔法を放ったのだ。
だが、遅い。
炎が届くよりも早く、わたしはその射程から抜け出していた。
制止を命じる声が、みるみる遠ざかっていく。
逃げられる。
そう安堵した瞬間だった。
「――《雷鳴剣》!」
雷が落ちたような声が、夜空を震わせた。
ゼノン王子の声だ。
見てはいけないと思いながら、わたしは背後を振り返った。
地上では、ゼノン王子が雷をまとい、恐ろしい速度で駆けていた。
その傍らを、黄金の雷竜の姿をした精霊が飛んでいる。
ゼノン王子の手には、眩い雷によって形作られた一振りの剣が握られていた。
メイ様――いや、メイが《雷装》をまとったときと似ている。
そう思った次の瞬間、ゼノンの姿が視界から消えた。
「まずい!」
本能に従い、身体を大きく捻る。
直後、放たれた雷の斬撃が、黒い翼の端をかすめて飛び去った。
地上へ視線を落とす。
一瞬前まで遥か後方にいたはずのゼノンが、凄まじい勢いで距離を縮めていた。
わたしは、残された力のすべてを振り絞って飛んだ。
それでも、ゼノン王子を振り切ることができない。
背後から次々と放たれる雷の斬撃を、わたしはほとんど勘だけでかわしていた。
いや、これも違う。
わたしがかわしているのではない。
クルールだ。
隣を飛ぶクルールが身体を傾けるたび、わたしの翼も勝手に動く。
身体を捻る方向も、高度を変える瞬間も、すべてクルールに操られていた。
クルールが雄なのか雌なのか、わたしは知らない。
けれど今は、クルールとわたしの境目そのものが、少しずつ曖昧になっているように感じた。
「うっ……!」
身体中の骨が軋み、節々に激痛が走る。
クルールに強引に動かされる身体が、その速さに耐えられなくなっていた。
それだけではない。
力を引き出すたび、身体の奥から何かが削り取られていく。
馬車の中で感じた重いだるさが、今では全身を蝕むような痛みに変わっていた。
それでも、止まるわけにはいかない。
少しずつではあるが、確実に国境へ近づいていた。
やがて前方に、広大な草原を左右へ貫く、巨大な石壁が見えてきた。
ウィシュタリア王国とキルラルド帝国を隔てる国境の壁だ。
あれを越えれば、帝国領。
あそこまで行けば、わたしは助かる。
石壁まで、あとわずか。
そのとき、背後からゼノン王子の声が轟いた。
「このまま帝国へ逃がすくらいなら、やむを得ん――《雷鳴烈斬》!」
雷光が視界を白く染める。
次の瞬間、前方にゼノン王子が現れた。
転移したのではない。
雷をまとい、目で追えない速度でわたしを追い越したのだ。
ゼノン王子は一切躊躇することなく、雷鳴剣を振り下ろした。
「ちっ!」
クルールに導かれるまま、わたしは身体を捻った。
剣そのものはかわした。
そう思った直後、右半身に焼けるような痛みが走り、身体が急に軽くなった。
視界の端を、何かが落ちていく。
わたしの右腕だった。
さらに、魔法で形作られた右の翼も、斬撃に裂かれて霧散していた。
焼けた肉の臭いが鼻を突く。
雷の熱によって傷口が焼かれ、血だけはほとんど流れていない。
「いたあああああっ!」
遅れて襲ってきた激痛に、絶叫が迸った。
それでも、残された左翼が大きく羽ばたく。
黒い風を噴き出し、墜落しかけた身体を国境の向こうへ押し出した。
石壁を越え、わたしは帝国領の地面へ激しく叩きつけられた。
「がはっ!」
地面を転がり、血反吐を吐く。
息ができない。
身体中が痛い。
それでも、国境は越えた。
「はあっ、はあっ、はあっ……」
顔を上げると、ゼノン王子が石壁の上へ立っていた。
鋭い目で、帝国領へ落ちたわたしを睨みつけている。
こちらへ降りてくることはない。
国境を1歩でも越えれば、帝国への領土侵犯になるからだ。
助かった。
そう思ったのに、ゼノン王子は雷鳴剣をまっすぐこちらへ向けた。
「終わりだ――《雷鳴波》!」
雷の斬撃が、帝国領へ向けて放たれる。
避けられない。
今度こそ死ぬ。
「もう、危ないねえ。――《スネークシールド》」
女の声が響いた。
同時に、わたしの前へ巨大な蛇が現れる。
蛇は幾重にもとぐろを巻き、その巨体を盾として雷の斬撃を受け止めた。
激突した雷鳴波が硬い鱗の上で弾け、無数の光となって霧散する。
助かった。
本当に、助けてもらえた。
恐ろしいはずの姿を目にして、わたしの目から嬉し涙がこぼれた。
地獄の底へ、天使が救いの手を差し伸べてくれたように思えた。
けれど、わたしを守ったのは天使などではない。
数人の帝国騎士を従え、蛇毒のマーネスが立っていた。
◇
【マーネス視点】
躊躇なく、帝国領へ攻撃してきたねえ。
ゼノン王子が意図的にやったことは間違いない。
普通の騎士なら、その場で拘束して罪に問うこともできただろう。
けれど、相手はウィシュタリア王国の第1王子だ。
こちらも簡単には手を出せない。そこまで計算したうえでの攻撃ということか。
まあ、いい。
新しい薬の効果を見るために、直々にわたしが来ていてよかったよ。
さすがは王族。
なかなかいい魔法を持っているねえ。
わたしでなければ、大切なモルモットを殺されていたところだ。
