第1話 最後の手術と、最初の契約
エンドロールが終わると、画面いっぱいに白い光が広がる。魔王の城を覆っていた暗雲は消え、朝日が昇り始めていた。
すると崩れ落ちた城壁のそばには、一人の黒髪の少女が倒れていた。
少女の名は、聖女アリア。
聖女として復活した魔王を倒し、世界を救った少女。
しかし、その代償として彼女は命を失った。
「アリア……」
弓田綾は、携帯ゲーム機の画面を見つめた。
動かなくなったアリアの姿が、病室のベッドに横たわる自分と重なる。
ゲームは、誰かが作った物語だ。
それでも、作り物の世界でさえ、この少女は救われないのか。
自分が操作してきたアリアに感情移入し、綾は初めてゲームを遊びながら涙を流した。
そのとき、アリアの周囲へ光が集まり始めた。
無数の光が重なり、最後の戦いで消滅したはずの精霊の姿を形作っていく。
光を司る唯一の精霊、ミーティア。
『これが、わたしに残された最後の力です』
「ミーティア……?」
『魔王はもういません。光の精霊としての役目も終わりました』
ミーティアは、倒れたアリアへ優しく微笑みかけた。
『だから、アリア。わたしの分まで、この世界で生きてください』
そう告げると、ミーティアの身体は金色の光の粒となった。
降り注いだ光が、アリアの身体へ吸い込まれていく。
黒い髪が、朝日を受けてわずかに揺れた。
アリアの指先が動く。
やがて閉じられていた瞳が、ゆっくりと開いた。
「嘘……わたし、生きている……?」
アリアは震える手で自分の頬や胸へ触れ、何度も呼吸を繰り返した。
そのとき、彼女の名を呼ぶ声が近づいてきた。
駆け寄ってきたのは、このルートでアリアと想いを通わせた攻略対象の青年だった。
よかった。
本当に生きている。
これでアリアは、大好きな人と一緒にいられる。
アリアは立ち上がると、青年の胸へ飛び込み、抱き合ったまま口づけを交わした。
二人の姿に重なるように、金色の文字が浮かぶ。
『THE END』
「……よかった。本当に」
小さくつぶやくと、胸の奥から熱いものが込み上げた。
感動したから――だけではない。
ちゃんと最後まで見届けられた。
そのことに、綾はほっとしていた。
携帯ゲーム機を胸の上に置く。
細くなった腕には点滴の管がつながり、指先は自分のものとは思えないほど白い。
入院中の暇つぶしにと、友人が貸してくれた女性向け恋愛RPG、『マナアース―フェアリーデイズ―』。
魔法も剣も使えない綾だったが、画面の中では仲間たちに指示を出し、何度もの窮地を乗り切った。
回復薬を使う順番も、敵との間合いも、弓使いを立たせる位置も、一手だって妥協しなかった。
勝つために考えることなら、昔から得意だった。
けれど、現実にいる敵だけは倒せなかった。
食道がん。
医師から病名を告げられたのは、高校二年になってすぐのことだ。
十六歳。
前年には、弓道の全国大会で優勝した。
弦を引き絞ったときの、張りつめた静けさ。
指先から矢が離れる、あの一瞬。
遅れて聞こえる、乾いた的中音。
綾の世界の中心には、いつだって弓があった。
それが、喉の違和感一つから崩れていった。
食べられなくなり、立てなくなり、弓を引くためにつくり上げた身体は見る影もなく痩せた。
そして今日、成功する見込みは低いと告げられた手術を受ける。
病室の扉が、控えめに二度鳴った。
「弓田さん、お時間です」
看護師の穏やかな声に、綾の心臓が跳ねた。
怖い。
その二文字が、ゲームを終えるまで閉じ込めていた場所から、一気にあふれ出す。
「……はい」
返事は、情けないほどかすれていた。
看護師の後ろには、両親がいた。
母は笑おうとして、失敗していた。
父は、いつもと同じ顔をつくっているつもりなのだろう。けれど、握り締めた拳だけは隠せていない。
綾は二人を安心させたかった。
大丈夫、と言いたかった。
けれど、嘘でもその言葉だけは口にできなかった。
代わりに、ゲーム機を母へ差し出す。
「これ、沙耶に返しておいて。クリアしたって伝えて」
「綾が、自分で返しなさい」
「……そうだよね。明日があるもんね」
母の返事に、綾は笑った。
自分で返す。
そのための明日がある。
その約束が、今は何より心強かった。
手術室へ向かう廊下で、天井の白い照明がいくつも流れていく。
逃げたい。
泣きたい。
まだ死にたくない。
全国大会の決勝でさえ、こんなに震えなかった。
あのときは、外しても次があった。
けれど、今日は一射きりだ。
手術台の上で、酸素マスクが顔を覆う。
麻酔科医が、ゆっくり数を数えるよう促した。
綾は目を閉じる。
浮かんだのは、先ほど見た青年でも、アリアでもなかった。
弓だった。
もう一度、弓を引きたい。
もう一度、自分の足で射場に立ちたい。
もう一度、父と母のいる家へ帰りたい。
(生きたい)
願いは、最後まで声にならなかった。
意識が沈む寸前、耳の奥で弦音に似た何かが響いた。
――ひどく、澄んだ音だった。
◇
「次。ミルロさん」
名前を呼ばれ、水色の髪をした少女は顔を上げた。
