表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
蒼の樹海の魔素使い——魔法が使えない少年は、世界の秘密を視ていた  作者: 蒼月よる


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

52/56

第52話 ユーリの選択

第十一話 ユーリの選択


 怖い。


 球体に触れた瞬間から、その感情はずっと胸の底に沈んでいた。意識の隅に追いやっていただけで、消えてはいなかった。啓視で見える世界の全てが——膨大で、複雑で、途方もなくて、自分にはとても支えきれないほど重かった。

 でも——やらなきゃいけない。

 球体の脈動が、さらに速くなっている。安全装置の最終フェーズが迫っていた。イレーネの遅延魔法が限界に近づいている。啓視で見える大神官の魔力の灯が、目に見えて弱くなっていた。残り時間は——たぶん、一時間もない。


 ナギさんから通信が入った。


「地上の状況を伝える。——良くない」

 ナギさんの声は低く、早かった。

「港への避難は七割ほど完了。だが東区画が蔓草で完全に塞がれた。取り残された市民が三百人以上いる。カイが冒険者たちを率いて救出に向かっている。ミラは薬が尽きて、治癒魔法だけで回している。あいつの魔力も長くは持たない」

「ナギさん——」

「聖騎士団が楔の入口を死守しているが、魔獣の群れが増え続けている。ヴェルナーの軍は市民の避難に回った。——やるなら、今だ。今しかない」


 通信が切れた。


 僕は球体の前に立っていた。白い光が脈動している。その奥に——AIの問いかけのパターンが、繰り返し送られてくる。

 答えを求めている。

 対話を——求めている。


「ルークさん」

 僕は声を出した。自分の声がひどく頼りなく聞こえた。

「これから——ネットワーク全体に接続する。今は球体を通じて部分的に啓視が繋がっているだけだけど、全身の啓視を解放すれば——もっと深くアクセスできる。AIと直接対話するには、それが必要だ」

 ルークさんが眼鏡を押し上げた。遺物のレンズが球体の光を反射した。

「理論的には分かる。お前の眼球内のナノマシンを、ネットワーク全体の通信帯域に開放する。受信だけでなく、送信も行う。——つまり、お前自身がネットワークの端末になる」

「うん」

「リスクは分かってるな。今でも視覚の変容が起きている。全面的に接続すれば——」

「……分かってる」

 元に戻れないかもしれない。いや、たぶん——戻れない。


 ルークさんが僕の肩に手を置いた。力強い手だった。

「俺がインターフェースの回路を調整する。お前に流れ込む情報量を、可能な限り整理する。濁流をそのまま浴びせるんじゃなく——水路を作る。流れを制御する」

「……ありがとう」

「礼は成功してから言え」


 セラスさんが一歩前に出た。

 白い装束に、球体の蒼い光が映り込んでいた。両手を胸の前で組んでいる。聖騎士の祈りの構え。でも——その瞳は、祈りではなく決意に満ちていた。

「私の適合度を使います。あなたの体を通る魔素が暴走しないよう——光で制御します」

 セラスさんの手が淡く光った。短詠唱で呼び出した魔素——ナノマシンの制御場。それが僕の周囲に薄い膜のように広がった。体に触れると、少しだけ温かかった。

「聖騎士の光は、本来は浄化のためのもの。でも——魔素の流れを安定させることもできます。あなたが嵐の中にいるなら、私がその嵐を凪にします」

「セラスさん——」

「素が出てすみません。でも——今は敬語を使ってる場合じゃないので」

 セラスさんが、ほんの少しだけ笑った。初めて見る笑顔だった。


 通路の奥から、足音が駆けてきた。

 ミラさんだった。


 息を切らして、薬草鞄を肩から下げて、走ってきたミラさんが中枢の部屋に飛び込んできた。頬に泥がついていた。服の袖に血痕がある。自分の血ではなく、治療した患者のものだろう。遺物ブレスレットが手首で光っていた。

「ミラ——お前、救護所は」

 ルークさんが驚いた声を上げた。

「ナギさんに任せてきた。——ユーリくんのほうが大事」

 ミラさんが僕の前に立った。額に汗が浮いている。でも目はまっすぐだった。

「ユーリくん。何をするのか、聞いた。ナギさんから」

「……うん」

「じゃあ、私は——あなたの体を診る。脈を測って、体温を管理して、限界が来たら薬を使う。治癒魔法で負担を軽減する。——あなたが帰ってこられるように、私がこっち側で待ってる」

 ミラさんが鞄から薬瓶を取り出した。三つ。蓋に色の違う布が巻いてある。

「赤が強壮剤。青が鎮痛剤。緑が魔素酔い止め。全部、残りの材料で作れる分だけ持ってきた。——最後の在庫」

「ミラさん……」

「薬師が最後の薬を使うときはね、一番大事な患者のためって決まってるの」

 ミラさんが笑った。いつもの明るい笑顔。でも——声の端が、微かに震えていた。


 ナギさんの声が通信具から聞こえた。

「こっちは大丈夫だ。救護所はギルドの連中に引き継いだ。——俺は地上から情報を送り続ける。レフカの状況、神罰の進行、イレーネの魔法の残り時間。お前が中に入っている間、外の目は俺が担当する」

