第三日目 5節「決着」(ギルファス)(6)
* * *
真夜中が近づき、夜気には少しずつ冷気が立ち込め始めている。
ドサリ、と倒れこんだ体の下で、草がわずかに湿り気を帯びた音を立てた。夜気に冷やされて結露した蒸気が草にたまっていたのだろう。倒れたまま動かない彼を見下ろして、冷たいだろうか、とラムズは想像した。それとも、火照った体に心地よいだろうか。
「なんで……だよ」
ラムズは立ったまま、倒れたルーディに声をかけた。ラムズはまだ右手に棍棒を持っていた。そして、左手には――
はあ、はあ、はあ。
ルーディは仰向けに倒れたまま、荒い呼吸を繰り返している。
ルーディの持っていた棍棒は、先ほどラムズに弾かれたまま、少し離れた場所に転がっていた。その棍棒を白々と、月が照らしている。持ち主の手を離れた棍棒は、白茶けて干からびた獣の骨が落ちているようにも見え、ひどく物悲しい気分になった。先ほどあの棍棒が当たった左肩がずきずきとうずいていた。でも、それよりも、握り締めた左手の方が痛い。
握り締めた左手から垂れ下がる、ルーディの白い鉢巻が――時折青い線の入った裏側を見せながら、風に吹かれて、揺れている。
「なんで……って」
荒い呼吸とともに、ルーディが言葉を吐き出した。その声はかすれていたが、ルーディの声はいつもかすれているから、その声から感情を読むことはできない。
「ギルファスを、裏切った、理由?」
「違う」
簡潔に答えて、ラムズは彼に歩み寄った。上から見下ろすと、ルーディは目を閉じていた。鉢巻をとられた今、ルーディの額はむき出しになっている。そのせいなのか、ルーディのまだ幼さの残る柔らかな顔立ちは、何か――重い荷物を下ろしたかのように、すがすがしくも見えた。
「本気じゃなかっただろ、今」
つぶやくと、ルーディが、目を開けた。放心したようなぼんやりとした目で見つめられて、落ち着かなくなる。俺は何を言ってんだろう、とラムズは思った。ルーディはもう鉢巻を失っているが、ラムズの額にはまだ、白い鉢巻が巻かれている。俺にとっての『宴』はまだ終わっていないのに――ゴードに知らせるために、走り出さなければいけないのに。
でも、ルーディから満足のいく答えを引き出さないうちは、先に進めそうもない。
西軍銀狼隊を裏切ったのは、なぜか。本当に聞きたいのはもちろんそれだったが、しかし今更そんなことを聞くには、ラムズは『宴』を知りすぎていた。
裏切ったことを責める気はない。
けれど、銀狼隊を裏切ると決めて、ラムズの前に立ちふさがったのなら――最後まで、死に物狂いで、立ち向かってきてくれればよかったのに。
「……本気だったよ」
しばらくの間をおいて、ルーディの呟きが聞こえる。ラムズはため息をついた。
「嘘つけ」
「嘘じゃないよ。……本気だった。だって俺には、ああするしかなかったんだ」
ルーディが横たわったまま、目を開けた。
一瞬頭上の月をまぶしげに見上げた彼は、すぐに両腕で目の辺りを隠してしまった。
ややあって、くぐもった声が腕の下から聞こえてくる。
「行かなくていいのか? ゴードに知らせなきゃ、手遅れになるぞ」
「ギルファスなら大丈夫だろ」
内心の動揺を押し隠して、自分に言い聞かせるようにそう、つぶやく。しかしルーディは、かざした腕の間から、目だけを出して否定した。
「グスタフの狙いは銀狼と媛じゃないんだ」
「……え――?」
「もちろん銀狼と媛を『戦死』させられるに越したことはないけど。でも、本当の狙いはそれじゃない」
「ルーディ」
「これが本当の戦争だったら、良かったのに」
ルーディはごろりと寝返りを打った。ラムズに背中を向ける。ラムズの視線を逃れるように。
「……そうしたら、迷わずにいられたのに」
「ルーディ」
どこか壊れてしまったみたいに、ルーディの名前を繰り返す。ルーディはさらに体を動かして、冷たい草に顔を伏せた。くぐもったかすれた声が、漏れてくる。
「どうしたらアイナに軽蔑されずにいられるか、わからなかった」