それにしても、これが皇帝陛下のおっしゃっていた技術を基に、わたしが調整した薬の力か。
ネズミのように弱い小娘でも、逃げることだけに徹すれば、ゼノン王子に追いつかれながら国境まで到達できる。
確かにこれは、戦争そのものを覆しかねない技術だね。
兵士1人ひとりが、自分の未来を燃やして力に変える。
そんな軍隊が一斉に敵陣へ突撃すれば、これまでの戦い方など何の意味もなくなる。
とはいえ、今は効果を止めなければならない。
――《スネーク》。
心の中で、初級魔法を唱える。
わたしが得意とするのは蛇魔法だ。
想像したあらゆる蛇を、魔力によって生み出すことができる。
毒はその副産物にすぎない。
その魔法の本質は、蛇の召喚だ。
現れたのは、1メートルほどの小さな蛇だった。
魔力から生み出されたこの蛇は、肉体だけでなく、精霊へも直接触れることができる。
蛇は黒い風をまとったクルールへ飛びかかり、その細長い身体を巻きつけた。
ぎりぎりと締め上げる。
クルールの赤い瞳から、少しずつ光が失われていく。
やがて、ぐったりと力を失ったクルールは、その場から消えた。
同時に、モルモットを覆っていた黒い風も消える。
残されていた片翼が形を失い、黒い粒子となって霧散した。
これで元の姿に戻る。
そう思っていた。
「……いや、戻らないのかい?」
倒れているモルモットの身体は、大きく成長していた。
13歳だったはずの幼い顔には、大人びた輪郭が生まれている。手足も伸び、身体つきも完全に成人女性のものへ変わっていた。
見たところ、30代くらいだろうか。
もちろん、ゼノン王子に切り落とされた右腕は戻っていない。
なるほど。
生命力とは、単なる生存のためのエネルギーではなかったらしい。
この結果を見る限り、人間に残された未来――すなわち時間そのものなのかもしれない。
薬はモルモットの未来を燃やし、十数年分の力を一度に引き出した。
だから魔法が解けても、失われた時間だけは戻らない。
「これは、興味深いねえ」
このまま実験と観察を続けたい。
けれど、今は先に片づけるべきことがある。
思考を切り替え、国境の石壁に立つゼノン王子と目を合わせた。
「ゼノン王子。今の攻撃は、帝国領に対する侵犯じゃないのかい?」
「王女の護衛騎士への襲撃と、王女に対する虚偽の疑いで拘束した者が、帝国へ逃亡しようとしたのでな。抵抗も激しく、やむを得ず無力化を図った」
ゼノン王子は顔色1つ変えず、魔法で作った剣を構えたまま答えた。
「しかし、帝国三将軍のマーネス殿が保護してくれたのなら幸いだ。王国へ協力すると思って、その者の身柄を引き渡してもらえないか?」
「その凶悪な容疑者は、どんな姿をしているんだい?」
「赤みがかった茶色の髪を持つ、13歳ほどの少女だ」
「それなら、ここにはいないねえ」
「何を言っている。貴殿の足元に倒れているだろう」
「ああ、そうか。暗くて姿が見えていないんだね。誰か、松明を持っておいで」
部下の1人が、火を灯した松明を持ってくる。
赤い炎が、足元に倒れた女の姿を照らした。
「な……」
ゼノン王子が、初めて言葉を失った。
無理もない。
そこに倒れていたのは、13歳の少女ではない。
右腕を失った、30代ほどの女だったのだから。
「どうやら、貴方の探している容疑者とは別人みたいだねえ」
「その者がカワリ令嬢であることは、私がこの目で確認している」
「でも、姿が違うじゃないか。この女性は帝国領で事故に遭い、倒れていた一般人だよ。帝国軍が責任を持って保護させてもらう」
こんな理屈で、ゼノン王子を本当に騙せるとは思っていない。
だが、ここが帝国領であるという事実だけは変わらない。
「待て!」
ゼノン王子が制止する。
それでも、石壁から帝国側へ1歩を踏み出すことはできない。
たとえ戦争中ではなくても、王国の第1王子が許可なく帝国領へ入れば、明確な領土侵犯になる。
ましてや、こちらには帝国の騎士がいる。
逃亡者への攻撃だという弁明も、帝国軍が保護した相手をさらに攻撃すれば通らなくなる。
わたしたち帝国軍へ剣を向ければ、もはや容疑者の追跡では済まない。宣戦布告と受け取られても文句は言えないだろう。
さすがの第1王子でも、独断でそこまでの真似はできないはずだ。
まあ、挑んできたところで返り討ちにするだけだけどねえ。
わたしはゼノン王子に聞こえないほどの声で、部下へ命じた。
「このままだと死にそうだ。ジェイクへ連絡を入れて、アリア嬢をこちらへ呼ぶよう伝えな。学園からなら、馬を飛ばせばそう時間はかからないだろう」
「承知しました」
部下が一礼し、すぐに動き出す。
わたしは再び、足元へ倒れている女を見下ろした。
もう、モルモットと呼ぶには少し大きくなりすぎたねえ。
これからは、フェレットとでも呼ぼうか。
それにしても、面白い結果が得られた。
そうだ。
次は、こうしてみよう。
新たな実験を思いつき、わたしは楽しくてたまらなくなった。
それから踵を返し、部下にモルモット改めフェレットを運ばせて国境から離れた。