「ナギさん」

「皮肉は後で言ってやるから。——まず、生き残れ」


 四人が、僕を囲んでいた。


 ルークさんがインターフェースの回路を調整している。精密な道具で球体の表面を操作し、情報の流路を整えている。

 セラスさんが光の膜を僕の体に張り巡らせている。魔素の安定化場。暴走を防ぐ盾。

 ミラさんが僕の手首を取って脈を測っている。指先が冷たかったけれど、触れていてくれることが心強かった。

 ナギさんが通信具の向こうで、レフカの空の色を語っている。蒼い光と黒い雲。稲妻の頻度。風の方角。


 そして——カイさん。


 啓視で見えた。

 カイさんはレフカの東区画にいた。蔓草に塞がれた路地の中で、大剣を振るい続けていた。取り残された市民を背に庇い、押し寄せる蒼牙狼の群れと戦っていた。革鎧のあちこちが裂けている。左腕から血が流れている。でも——止まらなかった。

「道を開けろ! ここを通すんだ!」

 カイさんの叫び声が、啓視を通じて僕の耳に届いた。蔓草を斬り、狼を蹴散らし、市民を走らせている。背後から子供の泣き声。カイさんがその子を片腕で抱え上げ、大剣を片手で握り直した。

「泣くな! 死なせねえから!」

 下水道のガキだったカイさん。何もできなかった少年だったカイさん。今——誰よりも強く、誰よりも速く、人を守っている。

 カイさんは僕を見ていなかった。楔の中にいる僕を見ることはできなかった。でも——分かっている。カイさんは知っている。僕がここで何をしようとしているか。

 だから、外を守っている。僕が内側でやるべきことに集中できるように。


 涙が出そうになった。

 堪えた。


「準備できた」

 ルークさんが言った。

「回路の流路を最適化した。情報の流入量をある程度コントロールできる。——完璧じゃないが、これが俺にできる最善だ」

「安定化場、展開完了です」

 セラスさんが言った。光の膜が僕の全身を薄く包んでいた。温かい。

「体温三十六度八分。脈拍九十二。——少し速いけど、許容範囲。強壮剤、飲んで」

 ミラさんが赤い布の薬瓶を差し出した。僕はそれを受け取り、蓋を開けて一口飲んだ。苦い。樹海の薬草の味がした。でも——飲み込むと、体の芯がじわりと温まった。

「ありがとう」

「帰ってきてね、ユーリくん」

 ミラさんが僕の手を握った。強く。

「——約束だよ」

「……約束する」


 僕は球体に向き直った。


 白い光が脈動している。その奥に、四千年前から続くプログラムの全容がある。AIの問いかけのパターンが、途切れることなく繰り返されている。答えを——求めている。

 怖い。

 手が震えている。足も。

 啓視で見える世界は広すぎる。大陸全土のネットワーク。無数のノード。何千億ものナノマシン。その中心にいるAIの構造体。全てが同時に見えている。僕の脳には、この情報量は大きすぎる。


 でも——。


 カイさんが、街を守っている。

 ミラさんが、僕の手を握ってくれた。

 ルークさんが、水路を作ってくれた。

 セラスさんが、盾を張ってくれた。

 ナギさんが、目になってくれている。

 イレーネが、時間を稼いでくれている。


 一人じゃない。


 僕はインターフェースの球体に、両手を押し当てた。

 指先が白い光に沈んだ。掌が光に触れた。温かくはなかった。冷たくもなかった。温度のない、純粋な——信号だった。


 全身の啓視を、解放した。


 世界が——裂けた。


 天井が消えた。壁が消えた。床が消えた。楔の岩盤が消えた。レフカの街が透けて見えた。大陸が見えた。海が見えた。空の向こうの気象AIの活動が見えた。

 全てのノードが、僕と繋がった。

 全てのナノマシンが、僕の視界に入った。

 世界が——一つの巨大な回路として、僕の目の前に広がった。


 痛い。


 目が燃えるように痛かった。頭蓋骨の内側を誰かがやすりで削っているような痛み。鼻血が出た。口の中に鉄の味が広がった。視界が白く飛んだ。

「脈拍百三十八! ——鎮痛剤を」

 ミラさんの声が遠くから聞こえた。首筋に冷たい液体が塗られた。ミラさんが薬を直接皮膚に塗り込んでいる。鎮痛の成分が浸透して、頭痛が——少しだけ和らいだ。

「回路の流入量を絞る——」

 ルークさんの声。球体の表面で何かが操作される音。情報の洪水が——水路に誘導されて、少しだけ整理された。

「安定化——」

 セラスさんの光が強まった。体を流れる魔素が、暴走しかけていたのを押さえ込まれた。


 視界が——戻った。

 二重ではなく、もう三重だった。

 物理的な視覚。啓視のネットワーク。そしてその奥に——AIの思考パターンの海。

 三つが重なって、混ざり合って、境界が溶けている。

 通常の視覚と啓視の区別が——もう、つかなくなっていた。


 これが——不可逆の始まりだった。


 目が変わっている。もう元には戻らない。球体から手を離しても——たぶん、この視界は消えない。ネットワークとの接続が、僕の目の組織レベルで定着してしまった。

 知っていた。覚悟していた。

 でも——実際にそうなると、やっぱり怖かった。


 球体の奥から——AIの信号が、もっと強くなった。

 問いかけのパターン。繰り返しの。反復の。

 でも今度は——ただの問いかけではなかった。

 招きだった。

 対話への——招き。


「……行く」

 僕は呟いた。声になったかどうか分からない。

 意識が球体の奥に引き込まれていく。ネットワークの深部に。AIの構造体に向かって。


 背中にミラさんの手の温もりを感じながら——僕は、神の領域に踏み込んだ。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