呆然と立ち尽くすラムズの前で、ルーディは地面に顔を伏せたまま、――ラムズの存在を忘れてしまったかのように、かすれた声で呟いた。
スパイとしての仕事を全うする方がいいのか――それとも、彼女の大切な幼馴染を、そして何よりも自分自身にとって大切な親友を、裏切らずにいる方がいいのか。
「本当に……最後まで、わからなかったんだよ」
* * *
闇雲に森の中を走って、しばらく。
下生えに足を取られてつんのめり、シャティアーナは息を飲み込んだ。しまった、と思ったときにはもう遅い。ぐらり、とバランスが崩れ、奇妙なほどにゆっくりと、体が前に投げ出される。
勢いのついていた彼女の体は、下生えの中にまともに突っ込んだ。
かろうじて両手を突き出したが、棍棒を握っていたのが災いした。左手首に激痛が走り、棍棒が離れて――どうした弾みかくるくると回りながら、前方に飛んでいったのが見える。
「――!」
ばさばさばさ、と顔の周りで細かい枝が折れる音。
同時に頬に鋭い痛みが行く筋も走る。
一瞬後、彼女は自分が下生えの中に倒れこんだのだと言うことを悟った。
(……痛……)
うつぶせに倒れたまま、シャティアーナはそう考えた。心臓が痛いほどに音を立てているのは、ずっと走ってきたせいだろうか。それとも体の痛みのせいだろうか。はあはあと酸素を求めて喘ぎながら、転んだというショックをを何とか押し殺そうとした彼女の耳に、沸き起こるように唐突に、水音が聞こえてきた。
ざああああ、というような、耳鳴りにも似た絶え間ない音。
(……川?)
彼女は、ようやく、身を起こした。
一度気づいてしまうと、何故今までこの音が聞こえなかったのかと不思議に思えるくらいに、盛大な川の音が聞こえていた。この時期、ミンスターの川は水かさを増している。昼間にギルファスたちが下った川だ。いつの間にこんなところまで来ていたのだろう、と思いながら、彼女は自分の体を受け止めていた下生えをかき分けようとして、左手首の激痛に気づいた。
「…………っ」
動かしただけで走る鋭い痛みに思わず呻き声を上げていた。焼け付くような痛みだ。痛む左手を苦労して持ち上げ、恐る恐る触ってみると、手首をひねった挙句に親指の爪を割ってしまったらしいのがわかってくる。
(……痛い)
打ちのめされて、シャティアーナは、心の中だけで呟いた。
どこをどう走ってきたものか、ほとんど記憶がなかった。彼女は今、密集した下生えの真ん中に座り込んでいた。鋭い枝が彼女の皮膚を切り裂いて、頬やむき出しの腕に無残な切り傷が幾筋もできていた――が、手首と爪の痛みがひどくて、シャティアーナは自分が血を流していることに気づくこともできなかった。
それでも、彼女は何とか立ち上がった。
棍棒を探さなければ、と思ったのだ。
棍棒を見つけても、この状態では、戦うことなんてほとんどできないだろう――という冷静な考えは、そのときの彼女には浮かんでこなかった。いつも冷静だという評価を受け続けた彼女の端正な顔立ちは、今は泣き出す寸前にまで歪められていた。とにかく西軍のところにまでたどり着くことしか、考えられなかった。そしてそのためには、どうしても棍棒が不可欠なのだと。切羽詰った彼女の脳は一途なまでに、あの硬い棍棒の存在に固執した。
がさり、と藪をかき分ける。
すると。
突然――目の前に景色が開けて、シャティアーナは息を呑んだ。
そこには、月光が溢れていた。
暗い森の中をかけ続けてきたシャティアーナの目には眩いほどに、昼間のように明るい月の光が、その輝かしくも恐ろしい景色を照らしていた。目の前に――少し離れた場所に、木々の梢が見えている。あれは対岸に生える巨木の群れで、彼女とその森を隔てる空隙には月の光が満ちていて。
驚くほど下の方に、きらきらと月の光を受けて逆巻きながら流れていく、河の水面が見えている。
彼女は、崖のすぐそばで、川の流れを見下ろしていたのだった。
先ほど手から離れて飛んでいった棍棒は、とっくに水面に飲み込まれて流されていったに違いない。
