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第三日目 5節「決着」(ギルファス)(3)

  *   *   *


 ねっとりとした闇をかき分けて走るうちに、前方に人の気配が揺らいだ。

 東軍兵士たちが川からやってきたという話だったから、二人は南の森から小屋に向かっていた。普通に考えれば、東軍の部隊がこんな場所にいるはずがない。だから、ギルファスはごく自然に、ここにいるなら西軍の駐屯部隊に違いないと、思った。

「マディ、人がいる」

 呟くと、マディルスが驚いたようにこちらを振り仰いだ。

「見えるの?」

「いや……でも話し声がする。ほら」

 話す内にも少しずつ、彼らの交わす声が、次第に大きくなってくる。それを耳にしたのか、マディルスがホッとしたような声を上げた。

「あ――よかった。これで少しは楽になるな」

 そう言って、マディルスは、足を速めた。ギルファスも後を追った。少ない人数でシャティアーナを助け出すことを思えば、仲間は多ければ多い方がありがたい。首尾よく仲間と合流できそうな予感に、みぞおちにつっかえるようだった重苦しさが少し軽くなり、つられて足取りも軽くなった。小屋の方へ向かうにつれて、森も次第に薄くなってくる。

 しかし、相変わらず周囲は真っ暗だった。

 もう月が出ている時分だが――東の空に濃い雲の切れ端がいくつかかかっているからだろうか。闇を照らす月はまだ、どこにも見えなかった。

 大きな木をぐるりと回ると、話し声が一層大きくなる。数人はいるようだ。少なくとも三人。夜の森を走るのに慣れたギルファスの鋭い感覚に、立ったまま話す彼らの薄ぼんやりとした姿が捉えられる。

 こんな暗闇の中、西軍の駐屯部隊が、松明も掲げずに……焚き火もせずに、何をしているんだろう?

 頭の中に揺らめくように、疑問がわきあがってくる。

 そのとき、その数人が、ギルファスたちに気づいた。

「――誰だ?」

 誰何する、鋭い声。

 そのあまりの鋭さに、ギルファスは思わずマディルスの肩を掴んでいた。同時に足を緩める。おかしい、という感触が強くなる。西軍は戦勝に浮かれているはずだから、媛を救出する行動を起こさせるために、少し時間がかかるかもしれない――と思っていたところだったから、声の鋭さにギョッとしたのだ。

 闇が本当に深すぎて、彼らの衣服の色まではわからない。

 でも、彼らは……もしかして――?

 こんな、小屋から離れた場所に、東軍がいるはずがないと思っても。神経が張り詰めているからか、ギルファスの勘は無視できぬ強さで警告を発していた。

 逃げるべきだろうか。

 ――でもここで回れ右をしたら、大声を出されるかもしれない。

 迷った一瞬の間に、マディルスが低い声を出した。

「悪い、遅くなっちゃってさ」

 それが普段のマディルスの声とはあまりにかけ離れていたので、――そのあまりの劇的な変化に驚いて、少し経ってからマディルスが声色を使ったのだと悟る。

 任せてくれと言うように肩を叩かれ、ギルファスはかろうじて、上げかけた声を飲み込んだ。

 辺りは暗い。こちらから、ここにいるのが東軍の部隊だと確かめる手段がないように、彼らも――こちらが西軍だということを、確かめる手段はないのだ。

 声色を使って、何とか相手から情報を探り出す、他には。

「合流しようと思って探してたんだけど、暗くて行き過ぎちまったみたいだな」

 マディルスの低い声は続いて、それで、相手は少し警戒を解いたようだった。

「なんだ。敵が来たかと思ったよ」

 言いながら、もうだいぶ近づいたその人影が、上げていた両腕を下ろしたのがわかった。

 目を凝らすと、その人影は両手に何か持っているようだった。そのものまでは見えないが、彼の手つきから察するに、どうやら鏑矢であるらしい。ギルファスたちの接近に気づいて、いつでも鏑矢を放てるように構えたものの、マディルスの声に騙されてそれを下ろしたということらしい。

