第33話 灰原横断
第六話 灰原横断
灰原の横断は、想像以上に過酷だった。
夜明けとともに隠れ里を出発した。ナギさんが描いてくれた地図を頼りに、灰色の大地を西に向かう。目指すのは、かつての首都があった場所の直上——地下遺跡の入口だ。
五人が一列になって歩いた。先頭がカイさん。次にセラスさん。僕が三番目で、ルークさんが続き、ミラさんが最後尾。ミラさんの後方を警戒する役目はルークさんが兼ねていた。
灰原には、本当に何もなかった。
見渡す限りの灰色の平原。土というより、細かい砂利が固まったような地面だ。足を踏み出すたびに、さくり、と乾いた音がする。植物がない。虫がいない。鳥の影もない。空は青いが、その青さが不自然なほど鮮明だった。魔素の粒が空気中にない。普通の場所では、大気中に漂う魔素の粒が光をわずかに散乱させる。だから空は少しだけ淡く霞む。でもここでは、それがゼロだ。空の青さが、むき出しの空の色だった。
「気持ち悪いな」
カイさんがぼそりと言った。
「静かすぎる。風が吹いても音が変わらん。草がないと風が鳴らねえんだな」
「魔素がないって、こういうことなんだね」
ミラさんの声が後方から聞こえた。いつもの明るさが少し欠けている。
「治癒魔法が使えない。魔素がないと魔法の原料がないから。怪我したら薬だけで対処するしかないよ」
「使い慣れた手段が封じられる、というのは想定以上に不安だな」
ルークさんが呟いた。
セラスさんは黙って歩いていた。白い外套の下の足取りは安定していたが、時折——空を見上げて、何かを確認するような仕草をしていた。神の光を探しているのかもしれない。灰原にも、それは見えるのだろうか。
二時間ほど歩いたところで、最初の休憩を取った。
崩れた石の基礎が点在する場所だった。かつて建物があったのだろう。基礎だけが残って、その上に砂利が積もっている。一番大きな基礎に腰を下ろした。
カイさんが水袋を回した。水の残量を確認してから、一人ずつ三口ずつ飲んだ。乾いた空気の中を歩いているから、汗をかいている自覚がないのに喉が渇く。水分は予想以上に失われていた。
「水の管理は厳密にしよう」
ルークさんが言った。
「ナギの話では、遺跡の入口まで丸一日。復路も含めると二日分の水が必要だ。五人分で——ぎりぎりだな」
「遺跡の中に水路がある可能性は?」
ミラさんが聞いた。
「旧文明の遺跡には水利インフラがあることが多い。稼働していれば使えるかもしれないが、安全性の確認が必要だ」
「私が確認する。水の安全性を見るのは得意だよ」
ミラさんが薬箱をぽんと叩いた。その手つきに、少しだけいつもの元気が戻っていた。
携行食を少しだけ食べた。
隠れ里でもらった苔の乾餅と、乾燥させた小魚。それに、ミラさんが灰原に来る前に作っておいた香草入りの干し肉があった。干し肉は薄く切った肉を塩と香草で漬けてから天日で乾かしたもので、噛むほどに旨味と香草の風味が出る。
「ミラの干し肉は旨えな」
カイさんが嚙みしめながら言った。
「これ作ったの、デルガを出る前だよ。長持ちするように塩を多めにしたの」
「ミラさんの携行食、いつも助かるよ」
「へへ。薬師は保存食作りも仕事のうちだから」
セラスさんも干し肉を一切れ受け取って、小さく噛んだ。噛みながら、少しだけ目を見開いた。
「……美味しい」
「でしょ? コツは香草の配合なの。乾燥させる前にグリムの葉を揉み込むと、肉の臭みが消えるんだよ」
「なるほど。勉強になります」
ミラさんとセラスさんの間で、短い言葉が交わされた。些細な会話だった。食べ物の話。でも、その些細さが——二人の距離を、ほんの少し縮めたように見えた。
