第51話 審判のとき
第十話 審判のとき
レフカが、壊れていく。
啓視で見える。街の全域で、蒼い植物が爆発的に成長している。石造りの建物の壁を蔓草が覆い、屋根を突き破って枝が伸びる。街路樹が一晩で巨木に成長したかのように幹を太らせ、根が石畳を持ち上げている。蒼い葉が建物を覆い尽くしていく。ナノマシンの太陽光パネルが、街を飲み込んでいく。
灰原と同じだ。五十年前に国を滅ぼした現象が、今——レフカで再現されている。
魔素濃度が爆発的に上昇していた。空気が蒼く光っている。呼吸するだけで胸が苦しい。魔素への耐性が低い市民が次々と倒れている。魔素酔い。頭痛、嘔吐、意識の混濁。子供と老人が特に酷い。
天候も狂っていた。蒼い空に黒い雲が渦を巻き、雷が走った。風が唸りを上げて吹き抜ける。地面が断続的に揺れている。地震ではない——地下のナノマシン回路が過負荷で振動しているのだ。
嵐と地震が同時に。空と地面の両方から、レフカを押し潰そうとしている。
僕はインターフェースの球体に触れたまま、二つの世界を同時に見ていた。
物理的な目で見えるのは、球体の白い光と、周囲に立つカイさん、ルークさん、セラスさんの姿。
啓視で見えるのは、レフカ全域の惨状と、ネットワーク全体を走る安全装置のプロトコル。
二つの視界が重なって——切り替えられない。両方が同時に見えている。
ナギさんから通信が入った。
「聞こえるか。——地上はもう限界だ」
ナギさんの声は、初めて聞くほど切迫していた。あの皮肉屋の余裕が、完全に消えている。
「魔獣の群れが南東門を突破した。守備隊が壊滅。冒険者たちが食い止めようとしてるが——数が多すぎる。市民は港に避難中だが、港への道にも蔓草が伸びてきてる」
「ミラは?」
「ギルド本部の救護所で治療を続けてる。あいつは止まらねえよ。倒れてる人がいる限り——止まらない。でも、薬が底をつきかけてる」
通信の向こうで、轟音が聞こえた。何かが崩壊する音。
「急いでくれ。時間がない」
カイさんが通信具を握りしめた。
「くそっ……」
カイさんの声が震えていた。怒りではなかった。もっと深い何か。
「こんなの、下水道のガキの頃に戻ったみたいだ。何もできない、って。目の前で街が壊れていくのに——ここを動けねえ」
カイさんは僕を守るためにここにいる。中枢を守るために。でも——レフカの街が、今まさに崩壊している。カイさんの目に苦悩があった。守るべきものが二つある。どちらかを選ばなければならない。
「カイさん」
僕は球体に触れたまま、カイさんを見た。
「行って」
「……何?」
「街を守って。僕はここにいる。ルークさんとセラスさんがいてくれれば——大丈夫。カイさんは、街にいるみんなを守って」
「馬鹿言うな。お前一人でこの化け物みたいな球体に——」
「一人じゃない。ルークさんがインターフェースを監視してくれる。セラスさんが魔素を安定させてくれる。カイさんの力が必要なのは——今は、外だ」
カイさんが歯を食いしばった。
「……ユーリ」
「大丈夫だよ。僕は——ここで、やることがある。カイさんも、やることがあるでしょ」
カイさんが——数秒だけ、目を閉じた。そして開いた。決意の目だった。
「死ぬなよ」
「死なない」
「約束しろ」
「約束する」
カイさんが大剣を背に負い直した。通路に向かって走り出した。振り返らなかった。金牌の冒険者が、レフカの街を守るために駆けていった。
啓視で、カイさんの姿を追った。
カイさんが楔を出て、地上に飛び出した。蒼い光に満ちた街路を走った。崩れかけた石畳を蹴り、蔓草を大剣で斬り払いながら。
南東門の近くで、魔獣の群れと対峙した。蒼牙狼の大群。魔素の乱れに引き寄せられて狂暴化している。赤い目を光らせ、泡を吹いて突進してくる。
カイさんが大剣を振るった。核魔石混合の刀身が蒼い軌跡を描いた。一撃で三頭を薙ぎ払った。
「来い! 何匹でも来やがれ!」
カイさんの叫びが、嵐の中に響いた。
一人で、群れに立ち向かっている。金牌三の実力。でも——相手は多すぎる。
