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蒼の樹海の魔素使い——魔法が使えない少年は、世界の秘密を視ていた  作者: 蒼月よる


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第55話 新しい約束

第十四話 新しい約束


 金属板の回路が——光り始めた。


 クロードが刻んだ微細な線の一本一本が、蒼い光を放っていた。四千年間眠っていたプログラムが、起動している。金属板の表面に集積されたナノマシン回路が、AIの承認を受けて活性化した。

 僕は金属板を球体の表面に押し当てた。二つの光が混ざり合った——球体の白い光と、金属板の蒼い光。接触面から、情報が流れ始めた。


「回路接続を確認」

 ルークさんが球体の表面を監視しながら言った。

「プログラムコードがAIの命令体系に転送されている。——始まったぞ」


 僕は啓視で、その過程を見ていた。


 金属板から読み出されたプログラムコードが、球体のインターフェースを通じてネットワーク全体に送信されていく。楔の中枢から、まず最も近いノードに。ノードからノードへ。レフカの地下回路を伝って、街の外へ。地下を走る通信路を通じて、大陸全土のノードへ。

 命令体系の書き換えが——始まった。


 でも、僕だけでは足りなかった。

 プログラムコードをAIに送るだけなら、金属板の回路が自動で行う。しかし——AIの命令体系に実装するには、各ノードでの書き換え作業をAIが受け入れる必要がある。受け入れるためには、観測者からの継続的な信号が必要だった。

 つまり——僕の啓視が、書き換えが完了するまでの間、ネットワーク全体と接続し続けなければならない。


「ルークさん——僕がコードの入力をサポートする。各ノードの書き換えが正しく行われているか、啓視で確認しながら進める」

「分かった。俺は物理側で回路の安定を維持する。——行け」


 僕は目を閉じた。——いや、閉じたのかどうか分からなかった。目を閉じても、啓視は消えなかった。もう、まぶたを閉じてもネットワークが見える。それが——今の僕の目だった。


 最初のノードが書き換わった。


 レフカ直下のノード。楔から最も近い大規模ノード。命令体系の第三モードが追加された。「禁止」と「放任」の間に、「条件付き許可」が挿入された。

 ノードの回路パターンが——変わった。啓視で見ると、回路の色調が微かに変化していた。冷たい白から、わずかに温かみを帯びた光に。


 次のノード。レフカ南方、灰枝に近い地下のノード。書き換え完了。

 その次。デルガ港の地下。海底の通信路を経由して——完了。

 灰原の地下ノード。かつて神罰で滅ぼされた国の跡地に眠るノード。ここにも第三モードが追加された。五十年前に灰原を滅ぼした安全装置のプロトコルが——書き換えられていく。


 世界中のノードが、順番に反応していった。


 まるで——夜明けのようだった。

 地平線から太陽が昇るように、ネットワークの端からプログラムの書き換えが広がっていく。ノードが一つ書き換わるたびに、小さな光が灯る。その光が次のノードに伝播する。連鎖して、広がって、大陸全土に波紋のように広がっていく。

 僕の啓視に——世界地図が映っていた。ナノマシンネットワークの全容。無数のノードが、一つまた一つと、新しい光に変わっていく。


 体が震えていた。


 情報量が限界を超えていた。全てのノードの書き換え状況を同時に監視しながら、AIとの接続を維持し続ける。脳が沸騰しそうだった。鼻血が止まらない。視界が何度も白く飛んだ。

「脈拍百六十! ——限界に近い」

 ミラさんの声。遠い。でも聞こえる。

「鎮痛剤、追加します——」

 首筋に冷たい感触。薬が浸透して、頭痛が少しだけ引いた。

「安定化場を強化——」

 セラスさんの光が強まった。体を流れる魔素の暴走が、聖騎士の光で抑え込まれた。

「流入量をさらに絞る——ユーリ、耐えろ」

 ルークさんの声。回路が調整される感覚。情報の濁流が、少しだけ細い水路に収まった。


 耐えた。


 書き換えが——大陸の半分に達した。


 そのとき——啓視で、変化が見えた。


 レフカの上空。


 安全装置のプロトコルが——減速していた。神罰のカウントダウンが、遅くなっている。命令体系の書き換えが進むにつれて、AIの安全装置が「条件付き許可」モードに移行し始めていた。即座の発動から——警告と猶予のプロセスに切り替わりつつある。

