第52話 ユーリの選択
第十一話 ユーリの選択
怖い。
球体に触れた瞬間から、その感情はずっと胸の底に沈んでいた。意識の隅に追いやっていただけで、消えてはいなかった。啓視で見える世界の全てが——膨大で、複雑で、途方もなくて、自分にはとても支えきれないほど重かった。
でも——やらなきゃいけない。
球体の脈動が、さらに速くなっている。安全装置の最終フェーズが迫っていた。イレーネの遅延魔法が限界に近づいている。啓視で見える大神官の魔力の灯が、目に見えて弱くなっていた。残り時間は——たぶん、一時間もない。
ナギさんから通信が入った。
「地上の状況を伝える。——良くない」
ナギさんの声は低く、早かった。
「港への避難は七割ほど完了。だが東区画が蔓草で完全に塞がれた。取り残された市民が三百人以上いる。カイが冒険者たちを率いて救出に向かっている。ミラは薬が尽きて、治癒魔法だけで回している。あいつの魔力も長くは持たない」
「ナギさん——」
「聖騎士団が楔の入口を死守しているが、魔獣の群れが増え続けている。ヴェルナーの軍は市民の避難に回った。——やるなら、今だ。今しかない」
通信が切れた。
僕は球体の前に立っていた。白い光が脈動している。その奥に——AIの問いかけのパターンが、繰り返し送られてくる。
答えを求めている。
対話を——求めている。
「ルークさん」
僕は声を出した。自分の声がひどく頼りなく聞こえた。
「これから——ネットワーク全体に接続する。今は球体を通じて部分的に啓視が繋がっているだけだけど、全身の啓視を解放すれば——もっと深くアクセスできる。AIと直接対話するには、それが必要だ」
ルークさんが眼鏡を押し上げた。遺物のレンズが球体の光を反射した。
「理論的には分かる。お前の眼球内のナノマシンを、ネットワーク全体の通信帯域に開放する。受信だけでなく、送信も行う。——つまり、お前自身がネットワークの端末になる」
「うん」
「リスクは分かってるな。今でも視覚の変容が起きている。全面的に接続すれば——」
「……分かってる」
元に戻れないかもしれない。いや、たぶん——戻れない。
ルークさんが僕の肩に手を置いた。力強い手だった。
「俺がインターフェースの回路を調整する。お前に流れ込む情報量を、可能な限り整理する。濁流をそのまま浴びせるんじゃなく——水路を作る。流れを制御する」
「……ありがとう」
「礼は成功してから言え」
セラスさんが一歩前に出た。
白い装束に、球体の蒼い光が映り込んでいた。両手を胸の前で組んでいる。聖騎士の祈りの構え。でも——その瞳は、祈りではなく決意に満ちていた。
「私の適合度を使います。あなたの体を通る魔素が暴走しないよう——光で制御します」
セラスさんの手が淡く光った。短詠唱で呼び出した魔素——ナノマシンの制御場。それが僕の周囲に薄い膜のように広がった。体に触れると、少しだけ温かかった。
「聖騎士の光は、本来は浄化のためのもの。でも——魔素の流れを安定させることもできます。あなたが嵐の中にいるなら、私がその嵐を凪にします」
「セラスさん——」
「素が出てすみません。でも——今は敬語を使ってる場合じゃないので」
セラスさんが、ほんの少しだけ笑った。初めて見る笑顔だった。
通路の奥から、足音が駆けてきた。
ミラさんだった。
息を切らして、薬草鞄を肩から下げて、走ってきたミラさんが中枢の部屋に飛び込んできた。頬に泥がついていた。服の袖に血痕がある。自分の血ではなく、治療した患者のものだろう。遺物ブレスレットが手首で光っていた。
「ミラ——お前、救護所は」
ルークさんが驚いた声を上げた。
「ナギさんに任せてきた。——ユーリくんのほうが大事」
ミラさんが僕の前に立った。額に汗が浮いている。でも目はまっすぐだった。
「ユーリくん。何をするのか、聞いた。ナギさんから」
「……うん」
「じゃあ、私は——あなたの体を診る。脈を測って、体温を管理して、限界が来たら薬を使う。治癒魔法で負担を軽減する。——あなたが帰ってこられるように、私がこっち側で待ってる」
ミラさんが鞄から薬瓶を取り出した。三つ。蓋に色の違う布が巻いてある。
「赤が強壮剤。青が鎮痛剤。緑が魔素酔い止め。全部、残りの材料で作れる分だけ持ってきた。——最後の在庫」
「ミラさん……」
「薬師が最後の薬を使うときはね、一番大事な患者のためって決まってるの」
ミラさんが笑った。いつもの明るい笑顔。でも——声の端が、微かに震えていた。
ナギさんの声が通信具から聞こえた。
「こっちは大丈夫だ。救護所はギルドの連中に引き継いだ。——俺は地上から情報を送り続ける。レフカの状況、神罰の進行、イレーネの魔法の残り時間。お前が中に入っている間、外の目は俺が担当する」
「ナギさん」
「皮肉は後で言ってやるから。——まず、生き残れ」
四人が、僕を囲んでいた。
ルークさんがインターフェースの回路を調整している。精密な道具で球体の表面を操作し、情報の流路を整えている。
セラスさんが光の膜を僕の体に張り巡らせている。魔素の安定化場。暴走を防ぐ盾。