「グスタフに、言われてきたのか?」

 同じ声がもう一度言って、今度こそ完全に、足を止めてしまった。もう、彼らからほんの十数歩ほど離れた場所まで来ていて、ギルファスの鋭い感覚は、黙っている人物も含めた正確な人数と体格まで捕らえていた。全部で四人。思ったよりも少ない。一人はギルファスよりも背が低い。その一番小さな彼が、ギルファスとマディルスに誰何の声を投げ、鏑矢を放とうとしていた少年だ。あとの三人は黙っているが、一人はギルファスと同じくらいの体格で、もう一人はギルファスよりわずかに背が高く、最後の一人が一番大きい。

 彼らの姿は今にも闇に溶け込んでしまいそうにおぼろだ。

 でも、今の声は良く聞き慣れた声だった。まだ若い、ギルファスたちと同年代の少年の声。ギルファスは唾を飲み込んだ。この声は、フィゴスの声だ。すばしっこくて、いつでも内側から湧き上がってくる活力を持て余しているような少年。

 二日目の昼間に棍棒を交えたばかりの、東軍の銀狼隊の一員だった。

「ちっ、やっぱり俺たちだけには任せて置けないってのか――」

 最後の一人、ギルファスよりも背の高い人物が、吐き捨てるように言う。

 ――ゴルゴン、だ。

 ギルファスはもう一度、唾を飲み込んだ。

 

 こんなところに何故、東軍の銀狼隊がいるのだろう。

 いぶかしみながら、ギルファスは周囲に視線を走らせた。こんな敵陣の真っ只中に、こんなに少ない人数で、銀狼隊がいるのが不思議だった。自分を棚に上げながら、先ほどの鏑矢と考え合わせる。この近くに、東軍の部隊が他にもいるに違いない。

 そこへ、フィゴスの声が響く。

「この暗さでよく合流できたな。他には誰にも会わなかったか?」

「ああ、森をぐるっと迂回してきたからさ。――それより、包囲は完了したのか?」

 マディルスの声には全くよどみがなく、ギルファスは、この小柄な少年の思いがけない一面に驚いていた。とっさにここまで頭と舌が回るなんて、大したものだと思う。まったく疑っていないフィゴスは、暗闇の中で首を振った、ようだった。

「いや、まだわからない。俺たちはここから動いちゃいけねえことになっているからさ」

「へえ?」

 マディルスが揶揄するような声を上げた。

「銀狼隊ともあろうものが、こんな場所で待機してなきゃいけないなんて、不便なことだよなあ」

「仕方ないだろ。ギルファスが来るとしたらこっちからだってグスタフが言ったんだ」

 グスタフが――?

 ギルファスは闇の中で顔をしかめた。東軍の部隊がこんな場所で、明かりもつけずに立ち止まっていた訳がこれでわかった。じんわりと、悔しさが湧き上がってくる。グスタフに自分の行動を全て読まれていることが、ひどく忌々しい。

「ギルファスが? なんで銀狼がじきじきに助けに来るなんて思うんだよ」

 マディルスの声に、答えたのはゴルゴンだった。

 ゴルゴンが、吐き捨てるように呟く。

「――あいつなら来るだろ。何も考えちゃいないんだから。シャティにいいとこ見せるためなら何だってするんだからな」

 あまりにもとげとげしい口調に、マディルスが、息を呑むのが聞こえた。

 ギルファスは黙ったまま、ゴルゴンのシルエットを見た。ゴルゴンの言葉には、ギルファスに対する純粋な悪意だけが感じられた。言葉面だけ見たら揶揄するような言葉、実際その口調も冗談口を装ってはいたものの――その言葉に潜む悪意は、ギルファスとマディルスを含む周囲の少年たちを鼻白ませるには十分だった。

