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第三日目 2節「対決」(アイミネア)

 銀狼隊が川へ向かって駆け出した頃。

 アイミネアが隠れている戸棚の中は、『宴』の前に掃除されたようで、よく乾いていた。

 中には棍棒や太鼓の他に、ごわごわする防水布がきちんとたたまれて入っていた。防水布はどれもよく干されていて、お日様のいい匂いがする。アイミネアは防水布の間に居心地よくはまり込んで、いつしか眠り込んでいた。戸棚の扉は少し割れていて、空気の通りも悪くなかった。隠れるにも居眠りするにもとても都合がいい。

 彼女をここに隠してくれたのは、アルスターである。

 

 昨夜――

 会議室から逃げ出したアイミネアは、大胆にも、しばらく顔を見せたまま一階の廊下を歩いた。他にどうしようもなかった。防水布の束を持ってくるわけには行かなかったし、上着を頭からかぶっていてはかなり怪しい。額に巻いている白い鉢巻が光を放っているかのように思われて、生きた心地もしなかった。運良くこちらに向かってくる人はいなかったが、人影がなかったわけではないし、アイミネアから見て前方には厨房と食堂があるのだ。この時間、一番人の出入りの多い場所である。

 ことさらにゆっくり歩きながら、跳ね回る心臓をなだめて、彼女は左側に続く扉の数を数えていた。ここで入る部屋を間違えたら全てが終わることがわかっていた。人がいる部屋の中に隠れるわけには行かないが、できれば、『宴』の中心人物が出入りする部屋に隠れたかった。特にグスタフかガスタールを『暗殺』するには、二人がやってくる可能性のある部屋にもぐりこむのが一番なのだが。

 今までの経験から考えれば、大将と副将は、寝る前に明日のことについて打ち合わせをするだろう。それも大勢人がいるところではなくて、ゆっくり落ち着いて言葉を交わせる場所で。その部屋はどこだろう――と考えながら歩いていたアイミネアの背後で、

 扉が、開いた。

 ぎくりと体がこわばった。立ち止まりそうになる足をかろうじて前に出す。平静を装って歩き続ける彼女の後ろで、二人の男が廊下に姿を見せた。片方の男が、部屋の中にいたもう一人の男を呼びに来たものらしい。二人はとても慌てていたようで、廊下を行く少女の後姿にはまったく気づきはしなかったのだが、アイミネアにそんなことがわかるはずもなかった。全身の神経が背中に集まったような気がする。その背中で、アイミネアは二人の男が交わす言葉を聞いた。

「誰かが会議を盗み聞いた可能性があるって、誰だよ?」

「アルスターかアイナかしかいないだろうが。とにかくこっちだ、早く」

 二人は言い合いながら、足早に、今アイミネアが出てきた大広間のほうに向かう。……あの声は。聞き覚えのある声を耳にして、アイミネアは意を決して振り返った。

 ひょろりと背の高い青年が、もう一人と連れ立って、あちらの方へ歩いていく。

 あれは、ティトルスだ。

 アイミネアは、今二人が出てきた扉に目を走らせた。二人は扉をきちんと閉めていなかった。向こう側に開かれていた扉が、反動でゆっくりと閉まろうとしている。彼女は慌ててそれに駆け寄って、しまる寸前で止めた。そうしながらも、稲光のように思考をめぐらせる。

 ティトルスがここから出てきたということは――

 ティトルスは地図作成隊の一員である。

 昨夜ルーカと貯蔵庫に忍び込んだときに、グスタフと一緒にやってきた男で、グスタフの先輩にあたり、地図作成隊でも一目置かれる存在だった。隊長のグーレンにとても気に入られていて、有能だが酒癖が悪いグーレンの尻拭いをするのがもっぱらの役目で。

 てことは、ここは地図作成隊の控え室なんだ。

 中に滑り込んでから、彼女はそう思った。

 

 部屋の中には人影がなかった。中に入ると、白墨と木炭の匂いが鼻をくすぐった。後ろ手に扉をそっと閉めて、彼女は中を見回した。それは長方形の小さめの部屋だった。部屋のそこここに燭台が置いてあって、辺りは結構明るい。アイミネアから見て正面の壁には大きな窓が切られていて、今は片側の木扉だけが開けられていた。彼女の目の前には机があって、板や黒板や古い地図が山と積まれている。机の向こうには背の低い棚があったが、その棚の上にも本や板や定規、コンパス、木の棒、鉛筆といった地図を書くのに不可欠な道具が積み上げられていて、その向こう側が見えないほどだ。配置を考えてみると、棚の向こう側にはグーレンの仕事場があるに違いない。