さあっ――
涼やかな風がシャティアーナの前髪を揺らしていく。
逆巻く水の流れは激しく、彼女の真下にある巨木にぶつかって砕けた水のしぶきがここまで飛んできそうだ。
転ばなかったらどうなっていただろう、と、麻痺したような頭で考える。
先ほどの自分はただ、闇雲に走っていただけだった。周囲に注意など払っていなかった。もし下生えに足を取られなかったら、棍棒と同じように、あの川の真上に飛び出していったに違いない。
(何……やってるのかしら、あたし)
一歩間違えれば死ぬところだったという冷たい現実が胸に迫り、彼女はようやく、それで我に返った。
(バカみたい)
一人だけでも助かって欲しいと懇願されて。その懇願から逃げ出すように、小屋を抜け出して。それで本当に死に掛けるなんて、バカみたいだとしか言いようがない。
(……行かなきゃ)
月光に彩られた川の水面を見下ろして、一つ、呟く。そして彼女は痛む体を動かして、踵を返そうと、して。
そしてようやく、その物音に気づいた。
彼女の立っている場所は、川の上に張り出した丘のようになっている。そこから東に向けて進むと丘は急に傾斜している。物音はその下から聞こえてくるようだった。誰か数人が、川の音にかき消されないようにと声を張り上げて、言葉を交わしているのが聞こえてきたのだ。
「気をつけろ」
「畜生、重いなあ」
「……せえの!」
数人の男が一斉に力を込めた音がして、ごろり、と重々しい音が響いた。
ややあって、つめていた息を一斉に吐いたような声が届いてくる。
「はあ――ようやくだ、やれやれ」
「気ィ抜くな。すべるぞ」
「後は簡単だ。引きずっていきゃいいんだから」
しばらく休んでから、続いて聞こえてきたのは、ずるずると何か重いものを引きずるような音。
そこまで聞いてから、シャティアーナは息を殺して、今度は細心の注意を周囲に払いながらそちらに向かった。歩くだけで左手に激痛が走るが、今はそれどころではないのだからとなだめつつ、丘の下をそっと覗く。
数人の男が、丸太を運んでいた。
この辺は木々もまばらになっていて、月光のおかげでその様子がよく見えた。五人……いや、六人。六人の男が丸太を引きずって、小屋の方へ向かっていた。あの丸太は川べりに放置されていたものだろう。この辺りには小屋を作るために使われた丸太の残りがごろごろしている。六人は斜面の下から一番長くて大きな丸太を引きずりあげてきたものらしい。
――東軍だわ。
息を詰めてそれを見守りながら、シャティアーナはようやく、昼間にギルファスたちが遭遇した東軍のことを思い出した。
昼間。午前中のことだ。ギルファスら銀狼隊は東軍の防衛線の向こう側に出現するために、危険な川くだりを敢行した。その途中で、大きな丸太を運んでいる東軍に出会ったと、言っていたっけ。そしてそれを邪魔するために、ラムズが一人で彼らに襲い掛かっていったのだ、と。
――丸太を使って、何をするつもりなのかしら。
体の痛みも忘れて、シャティアーナは彼らの後をそっと追いかけながら、考えた。
――丸太を西軍の陣地に運んでいたのは、昼間。ということは午前中のうちから、この計画は進められていたことになる。でもギルファスたちがそれを邪魔した……
けれど、この辺りにはわざわざ運ぶまでもなく、小屋を建てた残りの木材がごろごろしていた。
――それを見つけて、流されてしまった丸太の代わりに、使おうとしてるんだわ。
でも――何のために?
「急げ、だいぶ遅れてるぞ」
ごろごろ、ごろごろ。
音を立てているのは丸太の下に差し込まれた枕木だ。二人がゆっくりと丸太を引っ張り、脇についた二人が丸太の下に枕木を差し入れ、残りの二人が、丸太の後に残された枕木を回収して前の二人に渡す。そのようにして、彼らはあの重い丸太を着実に運んでいく。もしギルファスたちが邪魔しなかったら、丸太はもうとっくに所定の位置に準備されていたはずだ。けれど、それは何のためにだ? 昼間から、あの兄は、一体何を企んでいたというのだ?