そこに——冒険者たちが合流した。銀牌の冒険者が二人、鉄牌が数人。カイさんの姿を見て駆けつけてきた。
「金牌のカイか! 助かる!」
「固まるな、散開しろ! 群れの先頭を潰せば後続が散る!」
カイさんが指示を飛ばしながら戦っている。戦闘指揮。個人の武力だけではない。人を動かす力。下水道のガキだった男が、今——レフカを守る防壁になっている。
啓視の視界を、楔の入口に向けた。
イレーネが——巨大な魔法を展開していた。
白と金の法衣が風に靡いている。銀に近い髪が宙に浮いている。両手を広げ、長い詠唱を続けている。その周囲に——巨大な魔法陣が展開されていた。直径は数十メートル。地面に描かれた光の紋様が、複雑なパターンで回転している。
大神官の権限。AIとの限定的な通信能力。イレーネは——安全装置のプロトコルに、部分的に干渉していた。
魔素の暴走を一時的に抑え込む。暴走の速度を遅らせる。植生の成長を鈍化させる。魔素濃度の上昇を緩和させる。
しかし——止めてはいない。止められない。安全装置は自動で進行するプロトコルだ。イレーネの干渉は、時計の針を遅くしているに過ぎない。止めることはできない。
「時間を稼ぐだけです」
イレーネの声が、啓視を通じて聞こえた。穏やかな声。しかし——疲労が滲んでいた。これだけの規模の魔法を維持し続けるのは、大神官であっても限界がある。
聖騎士団がイレーネの周囲を守っていた。百人の聖騎士が陣形を組み、魔獣の侵入を防いでいる。
視界をさらに広げた。
レフカの港。市民が船に乗り込んでいる。漁船、商船、小舟——使える船は全て出されていた。港の石壁にも蔓草が這い始めている。時間が——ない。
ギルド本部の広場。臨時救護所。ミラさんが——走り回っていた。薬草鞄の中身をほとんど使い切っている。治癒魔法で倒れた市民を起こし、薬を飲ませ、次の患者に走る。遺物ブレスレットが光っている。治癒の効率を上げるための、あのブレスレット。
「まだ動ける人は港に向かってください! 歩けない人は——ここで待って。必ず助けるから」
ミラさんの声が聞こえた。明るい声。いつもの明るい声。でも——声の端が震えていた。
ナギさんがミラさんの隣にいた。左手の四本指で通信具を操りながら、もう片方の手で倒れた老人を支えている。
「北の大通りが蔓草で塞がれた。港への迂回路は西の路地だ。ギルド職員に伝えろ」
ナギさんが叫んだ。情報を回している。誰がどこにいて、どの道が使えて、どこに負傷者がいるか。戦闘はできない。でも——ナギさんの頭脳が、人々の命を繋いでいる。
全てが、同時に見えていた。
美しいとは言えない光景だった。蒼い光に照らされた街が崩壊していく。人々が逃げ惑う。魔獣が暴れる。植物が暴走する。嵐が吹き荒れる。
でも——人々は戦っていた。諦めていなかった。
カイさんが大剣を振るい続けている。ミラさんが薬を配り続けている。ナギさんが情報を叫び続けている。イレーネが魔法を維持し続けている。名も知らない冒険者たちが、名も知らない市民を守るために走り回っている。
こんな光景を——AIは四千年間、見てきたのだろうか。
球体の奥から——声が聞こえた。
声ではなかった。パターンだった。信号の繰り返し。問いかけの——構造。
AIが、僕に問いかけている。
言語ではない。もっと原始的な——判定の基準。
僕には、それが分かった。啓視を通じて、AIの「思考」のパターンが読めた。
安全装置のプロトコルを実行するか、中止するか。その判定を——今、AIが行っている。
ヴェルナーの灯台計画が引き金になった。禁忌のラインを超えた。安全装置が起動した。プロトコルに従えば——レフカを滅ぼす。灰原と同じように。
しかし——AIは、完全に自動では動いていなかった。
クロードが記録に書いていた。「彼らは命令に従っているだけではない。考え始めている」。
その通りだった。安全装置のプロトコルは自動で起動したが、最終的な実行判定は——AIが「考えて」いた。迷っていた。四千年分の経験データが、単純な「排除」では最適解に至らない可能性を示唆していた。