冷たい石造りの礼拝堂。
色鮮やかな窓から差し込む光。
磨かれた床の上では、少女の汚れた裸足だけが場違いに浮いている。
周囲の大人たちは、彼女が通る分だけ露骨に距離を取った。
「あの子、路地裏の……」
「どうせ契約などできないわ」
「服に触れないようにね」
ささやき声は、聞こえないふりをした。
そうすることには慣れていた。
物心ついた頃から、ミルロは王都の片隅で一人きりで生きてきた。
雨をしのげる軒下を探し、店先から捨てられた食べ物を拾い、眠るときには靴を抱えた。
目を離せば、それさえ盗まれるからだ。
もっとも、その靴も今では小さくなり、履くことさえできなかった。
今日、この教会へ来たのも、十歳の子供なら誰でも精霊契約の儀式を受けられると聞いたからだった。
今日は一年に一度、人間の世界と精霊の世界が最も近づく特別な日――《フェアリーデイズ》。
人間が精霊と契約を結べる、唯一の日だ。
今年十歳を迎えた子供たちは、身分にかかわらず、この日に教会を訪れて精霊との契約を試みることができる。
精霊と契約できれば、魔法が使える。
魔法が使えれば、こんな暮らしから抜け出せるかもしれない。
けれど、先に水晶へ触れた平民の子供たちは、一人も精霊を呼べなかった。
その中には、ミルロと同じように汚れた服を着た少女もいた。
少女は列の端に立ち、祭壇へ向かうミルロの背中を何気なしに見つめている。
祭壇の前に立つ神官も、ミルロには初めから期待していないようだった。
「手を」
短い言葉に従い、祭壇の水晶へ右手を伸ばす。
ひび割れた爪。
傷だらけの指。
隣に並んでいた普通の子供たちとは、何もかも違う手だった。
(お願い)
ミルロは祈った。
(わたしを、ここから連れ出して)
指先が水晶に触れる。
その瞬間。
礼拝堂が、青白い光に呑まれた。
「なっ……!」
誰かの叫び声が上がる。
水晶の内側で吹雪が渦を巻き、祭壇から床へ白い霜が走った。
窓から差していた陽光さえ凍りついたように、辺りが静まり返る。
その静寂を切り裂くように、ミルロの頭の中へ知らない光景が流れ込んできた。
弓。
白い病室。
泣きそうな母の顔。
携帯ゲーム機の画面。
そして、どうしても生きたいと願った、最期の瞬間。
「あ――」
二つの人生の記憶が、一度に重なった。
あまりにも多くの記憶を受け止めきれず、ミルロは糸の切れた人形のようにその場へ倒れた。
青白い光に、誰もが目を奪われている。
列の端に立っていた少女も、水晶ではなく、倒れたミルロを見つめていた。
◇
目を覚ましたとき、最初に気づいたのは、痛みがないことだった。
喉が痛くない。
胸も苦しくない。
息を吸う。
ただそれだけで、冷たい空気が身体の隅々まで満ちていく。
「成功……した?」
声が出た。
少し高く、聞き慣れない声だったが、かすれてはいない。
綾は上体を起こした。
身体が驚くほど軽い。
ベッドから降りても、膝は震えなかった。
「お父さん、お母さん……!」
両親を探して狭い部屋を見回し、壁に掛けられた鏡の前で足が止まる。
そこに、弓田綾はいなかった。
映っていたのは、十歳ほどの少女だ。
腰まで伸びた水色の髪は絡まり、頬は痩せこけている。
大きな赤い瞳だけが、呆然とこちらを見返していた。
「……誰?」
震える手で頬に触れる。
鏡の中の少女も、同じ場所へ触れた。
誰なのか、本当はもう知っていた。
弓田綾として生きた十六年間とは別に、この身体で生きた十年間の記憶がある。
少女の名は、ミルロ。
家族を知らず、王都の路地裏で生き延びてきた孤児。
「やっと起きたのね。よかった」
幼い声が聞こえ、綾――ミルロは振り返った。
宙に、小さな少女が浮かんでいる。
背丈は三十センチほど。
見た目は五、六歳くらいだろうか。
雪のように白い髪と肌に、純白の着物。
袖の周囲では、細かな氷の粒が星のようにきらめいていた。
小さな少女は、安心したように笑ってから、少しだけ得意げに胸を張った。
「わたしはユキメ。雪と氷を司る精霊よ。あなたの願いが聞こえたから、あなたと契約したの」
「ユキメ……?」
その名前を口にした途端、綾の記憶の中で何かがつながった。
見覚えがある。
この精霊を知っている。
そして、水色の髪に赤い瞳を持つ、ミルロという少女のことも。
前世で最後に遊んでいたゲーム、『マナアース―フェアリーデイズ―』。
物語の序盤、淡い紫色の髪をした公爵令嬢の後ろに立っていた、名前のある端役。
主人公たちの前に中ボスとして現れて敗北し、やがて戦争で命を落とす少女。
画面に表示されていた名前は――ミルロ。
「嘘、でしょう……?」
手術は成功していない。
弓田綾は、あの日、十六歳で死んだ。
そして、この世界へミルロとして転生していた。
十年間をミルロとして生き、精霊と契約した今、前世の記憶を取り戻したのだ。
それだけではない。
ミルロは、ゲームの物語が進めば戦争で命を落とす。
わたしは、二度目の人生でも死ぬ運命にある少女へ転生していた。