午後になると、景色が変わり始めた。
灰色の平原に、建造物の残骸が増えてきた。崩れた壁。倒れた柱。焼けた石材が散乱している。五十年前の神罰の爪痕だ。かつてはここに街路があり、家があり、人が暮らしていた。今はただ、灰色の瓦礫が続いている。
「ここがかつての首都の外縁部だ」
ルークさんが地図を確認しながら言った。
「中心部に近づくほど破壊が激しくなるはずだ。——そして、遺跡の入口は中心部にある」
さらに歩を進めた。
瓦礫の中に、かつての生活の痕跡が見えた。焼けて変形した金属の器。割れた陶器の破片。錆びた金具。五十年の風雨に晒されて、どれも原型を留めていない。
ミラさんが足を止めた。
「……これ」
ミラさんが拾い上げたのは、小さな陶器の破片だった。絵が描いてある。花の模様。青い花。焼け焦げて半分欠けているが、花の形ははっきり残っていた。
「子供のお皿かな。小さいから」
ミラさんの声が静かだった。
セラスさんがミラさんの方を見て——目を逸らした。
僕は二人の間の空気に、何か重いものを感じた。でも、今はそれを掘り下げる場面ではなかった。
日が傾き始めた頃、目的地に到着した。
首都の中心部は、平原よりもさらに異様だった。
巨大な構造物の基礎が地面から突き出している。かつての城塞か、神殿か。規模が桁違いだ。高さ二十歩はある石壁の断面が、斜めに地面に刺さっている。その周囲を、倒壊した柱や梁の残骸が取り囲んでいた。
「この下だ」
ルークさんが地図の一点を指した。
「巨大構造物の基礎部分——その地下に、遺跡の入口がある。ナギの地図ではこの辺りだが……」
「僕が見る」
透視を起動しようとした。いつもの感覚で目に意識を集中させる——が、何も起こらなかった。
「……駄目だ。魔素がないから、透視が使えない」
「予想通りだな。地表の魔素がゼロでは、お前の能力も機能しない」
ルークさんが眼鏡の位置を直した。
「入口を物理的に探すしかない。——だが、ナギの地図が正確なら、この瓦礫の下のはずだ」
カイさんが瓦礫に手をかけた。
「力仕事は任せろ。——お前らも手伝え」
五人で瓦礫を動かし始めた。
大きな石材はカイさんが担いだ。僕とルークさんが中くらいの石を運び、ミラさんが砂利を掻き出した。セラスさんは——迷った末に、外套を脱いで作業に加わった。白い装束のまま、黙々と石を運んでいる。その姿がどこか不釣り合いで、でも——人間的だった。
一時間ほど作業して、石の床が現れた。
灰色の平らな石。表面に、微かに線が走っている。回路ではない。紋様だ。幾何学的な文様が、石の表面に刻まれている。
「封印だ」
セラスさんの声が硬くなった。
「この紋様は——聖騎士の認証印です。私の師から伝えられたものと同じ」
セラスさんが石の床の前にしゃがんだ。手袋を外して、紋様に指先を触れた。
目を閉じた。
何も起きない——ように見えた。
だが、数秒後。
紋様が光り始めた。淡い、白い光。セラスさんの手から紋様に光が伝わっていくように、線が一本ずつ灯っていく。幾何学的な文様が次々と浮かび上がり、石の床全体が白く輝いた。
「これは——」
ルークさんが息を飲んだ。
「魔素認証だ。聖騎士の体内魔素が鍵になっている。外部の魔素ではなく、体内の高濃度魔素で認証する仕組みだ。——だから灰原でも機能する」
光が最大になった瞬間、石の床の中央に亀裂が走った。亀裂が広がり——石の床が、左右に開いた。
階段が見えた。
暗い、下り階段。石段が闇の中に消えている。そして——
「あ」
僕は声を上げた。
階段の奥から、魔素が流れてきた。