 ややあって、フィゴスが取り成すような声を上げる。

「そ、そうかなあ、ギルファスは無鉄砲だけど、でも」

「無鉄砲?」

 ゴルゴンはギルファスへの悪意を一応隠そうとはしていたが、反論されてそんな気分ではなくなったらしい。彼の悪意が牙をむいた。

「無鉄砲って言うより考えなしなんだよ」

「ゴルゴン――」

「シャティの許婚じゃなかったら、銀狼になんて選ばれるもんか。ゴードも……」

 言いかけて、さすがにミンスター地区の少年たちの尊敬を一身に集めるゴードの悪口まで吐き出すのは思いとどまったようだった。ゴルゴンが自分の発言に驚いたように口をつぐみ、辺りに一瞬の沈黙が落ちる。

 シャティアーナの許婚だから、銀狼に選ばれたのではないのか。

 あまりにストレートな侮辱に、ギルファスはかあっと体中が熱くなるのを感じた。頭の中が怒りで真っ赤になった。反対にみぞおちの辺りに、冷たいものがずしりと音を立てて落ちてくる。

 シャティアーナに比べ、自分が銀狼に選ばれる価値があるのかという強い不安は十日前、『宴』の配役が発表されてからずっと、ギルファスの心の内にあった。人にそう思われているのではないかと、悲しい気持ちになったこともある。

 でも、……だからこそ。

 面と向かって言われて、それを聞き流すわけには行かない。ゴルゴンがギルファスの存在に気づいていないということなど関係なかった。侮辱を聞き流したりしたら、自分でそれを認めてしまうことになる。沈黙を押しのけて前に出ようとしたギルファスを押しとどめたのは、ひとつには理性だった。今はこんなことをしている場合ではない、早くシャティアーナを助けに行かなければ、と囁きかける冷静な自分が、ギルファスの怒りに水をさした。

 そして、彼を押しとどめたもうひとつの要因は。

 隣に立っていたマディルスが、いきなりゴルゴンに飛び掛ったことだった。

「訂正しろ!」

 先ほどまでの冷静な声色をかなぐり捨てて、マディルスがゴルゴンに殴りかかった。不意をつかれたゴルゴンが、うめき声を上げながら仰向けに倒れた。その上に馬乗りになったマディルスは、棍棒を抜いてもいなかった。両手の拳を固めて、めちゃくちゃにゴルゴンに殴りかかっている。興奮のあまりか彼が叫ぶ言葉は切れ切れの単語のようなものだった。声変わりの終わりきっていない甲高い声が闇に響く。

「この馬鹿野郎、何にもわかっちゃいないくせに、ギルファスが、ギルファスは、そんな――!」

「マディ!?」

 その甲高い声で今まで話していた者の正体を悟ったのだろう、フィゴスが慌てた声を上げた。その時には、ギルファスは冷静に戻っていた。自分より先に他の者に暴れられてしまうと、冷静に戻らざるを得ない、というのが本当のところだったが。

 冷静になった目で、もう二人、今まで一言も言葉を発していない存在の方へ目を向ける。ギルファスの視界の中で、片方の人物が一歩、大きく後ろへ下がった。その動きで、彼が東軍銀狼隊ではなく『目付』だったのだということを悟る。残りの一人はあっけに取られたように突っ立っていたが、慌てたようにマディルスの方へ足を踏み出してくる。

 東軍銀狼隊も、その数を三人にまで減らしていたのか。

 そう思いながら、ギルファスは棍棒を抜いた。

『目付』がいるのはありがたい。マディルスの奇襲に驚いて棒を飲んだように突っ立っていたフィゴスの頭から、鉢巻をむしりとった。フィゴスが狼狽の声を上げるが、『目付』の冷静な声が響いて沈黙する。不意打ちをして悪いとは思ったが、今は迅速が肝要だった。先ほど立てた推論が正しければ、この辺りには他にも東軍の部隊が潜んでいるはずだ。彼らが騒動に気づいてやってくる前に、何とかこの場を切り抜けなければならなかった。

