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第三日目 5節「決着」(ギルファス)(7)

 何故あなたがこんなところにいるのか、と、二人は同時に考えた。

 ライラは館を抜け出してから、しばらく森を走るうちに、早くも後悔し始めていた。暗い森の中を走るのはほとんどはじめての経験だった。わずかに飛び出ている根にも足を引っ掛けそうになり、時折飛び出している細い枝にも頬を引っかかれ、自慢の長い髪はありとあらゆるものに引っかかった。こんなに苦労をして一体あたしは何をしようとしているんだろう。そんな疑問に苛まれながらも、それでも、走らずにはいられない。ゴルゴンの傍に行きたかった。せめて、他の人たちがどんな戦いをしているのか、見るだけでも。

 自分がどんな馬鹿げたことをしているか、よくわかっていた。

 何もできずに真夜中を迎えるのがオチだ、と、頭の中の冷静な場所では、そう確信したり、していた。

 でも。

 こんな場所で、シャティアーナと鉢合わせするなんて。

「どこに行くの?」

 ライラが絞り出した声は、冷たかった。走ってきたために息が乱れている。白い月の光を浴びて、シャティアーナの白いはずのワンピースが、薄い青に染まって見える。

 目の前にいるシャティアーナが行ってきた数々の『媛らしからぬ』振る舞いが、ライラの脳裏に一瞬で押し寄せてくる。ことあるごとに前線に借り出されてきた媛。自力脱出しただけでも、彼女の今年の『宴』に与えた影響は計り知れなかったというのに、その後も銀狼の危機を救ったり、銀狼を無事に通すために東軍の目を引いたり、シャティアーナの行ってきた全てが『宴』の戦況に影響を与えてきた。『今年の西軍くらい媛を有効に使えた軍は今までなかった』と、言っていたのは誰だったろう。

 シャティアーナこそが、媛にふさわしかったというのなら。

 あたしが媛に選ばれた意味はどこにある?

 無事に生き延び続けているだけで充分だと言われ続けてきたからこそ、あたしは媛の座に座っていられたのに。もし初めからシャティアーナのような行動を求められていたのなら、辞退することだってできたはずだったのに。お飾りの、ただ『宴』に彩を添えるための、ただ銀狼を自由に動かすための――そのような立場でいいのだと思い込んでいられたからこそ、何もできないことを知りながらもぬけぬけと媛の座に座り込んでこられたのに。自分がこんなに何にも出来ない人間だって、今までだって充分わかっていた事実を、今更のように突きつけられずに済んでいたのに……!

「今更どこに行くのよ」

 沸き返るような脳に反して、自分の口が吐き出した言葉はあくまでも冷たかった。一歩前に出ると、シャティアーナが呆然とこちらを見ているその表情がよく見える。今更、それが本当にシャティアーナなのだとはっきりと悟って、ライラは唇を歪めた。どうしてここにいるのだ。東軍が小屋を崩したら、勝利が決まるのだと、思っていたのに。銀狼と媛を同時に『戦死』させることで、全てが終わると、思って、いたのに。

「あたしだったら……あたしが西軍の媛だったら、今頃きっと敗北は決まっていたはずだわ」

 自嘲するように、呟く。

 味方が遠く離れている今の状況で、小屋を包囲されたら……もし自分だったら、絶対逃げ出そうなんて思えなかったはずだ。思ったとしても、包囲を潜り抜ける段階で捕まっていただろう。それ以前に、東軍が大勢潜む闇の中に足を踏み出す勇気なんてどこにもない。

 でも、シャティアーナはそれを全て成し遂げたのだ。

 だから、ここに立っているのだ。

「そして、あんたはまだ『生きて』いるのよね」

 どうしてそんなにやすやすと、様々なことをやってのけてしまえるのだろう。

 絶対逃れられないはずだった西軍の敗北をも、シャティアーナは覆してしまうというのだろうか。

「……どうしてよ……どうしてあんたはそういうことができるの? 三日間、もう充分やったでしょ!? もういいじゃない! あたしはまだ何にもしてないのに、どうしてそんなに何でもできるのよ……!」