地上にはゼロだった魔素が、階段の先から湧き上がるように流れ込んでくる。淡い光の粒が、暗闇の中を漂っている。久しぶりに見る、魔素の光。
「魔素が——回復した。遺跡の中には魔素がある」
「密封されていたのか。封印の内側では魔素が循環し続けている——」
ルークさんの声が興奮で震えていた。
「壁の回路が生きている。五十年間、封印の中で稼働し続けていた。——なるほど。面白い」
僕は透視を起動した。
今度は、見えた。
階段の先に——膨大な回路のネットワークが広がっていた。壁の中を、天井を、床を、無数の回路が走っている。脈動している。生きている。
「……すごい」
声が震えた。
「デルガの遺跡より、ずっと大きい。回路の密度が——桁違いだ」
セラスさんが立ち上がった。
光の紋様が消えていく。石の扉は開いたまま、暗い階段が僕たちを待っていた。
「行きましょう」
セラスさんの声に、覚悟の色があった。
カイさんが先頭で階段に足を踏み入れた。剣の柄に手をかけて、一段ずつ降りていく。セラスさんが続いた。手のひらに小さな光球を灯した。短詠唱——いや、無詠唱だった。ほんの一瞬の集中で、白い光が手のひらに生まれた。
「おお。灯りか。助かる」
カイさんが振り返った。
「魔素が回復したことで、私の魔法も使えます。光源の確保は任せてください」
「頼もしいな。——ミラ、治癒魔法は」
「魔素があれば使えるよ! やった、心強い」
ミラさんの声が弾んだ。ようやく、いつものミラさんの明るさが戻っていた。
階段を降りきると、広い通路に出た。
天井が高い。五歩分はある。壁は滑らかな石で、その中を——回路が走っている。青白い光が脈動して、通路全体をぼんやりと照らしていた。空気は湿り気を含んでいて、微かに金属の匂いがする。
「これは——」
ルークさんが壁に手を触れた。
「デルガの遺跡と同じ材質だ。回路の構造も類似している。ただ、密度が圧倒的に高い。デルガが枝道だとすれば、ここは幹道だ」
僕は透視で通路の先を見た。
回路が枝分かれしている。通路が左右に分岐して、その先にさらに分岐がある。まるで——都市の街路のように。
「通路が網目状に広がってる。左右に部屋がたくさんある。——本当に、地下の都市だ」
「かつてこの国の首都の地下インフラだったものだろう。水路、通路、貯蔵庫、管理室——都市機能の基盤が、そのまま遺跡として残っている」
ルークさんの目が輝いていた。
「デルガの遺跡の十倍はある……いや、それ以上かもしれない」
通路を慎重に進んだ。
先頭はカイさん。セラスさんの光球が通路を照らし、僕が透視で先の構造を読む。ルークさんが壁の回路を分析しながら歩き、ミラさんが後方の安全を確認する。
三人の専門家の連携が、自然と形を成していた。
「五十歩先に罠がある。床の一部に感圧式の回路が走ってる」
僕が言うと、ルークさんが前に出た。
「見せてくれ。——なるほど、デルガの下層にあったのと同じタイプだ。感圧すると壁から魔素弾が射出される。解除は……ここだ」
ルークさんが壁の一点に触れ、工具で回路の接点を外した。かちりと音がして、床の回路が消灯した。
「解除完了。進める」
「三十歩先に分岐。左は行き止まり、右は——さらに下に降りる階段がある」
「右だ。深部に向かう」
ルークさんが即断した。
三つ目の罠を解除したとき、セラスさんが足を止めた。
「この扉」
通路の左側に、閉じた扉があった。石の扉で、表面に紋様が描かれている。封印の紋様だ。
「認証が必要なタイプです。——解除しますか」
「頼む。中に何があるか、透視で見てみる」
僕は扉の向こうを覗いた。
「……部屋がある。大きい。中に——棚のようなものが並んでる。回路は活きてるけど、動くものはいない」