 マディルスはまだゴルゴンの上に乗っていたが、ゴルゴンが一瞬の衝撃から立ち直った今は、やや形勢が不利になっている。体格の差の分だけ腕の長さにも差があって、鉢巻をむしりとることができなかったらしく、マディルスの小柄な体はゴルゴンに持ち上げられそうになっている。その背中に最後の一人が手を伸ばそうとしていて、ギルファスはその少年に飛び掛った。

 振り下ろした棍棒を、その少年が地面に転がって避ける。

 少し離れた茂みから、騒動に気づいた東軍兵士たちが駆け出してくるのが気配でわかる。その人数の思いがけない多さに舌打ちしたとき、マディルスが言った。

「ごめん、」

 彼はゴルゴンの屈強な両手に襟元を掴んで持ち上げられていて、声がひどく苦しそうだった。助けようと反射的に足を踏み出したとき、マディルスがそれをさえぎるように、左手を大きく振った。

「行って……!」

 絞り出すような声だった。

「後で謝るから! 今は行ってくれ! 助けなきゃいけないんだろ――うわっ!?」

 悲鳴を上げて、マディルスの体が向こう側に投げ出された。ゴルゴンが、持ち上げていたマディルスの体を跳ね飛ばしたのだ。暗闇の中でも鋭い眼光が、下からギルファスを睨みあげてくる。ゴルゴンは、呻くように叫んだ。

「ギルファス……!」

 そして跳ね起きて、こちらに掴みかかってくる。しかしすぐにその動きが止まった。跳ね飛ばされたマディルスがかけ戻ってきて、ゴルゴンの腰に後ろからしがみついたのだ。

「行って! 早く!」

 周囲から東軍兵士たちの足音が迫ってくる。

 ギルファスはマディルスの声にはじかれるように、闇の中を走り出していた。


  *   *   *


 窓から外を眺めると、闇の中に確かに潜む人々の気配が肌を打つ。小屋を取り囲んだ闇の放つ緊迫感は、時を経るごとに増大して、今ではアイミネアの肌をちりちりと焼くかのように思われた。

 ぽつりぽつりとかがり火が増えてきているのは、小屋の包囲が完了した証だろうか。周囲をすっかり取り囲んでしまうまでは闇にその身を隠してきた敵たちも、もう逃げられる恐れがないとわかってからは次第に大胆になってきているようだった。西軍の本隊は小高い丘の向こう側にいて、総攻撃に気をとられているためにこちらの異変には気づいていない。結構距離もあるから、大声を上げたところで気づいてもらえるとも思えないし、よしんば気づいたとて間に合いはしないだろう。

 小屋の中には奇妙な沈黙が落ちていた。

 先ほどから、誰一人として言葉を発していなかった。

 包囲されたと気づいたときにも、誰も慌てなかったというのは不思議なことだ。アイミネアは自分の思考を思い返した。そう、あたしたちは皆慌てなかった。なぜだろう、と考えるまでもなく、理由に思い至る。皆この事態を、半ば予期していたからだ。無意識にせよ、意識に上らせていたにせよ、ガスタールとグスタフがあのまま引き下がるなんて、誰も信じていなかった。

 アイミネアはこの小屋に唯一切られた東側の窓辺に陣取って、闇をじっと見つめていた。

 闇を照らすかがり火に目を凝らしても、そこに人がいるとわかるだけで、その人物の顔立ちまでは照らし出してくれない。

 でも、この暗闇のどこかに――グスタフが、いるんだ。

 三日間酷使し続けた体には疲労が沈殿してはいたものの、この闇のどこかにグスタフがいるのだと考えるだけで――四肢の隅々にまで、活力が行き渡っていくようだ。感情の方も同様で、この三日間にあきれるくらいに浮き沈みした自分の頭の中は、このような窮地に立たされているというのに、落ち込むどころか逆に興奮していくようだった。