 植物の暴走が——鈍くなった。

 蒼い蔓草の成長速度が、目に見えて落ちている。街を覆っていた植生の拡大が——止まり始めた。

 魔素濃度が——下がり始めた。爆発的に上昇していた空気中のナノマシン密度が、正常値に向かって緩やかに低下している。

 嵐が——弱まった。黒い雲の渦が薄れ、雲の切れ間から——暗い空が覗いた。


 ナギさんの声が通信具から弾けた。

「おい——何が起きている! 蔓草が止まったぞ! 嵐が——弱まっている!」

 ナギさんの声は——震えていた。皮肉屋の声ではなかった。信じられないものを見ている人間の声だった。

「イレーネの魔法じゃない。イレーネはもう限界を超えている——それなのに、神罰が——止まりかけている!」


 書き換えが——七割に達した。


 レフカの街で、人々が顔を上げていた。

 啓視で見えた。蔓草に覆われた街路で、逃げていた市民たちが足を止めていた。空を見上げていた。嵐の雲が裂けて、その向こうに——暗い夜空が見えた。星が瞬いていた。

 港で船に乗り込んでいた人々が、甲板に出て空を見ていた。

 南東門の近くで戦っていた冒険者たちが、魔獣の群れが後退していくのを呆然と見ていた。魔素の乱れが収まると共に、魔獣たちの狂暴化が解けていく。蒼牙狼の群れが——踵を返して樹海に帰っていく。


 カイさんが——空を見上げていた。

 東区画の蔓草の壁の前で。大剣を地面に突き立て、両手で柄を握ったまま。革鎧はぼろぼろで、左腕に布を巻いていた。血が滲んでいる。汗と泥と血にまみれた顔で——空を見上げていた。

 雲が裂けた先に、星が見えた。


 書き換えが——九割に達した。


 大陸全土のノードが、ほぼ全て新しいモードに切り替わった。残りは辺境のいくつかの小規模ノード。


 安全装置のカウントダウンが——停止した。


 神罰が——止まった。


 世界中のナノマシンネットワークが、新しい命令体系に移行した。「禁止」と「放任」の二択から、「条件付き許可」を含む三択へ。四千年間続いてきたプロトコルが——書き換えられた。


 最後のノードが書き換わった瞬間——僕の啓視に、AIからの信号が届いた。

 承認のパターン。実装完了の報告。

 そして——もう一つ。


 感謝、ではなかった。AIに感謝の概念はない。

 でも——四千年間の疑問に対する、一つの解が得られたことへの——認知の信号。

 「新しいデータに基づく判定。最適解の再計算を開始する」

 AIは——これからも考え続ける。人類を管理するのではなく、観測しながら、考え続ける。


 僕は——球体から手を離した。


 手が——金属板の上からずり落ちた。体に力が入らなかった。膝が折れた。床に崩れ落ちた。

 天井が見えた。楔の岩盤の天井。蒼い回路の光が走っている。でも——その光の色が、少しだけ変わっていた。冷たい白から、温かみのある蒼に。


「ユーリ!」


 ミラさんの声が頭上から降ってきた。ミラさんの顔が見えた。泣いていた。涙が頬を伝って、僕の顔に落ちた。温かかった。

「脈——確認。呼吸——あり。意識——」

「……ある」

「ユーリくん! ユーリくん、聞こえる?」

「……聞こえてる。ミラさん——泣いてる」

「泣いてないよ! ——泣いてるけど! 薬! 薬飲んで!」

 緑の布の薬瓶が唇に押し当てられた。魔素酔い止め。苦い液体が喉を流れた。


 ルークさんが僕の隣に膝をついていた。

「書き換え完了を確認した。全ノード——正常稼働。命令体系の第三モード、実装済み。——やったぞ、ユーリ」

 ルークさんの声が——震えていた。冷静な分析者の声ではなかった。

「クロードの修正案が——四千年を経て、実装された。——信じられない」


 セラスさんが光を解除した。安定化場が消えて、周囲の空気が少しだけ冷たくなった。

 セラスさんは——壁に背をつけて座り込んでいた。疲労で顔が青白い。安定化場を長時間維持し続けた消耗。でも——目は穏やかだった。

「神の——意志が、変わったのですね」

 セラスさんが静かに言った。

「いえ——神の命令が、更新されたのですね。人間の手で。人間の意志で」

「……セラスさん」

「信仰は——変わりません。でも——信仰の意味が、変わりました」


 楔の入口の方から——足音が響いた。


 たくさんの足音。駆けてくる音。

 そして——声。


「ユーリ!」


 カイさんの声だった。


 中枢の部屋に飛び込んできた。全身泥と血にまみれていた。革鎧の左肩が裂けていた。髪が汗で額に張り付いていた。でも——目は生きていた。あのギラギラした、金牌の冒険者の目。

 カイさんが僕を見た。床に倒れている僕を。


「ユーリ! ——おい、大丈夫か」


 カイさんが駆け寄って、僕の体を抱き起こした。乱暴で、でも——ものすごく優しい手つきだった。

「鳴ったぞ。空が。何かが——変わった。嵐が止んで、蔓草が止まって、狼が逃げて。——お前がやったのか」

「……みんなが、やったんだよ。僕は——見てただけ」

「嘘つけ。鼻血だらけじゃねえか。目も——」

 カイさんが——僕の顔を覗き込んだ。そして、息を呑んだ。

「……目が、変わってるぞ」


 ミラさんが駆けつけて僕の顔を診察した。両手で僕の頬を包み、目を覗き込んだ。

「瞳の色が——前と違う。前はもっと暗い色だった。今は——少し、蒼みがかっている。ユーリくん、ちゃんと見える?」

「見えるよ」

 見えていた。全部、見えていた。

「……前より、もっとたくさんのものが見える」


 ミラさんの顔が見えた。涙の跡がついた頬。薬草の汁で染まった指先。遺物ブレスレットの光。そして——ミラさんの体内を流れる魔素の、淡い緑色の光。低い適合度ながら、治癒の力を持つナノマシンとの繋がり。

