表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
41/54

第三日目 4節「カッコいいよ」(アイミネア)(2)

  *   *   *


 ゴードは中央の小高い丘に立っていた。そこで彼は、全ての兵士たちを見渡していた。そこからなら全てがよく見えた。西軍銀狼隊が巻き起こしたささやかな音が、東軍兵士たちに動揺を与え――そしてその動揺があっという間にふくれあがっていくのを、そして決定的な瞬間が訪れるのを、ゴードは黙って待っていた。あんな少人数でありながら、彼らのもたらした影響は劇的なものだった。彼らの起こした動揺の波は、見る見るうちに東軍全体に広がっていく。

 ゴードは待っていた。東軍全体に動揺が広まらないうちに攻撃を仕掛けては、充分な効果が得られない恐れがある。しかし遅すぎては、立ち直ってしまうかもしれない。ゴードは唇を舐めた。先程銀狼隊たちに言った言葉が脳裏を滑っていく。「一瞬だけくれ」と彼は頼んだ。銀狼隊たちは見事に、その一瞬を作り出してくれた。よくやった、ギルファス ――ゴードは口元に、笑みを刻んだ。

 ――今度は、俺の番だ。

 周りの者は、ゴードがその決定的な瞬間をつかむのを、固唾を飲んで見守っている。

 東軍の混乱は今にも頂点を迎えようとしている。

 館の入り口に立つガスタールが、何とか動揺を沈めようとしているのが見える。

 そしてゴードは旗をつかみ、呼吸を整え、口を開き、

 ただ一言、叫んだ。

「――行け!」

 おお――!

 待ちかまえていた西軍兵士たちは、まるで雪崩のように、青い陣地の中へと駆け込んで行った。

 

 おお――!

 耳をつんざくような雄叫びが沸き起こる。太鼓の音が耳を打つ。大地を踏みしだく足音が津波のように突進してくる――その騒音にあおられるように、一瞬足を止めかけたアイミネアの前で、ルーディが、棍棒を抜いた。

 ためらいもせずに、一直線に、ギルファスの方へ走っていく。

 ギルファスの前に、先程追いかけていった三人の東軍兵士がいて、ギルファスは彼らの攻撃を、たった一人で受け流していた。マディルスが太鼓を叩いている。ラムズが旗を振っている。その二人をかばうようにして、ギルファスが立ちふさがっている。

 ――銀狼のすることじゃないわ!

 アイミネアがそう、心の中で悲鳴を上げたとき、東軍が一挙に崩れるのが目の隅に見えた。

 それはあっけないほどの――カードでできた山が崩れるような、すがすがしいくらいの崩れ方だった。おそらく兵士たちはパニックになったのに違いない、とアイミネアは想像した。この三日間で、『目付』が一番忙しかったのは、この瞬間だっただろう。東軍の兵士たちは、挟み撃ちにされるという恐怖から逃れることができず、一瞬どちらへ逃げたらよいのかわからなくなり――そこへ、ゴードの号令のもと、西軍が襲いかかったのである。

 ――勝った。

 アイミネアは確信した。否、西軍の殆ど誰もが、そう悟ったに違いない。不安と言えば、媛が前線にまで――ミネルヴァが突入してからは、更に東軍のすぐそばにまで出てきていたこと、そして銀狼が、敵陣のまっただ中にいるということ。アイミネアはぎゅっと唇をかみしめた。絶対に、ギルファスを無事に送り届けなければならない。

 東軍が崩れ立つのを見届けた一瞬のうちに、銀狼隊も一番危険な時期を脱していた。ルーディが東軍兵士三人の背後から襲いかかり、役目を果たしたマディルスとラムズが太鼓と旗を棍棒に持ち替えたので、三人に勝ち目はなくなった。アイミネアが駆けつけたときには、彼らのそばにいた『目付』が三人の『戦死』を宣言し終えたところだった。ギルファスは荒い息を吐いていたが、まずルーディを見て嬉しそうな顔をして。