 東軍の館の中では、あんなに怖くて怖くてたまらなかったのに。

 あのときよりも、考えてみれば絶望的な立場に立っているような気がするのに。

 皆と、一緒だからだろうか。

 一人じゃない、から。……だろうか。

 この近辺にいる味方は、それでもたったの十人にしか過ぎなかった。いや――一人は『目付』だから、実質九人。媛隊を護衛するために派遣された戦闘隊の一部隊、五人の男たちは、二つある入り口と窓辺を固めるべく表に出ていた。アイミネアのいるところから、背の高い男の頼もしいごま塩頭が見えている。他の四人がどこにいるのかはわからなかったが、いずれも四十に近い『宴』の古兵たちがこの小屋の周りをしっかり守ってくれているということは考えずとも感じられた。

 唯一切られた東側の窓辺で、アイミネアは外を見ていた。この窓には窓板なんて高級なものははまっておらず、代わりに分厚いカーテンがどっしりとぶら下がっていて、彼女はそれに包まる格好で居心地良く窓に収まっていた。

 シャティアーナは少し離れた壁際に、足を伸ばして座っていた。彼女の体を彩る若草色の紋様が、薄暗い小屋の中でほのかに光を発しているように見える。彼女は目を閉じていた。その表情はとても穏やかで、周囲を敵に包囲され、彼ら全員から首を切望されている『宴』の中心人物だとはとても思えなかった。

 ミネルヴァは隣に座るシャティアーナとは対照的に、落ち込んでいるのが目に見える。彼女の左足に巻かれた白い包帯が痛々しい。こんなときに自分が皆の足を引っ張っている――と先ほど彼女は泣きそうにつぶやいていた――のが耐え難いのだろう。何を言ってるのよ、って、みんなで肩を叩いて笑い飛ばしたのに、ミネルヴァの気分は浮上しない。じれったい子だなあ、とアイミネアは苦笑したい気分だった。ミネルヴァが昼間、突撃を敢行しなかったら、アイミネアはもちろんギルファスだって戻ってこられたかどうかわからないのである。彼女の足はいわば名誉の負傷であるというのに、ああしなければ事態は最悪になっていたかもしれないというのに、ミネルヴァはそれを理解はしていても――おかげで助かったのだと何度言っても、自分の足が思い通りに動かないという事実に打ちのめされているのだった。

 ガートルードはアイミネアのすぐそばで、窓枠にひじを突いて外を見ている。

 黙ったままの横顔からは、その感情は読めなかった。ガートルードは普段とは裏腹にかなり口数が少なくて、先ほどからほとんど何も言葉を発していない。

 ――いや。

 アイミネアが横顔を覗き込むのを待っていたかのように、ガートルードがこちらに視線を投げた。

「アイナは、」

 ずっと黙っていたためか、かすれたような声が聞こえる。

「怖くなかったの……?」

「え?」

 思いがけない言葉だった。アイミネアは目をぱちぱちさせて、ガートルードの真意を測ろうとした。ガートルードはすぐに視線を外の闇の方へ戻した。けれど一瞬こちらに向けていたその表情からも、口調からも、視線からも――彼女が恐怖しているという兆候はまったく見られない。彼女は窓の外に目を向けたまま、今度は普通の声音で言った。

「怖くなかったの? 一人で……東軍の館の中を逃げ回っていたとき」

「ああ……」

 アイミネアは少し、闇の中で顔をほころばせた。窓の外のごま塩頭が振り返って、ニヤリとしたのが見えた。盗み聞きをする気はないが、ここから立ち去るわけにも行かないからな、という悪戯っぽい表情。ガートルードも苦笑して、気にしないで、というように、彼に手を振って見せた。

「内緒話をする気はないの。ただ、詳しい話を聞きたいなって思っただけ。だって、『宴』が終わったら大騒ぎで、ゆっくり話してる暇なんてないもんね」

「そうだねえ」

 アイミネアはもう少し、大きく顔をほころばせた。西軍に戻ってからというもの、いろんな人に、『どのように逃げて、どのように手紙に細工をしたのか』というような行動については良く聞かれた。が、不思議に感情について聞いてきた人はいなかった。