「……」

 シャティアーナは顔を歪めた。でも、ライラはその表情の変化に気づくこともできなかった。東軍たちが、ゴルゴンが、どんな戦い方をするのかだけでも見たいと思ったことは、シャティアーナを目にした時点で消え去っていた。シャティアーナを逃しては東軍の敗北が遠のくということも、頭に浮かばなかった。ただ詰りたかった。シャティアーナが成し遂げてきた『媛らしからぬ』行いの数々を。その行いが何故西軍の有利を招いたのかを。何故、こうまで媛が活躍した年が、ライラが媛となったこの年でなければならなかったのかを。

「楽しかった、でしょ」

 これが本当に自分の声かと驚くような冷たい声で、ライラは囁いた。醜い感情が胸の奥底からふつふつ湧き上がってきていた。自分がどんなに理不尽なことを言っているのか、よくわかっているつもりだった。

 でも、止められない。

「今年の『宴』、楽しかった、でしょ? いいわね、シャティアーナ。『宴』の常識を覆すような媛であることができて。自力脱出を宣言して。皆に受け入れられて。その通りに脱出して――痛快だった、でしょ」

 言い募りながら、泣き出したくなる。どうしてあたしはこんなに醜いのか。

 どうしてこんなみっともない感情の存在に、気づかせられなければならなかったのか。

 自分が何も出来ないのが厭で、飛び出してきたつもりでいたけれど。

 でも、違った。

 あたしは自分の目の前で、シャティアーナが負けるところを見たかったんだ。

 自分にだってできたはずの事を全てやってのけたシャティアーナが、負ける、ところを。

 やっぱりあたしの方が正しかったのだと。最後にはやっぱりちゃんとした媛が勝つのだと、思いたかった。……だけ、だったんだ。

 自分の感情のあまりの醜さに、泣き出したくなる。

 でも。

「痛快なんかじゃないわ……!」

 シャティアーナがいきなり叫んだので、ライラは驚いて口をつぐんだ。シャティアーナの端正な顔立ちは、今は泣き出しそうに歪んでいた。よく見ると頬に幾筋もの引っかき傷があって、長い豊かな髪もほつれてくしゃくしゃになっている。叫ばれた言葉にというよりは、その外見に今更驚いたライラの耳朶を打つ激しさで、シャティアーナが言葉を継いだ。

「ルーカとアイナを置き去りにして、何とか逃げ延びたのよ! 痛快なわけないじゃない! 怖かった……怖くてたまらなかった、どんなに後悔したかわからなかった! だって東軍の媛隊は全員揃って逃げられたのに!」

 感情に任せて叫んでから――

 シャティアーナは、喘ぐように息を継いだ。頭の中が沸騰しているようで、自分が何を言っているのかもわからないくらいだった。ずきずきと左腕が痛んで、そのたびに脳裏に脈打つように赤い光が明滅しているみたいだ。でも、ライラの言葉にだけは、首肯するわけには行かなかった。

 あんなに、怖かったのに。

 自分の手柄だなんて、思えるわけがない。

 東軍にあてがわれた、あの部屋を出た、直後に……十人もの東軍兵士に追いかけられ始めた時点で、早くも後悔し始めていた。やはり自力脱出なんて、宣言するべきじゃなかったのだろうかと。普通の媛のように、助け出されるのを待っているべきだったんじゃないかと。その不安を裏打ちするように、ルーカが囮になって。アイミネアも、ついていって。その上常識的な行動を守ったライラの媛隊は、五人揃って東軍に帰っていったのだ。

 どうして皆が責めないのか、不思議で……たまらなかった。

「でも、それからもやめなかったじゃない」

 ライラの声が、不思議な艶を帯びた。

「ゴルゴンをおびき寄せたり、銀狼を助けに行ったり……東軍では評判よ。シャティアーナの起こした行動こそが『宴』の媛のあるべき姿だった、なんて、今更皆言わんばかりで。媛の活躍のおかげで、今年の『宴』は最初から最後まで西軍有利だったって! どうしてそんなこと言われなきゃならないの!? あたしは普通の媛の役を全うしたいと思っていただけだったのに!」