AIは——疑問を感じていた。
そこに、足音が聞こえた。
物理的な足音。通路の奥から。
ヴェルナーだった。
灰色の軍服が汚れていた。額に汗が滲んでいる。目が——赤かった。泣いたのか、睡眠不足なのか。
「ユーリ」
ヴェルナーの声は——今まで聞いたことのないほど、弱かった。冷静な戦略家の仮面が、完全に剥がれていた。
「これは——私が引き起こしたのか」
「……はい」
僕は正直に答えた。
「灯台計画の装置が、ネットワークの安全装置を起動させました。ヴェルナーさんが——引き金を引きました」
ヴェルナーが——膝を折った。
がっしりとした体格の男が、球体の前で膝をついた。手帳が懐から滑り落ちた。あの、常に携帯していた手帳。灯台計画のメモが詰まった手帳。
「私は……安全装置のことを知らなかった。知っていれば——」
ヴェルナーの声が途切れた。しばらくの沈黙。
「——いや、知っていても、やったかもしれない。私は——愚かだった」
ヴェルナーが顔を上げた。目に涙はなかった。涙よりも深い——後悔があった。
「国の未来のためだと思った。禁忌を破らなければ、人類は永遠にこのまま停滞すると。遺物技術を取り戻せば、神罰を迎撃するシステムが作れると。——全て、思い込みだった」
「ヴェルナーさん」
「装置を止めようとした。だが——もう手遅れだ。神罰は自動で進行している。私の装置を外しても——止まらない」
ルークさんが頷いた。
「その通りだ。安全装置のプロトコルは、一度起動すると外部からの物理的な介入では停止できない。——ヴェルナー、あんたの装置は引き金であって、銃そのものじゃない。銃はネットワーク全体だ」
ヴェルナーが立ち上がった。よろめきながら。
「何か——私にできることはあるか」
「あります」
セラスさんが言った。
セラスさんは球体の横に立ち、両手を広げて魔素の安定化を行っていた。白い装束に蒼い光が映っている。
「地上に行ってください。あなたの部隊を——市民の避難に回してください。楔の占拠に使った兵力を、全て。レフカの人々を助けるために」
ヴェルナーが——セラスを見た。聖騎士に命令される軍人。かつては敵対していた二人。
「……了解した」
ヴェルナーは踵を返した。通路を歩き出す。その背中が——一つ年を取ったように見えた。
「セラス聖騎士」
ヴェルナーが振り返らずに言った。
「あの子を——頼む」
「はい」
ヴェルナーの足音が遠ざかった。
球体の脈動が——さらに速くなった。
安全装置の最終フェーズが近づいている。イレーネの遅延が限界に達しつつある。大神官の魔力でも——無限には持たない。
僕は球体に両手を押し当てた。白い光が指の間から溢れた。
「ユーリ、体温が下がっている。脈も不規則だ」
ルークさんが僕の手首を掴んで脈を測っていた。
「啓視の負荷が体に出ている。このままでは——」
「分かってる。でも——まだやめない」
球体の奥から、AIのパターンが送られてくる。問いかけの信号。判定の基準を求めている。
僕は——答えなければならない。
安全装置を止める理由を。人類が存続に値する理由を。
次の話で——AIと向き合う。
レフカの空に稲妻が走った。
蒼い光と白い稲光が交差して、街を昼よりも明るく照らした。轟音が遅れて響いた。地面が揺れた。
啓視で見える。街の東区画で、ビルほどの高さに育った蒼い巨木が——倒壊した。石造りの家屋を押し潰しながら。人々が悲鳴を上げて逃げている。
カイさんが——その中にいた。倒壊した巨木の下敷きになりかけた子供を、片腕で掴んで引き出していた。
「走れ! 港に走れ!」
カイさんの声。嵐の中に消えていく。
下水道のガキは——今、街を守っている。何もできなかった少年は、今、人を助けている。金牌の冒険者は——そのためにある。
球体に押し当てた手が、白く光った。
AIの信号が——強くなった。
問いかけの構造が、より明確になっていく。
答えを。
求めている。