 カイさんの顔が見えた。傷だらけの肌。体内の魔素はほとんどない。魔法素養ゼロ。でも——体の隅々まで鍛え上げられた筋肉が、物理的な力として光っていた。

 ルークさんが見えた。遺物のレンズの中のナノマシン回路。知識で世界を解読する人間の——思考の輝き。

 セラスさんが見えた。体内の高い適合度。ナノマシンとの強い共鳴。聖騎士の光の——本当の意味。


 全てが見えた。物理的な世界と、ナノマシンネットワークの世界が、完全に重なって。二つの世界が一つに溶けた視界。これが——これからの僕の目。


 楔の入口から——さらに人が来た。


 イレーネだった。

 支えられながら歩いてきた。聖騎士二人に左右から腕を取られ、足元がおぼつかない。大魔法の消耗が凄まじかったのだろう。銀に近い髪が乱れ、法衣に泥がついていた。五十代の大神官の——疲れ果てた姿。

 しかし目だけは——澄んでいた。


 イレーネが中枢の部屋を見回した。球体の変化した光。床に座り込む僕たち。金属板。

「……終わったのですか」

「はい」

 僕は答えた。

「終わりました。修正案が——実装されました」

 イレーネが——長い溜息をついた。壁に手をつき、ゆっくりと膝を折り、座り込んだ。


「彼女は……クロードは、こうなることを——信じていたのですか」

「分かりません。でも——可能性は、残してくれていました」

「……彼女よりも、この子のほうが人類を信じている」

 イレーネの目が——僕を見ていた。

「クロードは修正案を用意しましたが、自分では実行しなかった。実行する人間を——信じて、待っていた。四千年間。そしてこの子が——ただの辺境の少年が——それを成し遂げた」


 イレーネが目を閉じた。しばらくの沈黙。


「これが正しいかどうかは分かりません。四千年の秩序を変えたのです。何が起きるか——誰にも予測できない」

 イレーネが目を開いた。

「でも——現状維持より、希望がある。そう思いますよ」


 通路の奥から、もう一つの足音が聞こえた。

 ヴェルナーだった。


 灰色の軍服が泥と煤で汚れていた。市民の避難を指揮していたのだろう。目が赤く、頬がこけていた。睡眠も食事も取っていない顔。

 ヴェルナーが球体を見上げた。変わった光。新しい回路パターン。金属板。

 そして——ルークさんの説明を聞いた。修正案の内容。命令体系の書き換え。第三モード。監視付き発展。


 ヴェルナーの目が——変わった。


 罪の意識は消えていなかった。自分が引き金を引いたことへの後悔は、ヴェルナーの目の奥に深く沈んでいた。でも——同時に、技術者としての感動が、そこにあった。

「これは……」

 ヴェルナーの声が震えていた。

「この世界を変えるプログラムだ。四千年間の——命令体系を。一人の研究者が。たった一枚の金属板に。物理的に刻んで——」

 ヴェルナーが金属板を見つめた。

「私は——同じことをしようとしていた。灯台計画で。ネットワークを制御して、禁忌を無効化して。でも——方法が間違っていた。力ずくで書き換えようとした。AIの同意を得ずに。だから——安全装置が発動した」

「ヴェルナーさん」

「クロードは——AIに同意を求めた。強制ではなく、対話で。それが——正しい方法だったのか」

 ヴェルナーが目を閉じた。

「二度と——同じ過ちは犯しません」


 僕は——窓のない楔の中枢で、天井を見上げた。岩盤の向こうは見えない。でも——啓視で見えた。

 レフカの空。

 嵐の雲が晴れていく。東の空が——白んでいた。


 朝が来る。


 啓視の視界を広げた。レフカの街を見た。

 蔓草は止まっていた。成長が完全に停止している。建物を覆った蔓は——枯れ始めていた。魔素の過剰供給が止まり、異常成長した植物が自然に萎んでいく。

 街路に出た市民たちが——空を見上げていた。雲の切れ間から、朝日が差し込み始めていた。

 金色の光が、蔓草に覆われたレフカの街を照らした。蒼い葉と金色の朝日。奇妙に美しい光景だった。


 港から戻ってきた船の甲板で、漁師が朝日を見て泣いていた。

 南東門の前で、冒険者たちが武器を下ろして笑い合っていた。

 ギルド本部の広場の臨時救護所で、横たわっていた人々が起き上がって空を見ていた。

 子供が母親の手を引いて、「きれいだね」と言った。


 僕も——泣いていた。


 カイさんが僕の肩を叩いた。強く。

「よくやった」

 短い言葉。でも——それで十分だった。


 朝日が昇る。

 新しい世界の、最初の朝が。


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