 ――媛の活躍の、おかげで。

 シャティアーナは――ライラが激昂するに従って、自分の脳裏が少しずつ冷えていくのを感じていた。一つ、ため息をつく。ライラの視線が体に食い込んでくるようで、息が、できなくなりそうだった。ライラの気持ちはよくわかる。大将同士、副将同士、銀狼同士、媛同士、見比べて批評するのが、『宴』に参加しない大人たちの醍醐味の一つなのだから。皆勝手なことを言う。媛らしくない行いをすれば、自分のせいで『宴』が終わるのが怖くないのかと、問われて。大人しくしていればしていたで、敵の媛の行いを褒めたりも、して。後から色々と言うのは簡単だ。でも、事を起こす前に、こうするのが絶対にいいなんて、こうしていたら絶対に勝てるなんて、断言できる人がどこにいるというのだろう?

 ライラから視線をそらさず、もう一度、ため息をつく。

「どっちがいいかなんて、後で言うのは簡単だよ」

 呟くと、ライラが目を見開くのが見える。

「でも……物事が始まる前には、そんなこと誰にも、わからないんだよ」

 シャティアーナが会議で『媛の自力脱出』を宣言したときに、どんなに恐怖を感じていたかなんて、誰も想像すらしてはいないだろう。我を通すということは、怖いことだ。この三日間で、シャティアーナは痛いほどそれを悟った。『自力脱出』を宣言したのが正しいことだったなんて、今となっては口が避けても言えはしない。だって、あれは我侭だったのだから。ギルファスに語ったとおり。お飾りの媛でいたくないと、思った。『設定』のためだけにただ捕虜にされ、助け出されるのを待っているだけの存在であるなんて、屈辱だと。もしシャティアーナがライラのように、例年通りの媛の立場であり続けたなら、西軍は、ゴードは、ギルファスは――どんなに気持ちが、楽だっただろう。

 でも、あの時には。自分には、ああするしかなかったのだとも、思う。

 どうするのが正しいかなどと、誰にもわかりはしないのならば。

 自分の発言がどのような結果を呼び起こそうとも――その重圧に耐えてでも、自分が正しいと思えることを、するしかないじゃないか。

 シャティアーナは、息を吸った。ギルファスのことを思い出したからか、急に頭がすっきりと晴れ渡ったような気がした。そう、こんなところで足止めされているわけにはいかない。

 自力脱出を主張した直後。ギルファスに黙っているのは卑怯かと思って、呼び止めて、自分の心情を話したことがある。我侭だと思わなかったかと訊ねた声は、震えていなかっただろうか。他の誰の反応よりも、一番迷惑をかけてしまうに違いないギルファスの返事が怖かった。でも。

『そんなこと思うわけないだろう』

 ギルファスの返事はちょっと怒っているみたいな、ぶっきら棒な声で。

 でも、どうしてそんなことを聞くのかと、本当にいぶかしんでいるのが感じられて。

 あの時、初めて、思った。許婚だからじゃなくて。兄の親友だからというわけでもなくて。ただ、ギルファスという人間と、今年の『宴』に一対の存在として参加することができて、本当に、よかった、と。

「そこをどいて、ライラ」

 本当なら、このまま踵を返して西軍のところへ走っていった方がいいのかもしれない。小屋が崩されても、ギルファスが『戦死』しても、シャティアーナさえ生きていれば『宴』は真夜中までまだ続く。後から――『宴』に参加しない大人たちに色々言われるかもしれない。でも、ギルファスをみすみす『戦死』させることだけはどうしても許せない。

 そう、これもあたしの我侭かもしれないけれど。

 ライラは動かなかった。彼女はこちらを見つめている。でも、もう睨んではいなかった。シャティアーナはライラの視線を逃れるように、前に出た。

 もう、丸太は小屋のすぐ傍にまで到達しようとしている。

 ここからでも、届くだろうか。

 シャティアーナは枯れそうな声を張り上げた。

「東軍兵士たちよ! あたしはここよ! 小屋を崩しても、『宴』はまだ終わらない――!」


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