「罠は」
「見当たらない。——でも、慎重に」
セラスさんが扉に手を触れた。紋様が光り、扉がゆっくりと開いた。
中は、貯蔵庫だった。
石の棚が整然と並んでいて、棚の上に容器が置かれている。金属製の密閉容器。表面に旧文明の文字が刻印されている。
「これは……保存食?」
ルークさんが容器を一つ手に取った。振ると、中で何かが動く音がした。
「密封容器だ。中身は——開けてみないと分からないが、保存状態は良さそうだ」
「食べ物なら助かるね。水の問題も——あ、奥に水路がある」
ミラさんが部屋の奥を指した。壁の下部に、細い水路が流れていた。透明な水が、静かに流れている。
ミラさんが水に指を浸して、匂いを嗅いだ。舌先で舐めた。
「大丈夫。飲める水だよ。金気が少しあるけど、体に害はない」
「よし。水を補給する。ここで一度休憩しよう」
カイさんの判断で、貯蔵庫を休憩地点にした。
水袋を満たし、携行食を広げた。
苔の乾餅と干し肉。それに、ルークさんが密閉容器の一つを開けてみた。中身は——粉だった。白い粉。匂いはほとんどない。
「穀物の粉だな。五十年前のものだが、密封されていたから劣化していないようだ」
「本当に? 五十年前の?」
ミラさんが粉を少し手のひらに取って、指で擦った。
「……すごい。粒子が細かくて均一だよ。普通の製粉じゃこうならない。旧文明の技術で加工されたものだね」
「水と混ぜれば食べられるか」
「たぶん。ちょっと試してみる」
ミラさんが少量の粉を水で溶いた。薄い粥のようなものができた。恐る恐る口に含んで——
「味がない。でも、お腹にはたまりそう。栄養はあると思う。非常食としては十分だね」
「携行食を節約できる。これは大きい」
ルークさんが頷いた。
五人で粉の粥と干し肉を分け合って食べた。粉の粥はミラさんの言う通り味がなかったが、腹に溜まる感触があった。干し肉と交互に食べると、肉の塩気が粥の薄さを補って、意外と悪くなかった。
「遺跡探索で食料問題が解決するとはな」
カイさんが苦笑した。
「冒険者の常識を覆してるぞ」
「むしろ、旧文明の保存技術の確かさが面白い」
ルークさんが目を細めた。
「五十年間、品質を保つ密封容器。この技術だけでも、現在の素材加工を一変させる」
「それが禁忌に触れるかどうかは——微妙なところですね」
セラスさんが静かに言った。
少しだけ、場の空気が引き締まった。禁忌のライン。どこまでが許されるのか。その基準は、誰が決めたのか。
「まあ、今は食って休もう。先は長い」
カイさんが場を収めた。
休憩の後、さらに深部へ向かった。
通路は緩やかに下っていく。回路の密度が増していく。透視で見ると、壁の中の配線が太くなり、分岐が複雑になっている。
「中枢に近づいてる。回路の流れが、一つの方向に収束し始めた」
「ネットワークの中心——ノードか。あるいはそれ以上の何かか」
ルークさんの声が低く、真剣だった。
四つ目の罠を解除し、二つ目の封印扉をセラスさんが開いた頃——
「止まれ」
カイさんが右手を上げた。全員が足を止めた。
カイさんの目が、通路の先を見据えている。暗がりの奥に——何かがいた。
「ユーリ。前に何がいる」
僕は透視を全力で起動した。通路の先を透かし見る。
「——大きい。通路の幅いっぱいに……何かがいる。体の中に回路がある。魔石と同じ構造の——全身が回路だ」
心臓が跳ねた。
「核獣だ」
ルークさんの声が低く、鋭かった。
「体全体が魔石構造の怪物。危険度A。——覚悟を決めろ」
カイさんが剣を抜いた。セラスさんが一歩前に出た。
通路の奥の闇から——光が漏れ始めた。