――丸太。
シャティアーナの脳裏に、再び、蘇ってきた事柄がある。
アイミネアが帰って来てから、彼女には色々な話を聞いた。東軍の陣地内で、どうやってルーカが食糧を見つけ出してくれたのか。どうやってルーカが戦死したか。そしてどうやってその後の危機を乗り越え、アルスターに会って、別れて。そして一人で戻ってきた別館の崩れ果てた部屋の中で、目撃した、こと。
皆で力をあわせて、巨大な木を切り倒していたのを見た、って。言っていなかったか。
それから、盗み聞いたというあの会議。
アイミネアの筆跡の手紙を出すという計画が進められていた、会議。
あそこで計画されていたのは、アイミネアが知らせてきたとおり、『小高い丘』を襲撃するという計画で。それも――やはり丸太を利用する、と、言っていたのではなかったか。
そして、今目の前で東軍兵士たちが運んでいるのも。
(丸太だらけだわ)
知らず、左手を握り締めていたのだろう。ずきりと親指に痛みが走る。ずきずきと痛む傷のせいか、頭がうまく働かない。もどかしさに唇を噛み締めたとき、前方で、東軍兵士たちが話すのが聞こえた。
「そんで、丸太を運ぶのはいいけどよ。ギルファスは? もう、来たのか?」
ギルファスが――
息を呑んだシャティアーナの前で、のんきに答える声がする。
「さあ。でもまあスパイがいるからな。今頃は媛の危機を知らせてるだろう」
「媛が危険だとなったら、ギルファスは絶対来る。そういう奴だよ」
話す声が、次第に前方に遠ざかっていく。シャティアーナは、自分が立ち止まっていたことにそれで気づいた。スパイがいたのは銀狼隊だったのだ、と彼女は思った。ギルファスの名前を聞いたからか、脳が急に音を立てて回りだす。
媛隊のみんながいるのは、東軍の館とはあまりにもかけ離れた粗末な小屋。
――そして、丸太。
(……大変……!)
そのことに思い至って、シャティアーナは思わず左手を握り締めていた。ずきりと痛みが走ったが、構っている暇はなかった。急ごしらえの西軍の本拠地。小屋。重い丸太。周囲を包囲した、あの東軍たち。そうだ――シャティアーナは身震いした。もちろん、そうに決まっている。
東軍は、西軍の本拠地を、あの丸太で崩すつもりなのだ。
小屋に立てこもられたら、全員を『戦死』させるのに、いくばくかの時間はとられるだろう。攻撃を開始したらさすがの西軍も気づくだろうし、かけ戻ってくる西軍がたどり着く前に全ての勝負を決めるのならば、小屋を崩すのが一番早い。
東軍は、『目付』をつれてきているだろう。
丸太を用意して、小屋を崩すと宣言すれば、その瞬間に小屋の中にいる全員の『戦死』が宣言されるのと同じ効果がある。そして、その傍に、ギルファスがいたなら。
媛と銀狼が同時に『戦死』したら、『宴』の敗北はそれで決まる。
それこそが――東軍の、あの兄の、立てた作戦なのだと、思った。
――媛の危機を知らされたら、ギルファスは絶対動く。
シャティアーナは顔を歪めた。そう、ギルファスならきっと来るだろう。助けに……来て、くれるだろう。
東軍の真っ只中に、ミネルヴァを助けに行ったみたいに。
(どうしたらいい?)
立ち尽くしたまま、シャティアーナはめまぐるしく頭を働かせた。ギルファスがたどり着いたかどうかまだはっきりとはわからない、と兵士は言っていた。それならば。ギルファスを来させちゃいけない。ギルファスを『戦死』させるわけにはいかない。あの誰よりも銀狼らしい銀狼には、最後まで、生き延びていて欲しかった。
――今、あたしは一人きりだけど。
でも、あたしは媛だから。媛にしか、できないことが、あるから。
この三日間で初めて――自分が媛であってよかった、と、思った。
丸太は少しずつ小屋に向けて運ばれている。もう森を抜けて、小屋へと続く広々とした広場を横切っていっている。でも、まだ間に合う。シャティアーナは一つ息を吸って、
そして、走り出した。
心臓が、これからすることに対する不安のためか、それとも間に合うかと恐れているのか、体の中から飛び出てしまいそうに跳ね回っていた。森の中に光は乏しく、周囲の太い木々の影が襲い掛かってくるように思われた。ほんの小さな木の根にも躓いてしまいそうだ。でも、もう転べない。転んでいる暇なんてない。待ち構えている東軍の中に、ギルファスがたどり着いてしまう前に。丸太が小屋にまでたどり着いてしまう前に。何とかしなければならなかった。
ようやく、森を抜ける。
溢れるような月の光が、シャティアーナの白い服を照らし出す。
何とか転ばずに森を抜けたことにホッとした刹那、目の前をさっと横切った人影がある。それは思いがけないほどすぐそばで、行過ぎたその人影の巻き起こした風にあおられるように、シャティアーナは一瞬足を止めた。急に止まった足の下で、湿り気を帯びた草が濡れた音を立てる。
ふわふわの、長い髪。
黒ずんだワンピース。
風を切って走ってきたその少女も、急に飛び出してきたシャティアーナに驚いたのだろう。少し行過ぎてからつんのめるようにして足を止め、振り返った。
「……シャティ……!?」
綺麗な、声だ。白い頬が、月光に照らされて青く見える。シャティアーナは息を弾ませながら、か細い声で呟いた。
「……ライラ」