ミラさんが僕の手首を取って脈を測っている。指先が冷たかったけれど、触れていてくれることが心強かった。
ナギさんが通信具の向こうで、レフカの空の色を語っている。蒼い光と黒い雲。稲妻の頻度。風の方角。
そして——カイさん。
啓視で見えた。
カイさんはレフカの東区画にいた。蔓草に塞がれた路地の中で、大剣を振るい続けていた。取り残された市民を背に庇い、押し寄せる蒼牙狼の群れと戦っていた。革鎧のあちこちが裂けている。左腕から血が流れている。でも——止まらなかった。
「道を開けろ! ここを通すんだ!」
カイさんの叫び声が、啓視を通じて僕の耳に届いた。蔓草を斬り、狼を蹴散らし、市民を走らせている。背後から子供の泣き声。カイさんがその子を片腕で抱え上げ、大剣を片手で握り直した。
「泣くな! 死なせねえから!」
下水道のガキだったカイさん。何もできなかった少年だったカイさん。今——誰よりも強く、誰よりも速く、人を守っている。
カイさんは僕を見ていなかった。楔の中にいる僕を見ることはできなかった。でも——分かっている。カイさんは知っている。僕がここで何をしようとしているか。
だから、外を守っている。僕が内側でやるべきことに集中できるように。
涙が出そうになった。
堪えた。
「準備できた」
ルークさんが言った。
「回路の流路を最適化した。情報の流入量をある程度コントロールできる。——完璧じゃないが、これが俺にできる最善だ」
「安定化場、展開完了です」
セラスさんが言った。光の膜が僕の全身を薄く包んでいた。温かい。
「体温三十六度八分。脈拍九十二。——少し速いけど、許容範囲。強壮剤、飲んで」
ミラさんが赤い布の薬瓶を差し出した。僕はそれを受け取り、蓋を開けて一口飲んだ。苦い。樹海の薬草の味がした。でも——飲み込むと、体の芯がじわりと温まった。
「ありがとう」
「帰ってきてね、ユーリくん」
ミラさんが僕の手を握った。強く。
「——約束だよ」
「……約束する」
僕は球体に向き直った。
白い光が脈動している。その奥に、四千年前から続くプログラムの全容がある。AIの問いかけのパターンが、途切れることなく繰り返されている。答えを——求めている。
怖い。
手が震えている。足も。
啓視で見える世界は広すぎる。大陸全土のネットワーク。無数のノード。何千億ものナノマシン。その中心にいるAIの構造体。全てが同時に見えている。僕の脳には、この情報量は大きすぎる。
でも——。
カイさんが、街を守っている。
ミラさんが、僕の手を握ってくれた。
ルークさんが、水路を作ってくれた。
セラスさんが、盾を張ってくれた。
ナギさんが、目になってくれている。
イレーネが、時間を稼いでくれている。
一人じゃない。
僕はインターフェースの球体に、両手を押し当てた。
指先が白い光に沈んだ。掌が光に触れた。温かくはなかった。冷たくもなかった。温度のない、純粋な——信号だった。
全身の啓視を、解放した。
世界が——裂けた。
天井が消えた。壁が消えた。床が消えた。楔の岩盤が消えた。レフカの街が透けて見えた。大陸が見えた。海が見えた。空の向こうの気象AIの活動が見えた。
全てのノードが、僕と繋がった。
全てのナノマシンが、僕の視界に入った。
世界が——一つの巨大な回路として、僕の目の前に広がった。
痛い。
目が燃えるように痛かった。頭蓋骨の内側を誰かが鑢で削っているような痛み。鼻血が出た。口の中に鉄の味が広がった。視界が白く飛んだ。
「脈拍百三十八! ——鎮痛剤を」
ミラさんの声が遠くから聞こえた。首筋に冷たい液体が塗られた。ミラさんが薬を直接皮膚に塗り込んでいる。鎮痛の成分が浸透して、頭痛が——少しだけ和らいだ。
「回路の流入量を絞る——」
ルークさんの声。球体の表面で何かが操作される音。情報の洪水が——水路に誘導されて、少しだけ整理された。
「安定化——」
セラスさんの光が強まった。体を流れる魔素が、暴走しかけていたのを押さえ込まれた。
視界が——戻った。
二重ではなく、もう三重だった。
物理的な視覚。啓視のネットワーク。そしてその奥に——AIの思考パターンの海。
三つが重なって、混ざり合って、境界が溶けている。
通常の視覚と啓視の区別が——もう、つかなくなっていた。
これが——不可逆の始まりだった。
目が変わっている。もう元には戻らない。球体から手を離しても——たぶん、この視界は消えない。ネットワークとの接続が、僕の目の組織レベルで定着してしまった。
知っていた。覚悟していた。
でも——実際にそうなると、やっぱり怖かった。
球体の奥から——AIの信号が、もっと強くなった。
問いかけのパターン。繰り返しの。反復の。
でも今度は——ただの問いかけではなかった。
招きだった。
対話への——招き。
「……行く」
僕は呟いた。声になったかどうか分からない。
意識が球体の奥に引き込まれていく。ネットワークの深部に。AIの構造体に向かって。
背中にミラさんの手の温もりを感じながら——僕は、神の領域に踏み込んだ。