 そしてアイミネアを見た。

 目が見開かれる。

「……アイナ!?」

「話はあとよ!」

 ギルファスたちの顔に素直な賞賛の色が走ったのはとても嬉しかったが、アイミネアはここでぐずぐずしている暇など一瞬たりともないことをよくわきまえていた。こうなった以上、ガスタールは、そしてグスタフは、死にもの狂いで銀狼を狙うに違いない。銀狼隊たちの白い上着は、ここでは嫌になるほどよく目立つ。そしてギルファスの体に描かれた若草色の紋様は、敗走のさなかでも、敵の目を引かずにはいないだろう。

「すぐ防衛線の兵士たちがここに駆けつけてくるわ」

 自分の青い上着を脱ぎながら、きびきびと彼女は言った。

「これ被って。行きましょ、逃げるのよ!」


  *   *   *


 防衛線のことをわざわざ口に出したのは、銀狼隊たちが西軍に帰り着くためには、防衛線の目の前を通らなければならないからである。

 現に、森の中からは慌しい物音や人の叫び交わす声などが聞こえてきていた。東軍が崩れた今、防衛線の存在にはあまり意味がなくなった。館が包囲されるのは時間の問題である。その時にこんな場所を守っていても意味がない。彼らは館の入り口が固く閉ざされる前に館に帰り着こうとするだろうし、その途中に西軍の銀狼隊がぐずぐずしていたら面倒なことになる。

 しかしアイミネアの想像通りに、物事は進まなかった。

 旗や太鼓を放り出して身軽になった西軍銀狼隊たちが今にも走り出そうとしたときに、ギルファスが、唐突に足を止めたのだ。

「何してんだよ、ギルファス!」

 マディルスがじれったそうに叫んだが、ギルファスは答えず、右手の、東軍の兵士たちの真ん中に目を据えていた。アイミネアの貸した上着の下から、目を眇めて。

 そして彼はいきなり走り出した。

 東軍の真ん中へ向かって。

「な、――どこ行くんだよ!?」

 ラムズが叫ぶ。ルーディがはじかれたようにギルファスの後を追って走り出す。残された三人は一瞬顔を見合わせたが、やはり一斉にギルファスの後を追った。追うしかないわ、と走りながらアイミネアは思った。全くギルファスったら、いったいどうしたというのだろう? 銀狼の自覚ってものがないんじゃないかしら?

 ギルファスはあっという間に東軍の真ん中に飛び込んだ。そのあまりの思い切りの良さに、アイミネアは素直に感心した。ギルファスは何も恐れていない。昔から思い切りの良い奴だとは思っていたが、まさかここまで勇気があるなんて! ギルファスは雪崩を打って敗走してくる東軍兵士たちの間を上手にくぐり抜けていく。ギルファスよりもはるかに体の小さな――人の間を潜り抜けるのに適した――アイミネアがなかなか追いつけないのだから、ギルファスの身の軽さは尋常じゃなかった。まるで何もない草原を走るみたいに、勢いよく走っていく。

 ギルファスに上着を貸していて良かったと彼女は思った。いかに敗走のただ中とはいえ、敵の銀狼を見逃すほど東軍は甘くはなかっただろう。現に上着を被っているにもかかわらず、行き過ぎた兵士が何人も、何か叫びながら戻ってこようとしていて、その叫びに反応した前方の兵士たちの踏みとどまる数が増え、一歩先へ進むごとにくぐり抜けなければならない腕は増えていく。アイミネアがギルファスの背中に追いつこうとしたとき、目の前に、四人の東軍兵士が立ちふさがって、

 ギルファスは、黙って棍棒を抜いた。

 一瞬もためらわない。

 アイミネアは舌を巻いた。

 ――突破するつもりなんだわ!