「もちろん、怖かったよ。怖くて怖くて怖くてたまらなかった。でもねえ……不思議なんだけど。ルーカと一緒にいたときには、怖くなかったんだ。寒かっただけで」

「へえ」

 ガートルードの口調が少し固くなって、反射的にしまった、と思う。そういえばルーカとガートルードは大変仲が悪かったのだ。自分のルーカへの感情が良い方へかなり傾いた時点で、ガートルードとの確執についても忘れてしまっていたような。慌ててフォローするために、パタパタと手を振ってみせる。

「ルーカ、優しかったよ。ご飯食べさせてくれて」

「まぁたアイナはすぐ餌付けされるんだから」

 ガートルードが苦笑する。アイミネアは思わず笑い出してしまった。

「ひっどいなあ。あれはあたしじゃなくても感激すると思うよ、だってすっごく寒くてお腹がすいて死にそうだったんだから。そしたら、ルーカが『どうする?』って聞いたの。『一緒に行く? それとも待ってる?』って」

「へえ……」

 ガートルードが意外そうな顔をする。アイミネアはにっ、と笑って見せた。

「実はいい人なんだよね。ただ口が悪いだけで。ほーんと誰かさんそっくり」

「……誰のことかしらあー?」

 脅すように詰め寄る口調がおかしくて、喉からくぐもった笑い声が漏れる。その自分の声がおかしくて、さらに笑いが漏れる。ごま塩頭は聞こえない振りをしてくれていたが、肩がちょっぴり震えていた。

 ひとしきり笑った後、アイミネアは大きく息をついた。あんまり大声で笑うわけには行かないからと堪えていたためかお腹が痛い。ガートルードもつられたようにくすくす笑っていたが、アイミネアの笑いの発作が収まったのを見ると、べえっと舌を出して見せた。

「……あとね、アルスターと一緒にいたときにも、怖くなかったんだよ」

 アルスターと出会って別れたくだりについては既に話してあったから、ガートルードはそう、と言っただけだった。アイミネアはガートルードと並んで、少しずつ包囲の輪を狭めてきているのであろう東軍兵士の潜む闇をじっと見つめた。笑ったために疲労による倦怠感が吹き飛ばされたのだろうか、それとも皆と一緒なんだということが、四肢の隅々にまでいきわたったためだろうか。このまま終わってなんてやらない、という、闘志のようなものがふつふつと湧いてきていた。このまま唯々諾々と全滅を許し、黙って『宴』が終わるのを待っているなんて耐えられない。

「今なら、ルーカとアルスターの気持ちが良くわかるよ、ガート」

 つぶやいてみた声は、今までのおしゃべりとはまったく異質な色をしていた。それに気づいたのか、ガートルードが静かにこちらを見返してくる。

「ルーカはあたしを逃がしてくれた。アルスターもそうだよ。『宴』で……自分が活躍することよりも、あたしを逃がす方を選んでくれた。どうしてだろうって不思議だった。ルーカはあたしに籠をかぶせる暇があったら、自分でかぶったって良かったのに。アルスターはあたしに手柄を譲ってくれて、最後にはあたしをわざわざ助けて、自分は残ってくれたんだ。……不思議だった。なんであたしなんかを助けるのかって、思ったよ。

 でも、今なら、わかる。二人がどういう気持ちだったのか」

 手柄を立てることが、できなくなっても。

 生き延びることさえ、できなくても。

 自分の代わりに活躍してくれる人がいるのだと思えば、不思議なほどに心が軽くなる。もちろん『宴』は本当の戦争ではないけれど。本当に死ぬわけじゃないけれど。でももしこれが本当の戦いでも、同じことができそうな気がする。

 ――昔語りの乙女が、最後に微笑んでいた理由までわかる気がすると言ったら……笑われるだろうか?

「ねえ、ガート?」

 くるり、と彼女の方に向き直って、アイミネアは左手で、ガートルードの右手を握った。

「……お願い。あたしと一緒に死んでくれない?」

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