 それにしても、あまりにも無茶だ。アイミネアは何とか自分が前に出られないものかと思った。青い服の自分が前に出れば、彼らは一瞬腕をゆるめるだろう。すぐに額の鉢巻きが白いことに気づくだろうが、その一瞬があれば、ギルファスがあそこを通れる。しかしギルファスの足は速く、どうしても前に出られない。

「銀狼だぞ……!」

 四人の内の一人が叫ぶ。

 ギルファスは青い上着の中に一瞬身を沈め、

 そして男たちに飛びかかった。

 上着の中にギルファスの姿が消えたように見えた。

 あ、と思ったときには、上着がふわりと浮いていた。兵士の一人が上着に向けて棍棒を振り下ろしたが、その下には既にギルファスはいなかった。ギルファスは上着が浮いた瞬間に右に移動していて、兵士の棍棒が上着を巻き込んで振り下ろされたところへ足をかけて踏みきりにしたのだ。つまり棍棒を握った男の手の上に左足で飛び乗ったということになる。男が手を蹴られて声をあげたとき、ギルファスはその手を踏み台にして自分より背の高いその兵士の頭に手を伸ばし、鉢巻きを奪っていた。

 そのまま後ろに飛んで、地面に着地する。

 手の痛みも忘れてあっけに取られた男に、『目付』の冷静な声が飛ぶ。そしてギルファスは、次の男に飛びかかっていた。今奪ったばかりの鉢巻きを、惜しげもなく地面に捨てている。

 ギルファスが集中しきっているのが、その一点だけでもよくわかった。敵から奪った鉢巻は、手柄を申告するために必要なのである。ギルファスは申告するための手柄に執着していない――何故彼がこんな無謀なことをしたのかはわからなかったが、単に手柄を立てたいがために無謀な突進をしたわけではないのだということがそれでわかった。

 ――それにしても。

 アイミネアは幼馴染の背中を見ながら口笛を吹きそうになった。

 思わず見とれてしまいそうに、軽やかな動きだ。

 しかし彼女はただじっと、ギルファスの動きを見ているわけには行かなかった。残りの三人のうちの一人が、アイミネアの白い鉢巻に目を止めたのか、こちらに向き直ったのである。それはドルシェという男だった。ちなみに言えば、隣の雑貨屋の親父であった。普段はとても温和で、堅実で親切な男なのだが――『宴』の時にだけは人が変わるのだ。この三日の間だけ本性がむき出しになるのか、それともこのときにだけ獰猛な仮面を被るのかはわからないが、単なる雑貨屋の親父にしては腕っ節が強く、丸太のような腕をしている。

「よお、アイナじゃないか」

 ドルシェは歯をむき出してにっと笑った。アイミネアはわずかに後ろに下がった。ドルシェが、そのごろごろする遠雷みたいな声で『悪口合戦』に加わっていたときの声が耳によみがえってきた。あの時ドルシェはアイミネアのすぐ後ろに立って、彼女よりはるかに高いところから西軍を恫喝していた。あれはおとといのことだった――信じられない、たったの二日前のことなのだ。

 ドルシェは、そのごろごろする声で、ゆったりと話しかけてきた。

「今年は大活躍だったそうだな。それに引き換え、東軍の敗北は決まったようなものだ……そうだろう、ええ? 敗残の兵士へのはなむけに、手柄をちょっとばかり譲ってくれてもいいんじゃないかと思うね」

 ドルシェは機嫌良さそうに笑った。ルーディはギルファスの向こう側にいて、残りの一人と渡り合っている、ギルファスは自分の目の前の男にかかりきりで、アイミネアとドルシェの間を隔ててくれるものは何もなかった。ラムズとルーディは遅れている。早く来てくれないかと一瞬思った時、ドルシェは獅子だって尻尾を巻いて逃げ出すだろうと思われるような、凄みのある笑顔を見せた。

「……アイナの鉢巻にはかなりの得点がつけられるだろうな」

 そして一歩、足を踏み出す。

「今年の『宴』の立役者の一人だ。君が否定してもみんな認めるだろう。この敗走の最中に君にめぐり合えたとは、俺は運がいい」

 舌なめずりでもしそうな勢いだ。

「あ……悪役みたいな台詞よね?」

 もう一歩後ろに下がりたくなる気持ちを抑えて何とか憎まれ口を叩いてみる。するとドルシェは愉快そうに笑った。

「そうだろう? 一度言ってみたかったのさ」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