 そして、部屋の左手には戸棚がある。

 ――地図作成隊の控え室。

 アイミネアは自分の幸運に感謝した。

 大将と副将が、明日の打ち合わせをするのに、これ以上打ってつけの場所はない。机も椅子もあるし、地図も山ほどある。部屋の主であるグーレンは気難しく、昨夜の情報からすればグスタフに辛らつなことを言ったらしいが、腐っても隊長である。まさか明日の打ち合わせの時にまで、私情をはさんだりはしないだろう。

 この部屋で待っていれば、グスタフかガスタールがやってくるだろう。

 そうしたら、暗殺だって不可能じゃない。

 どこに隠れようかとあわただしく視線を走らせ、左側の戸棚に目をとめた。あの中に隠れられないだろうか。そう思って、そちらに二歩ほど足を踏み出したときだ。

「……どうなってんだ、これ」

 低く呟く声がして、彼女はぎくりと身をこわばらせた。

 

 それはグーレンの声だった。部屋の中にまだ残っていたのだ。低く呟く声と共に、こつこつと机を叩いている音も聞こえる。どこから聞こえてくるんだろう。視線を走らせるが、グーレンの姿はどこにも見えない。落ち着いて、落ち着いて。自分に言い聞かせる。グーレンは、まだアイミネアがここに入り込んだことに気づいていない。せっかくこんな貴重な部屋にもぐりこめたのだ。ここで気づかれたら、全てが台無しになってしまう。

 ――きっと、あの棚の向こうだ。

 部屋の配置がアイミネアの想像通りだとすれば、あちら側にはグーレンの仕事場があるはずで。グーレンは暇なときは酒を飲むか地図を見ているかのどちらかだ。

 そろりそろりと、机の周囲をまわって、背の低い棚と机の間に移動する。

 そうっと爪先立ちになって、背の低い棚の向こう側を覗き込む。

「畜生、あの野郎、距離が合わねえじゃねえか」

 再び、グーレンの声。そのとき、棚の向こう側に、グーレンの頭のてっぺんが見えた。

 ――大当たり。

 声に出さずに呟いて、そっと、身をかがめる。棚と机の間に、壁に背を預けて、アイミネアは座り込んだ。ここならば、グーレンが立ち上がるか、誰かが戻ってくるかしない限り、見つかる恐れはない。

 グーレンは一度地図を見出すと、没頭してしまうたちだった。先ほどの彼の頭の見え方からして、机の上に置いた地図にかがみこんでいるようである。こつこつこつ、と机が指で叩かれているのは、いらだっている証だ。

 アイミネアはぼんやりと、今は正面に見えている、戸棚を眺めた。座り込んだら、疲労がどっと出てきたみたいだった。先ほどから緊張の連続で、なんだか、泣き出したくなっていた。部屋中の燭台がつけられたままなのだから、ティトルスはすぐ戻ってくるつもりに違いない。彼が戻ってきたら、全てが水の泡だ。それはわかっているのだが、お尻が床に食い込んだみたいで、立ち上がる気がどうしても湧いてこない。

 ぼんやりとしながら、それでも、どうしよう、と考えをめぐらせる。諦めるつもりはなかった。立ち上がるまでに、少し休息が必要なだけで。

 ――なに、やってんだろうな、あたし。

 ふと、そんな考えが頭の中をよぎっていった。

 そうだ、本当に、こんなに辛い思いして何になるんだろう。

 おなかの中はもう本当に空っぽで、寒くて、逃げ回って、頼れる人が誰もいなくて。

 これが本当の戦争ならともかく、単なるゲームに過ぎないのに。

 今ここで大声を出して、グーレンに呼びかけたら。

 ふとそんな考えが湧いて、アイミネアは一瞬だけ、そのことについて考えた。……そう、声を出したら。楽になれる。『戦死』って言われるだけで、鉢巻を取られるだけで、美味しいご飯を食べることができて、あったかいお風呂に入って、ぐっすり眠れるだろう。

 ――声を出すだけで。

 しかし迷いは一瞬だけだった。彼女は頭を振って、その考えを追い出した。そんなことができるわけがない。

 少し力の戻ってきた目で、目の前の戸棚を見つめる。

 戸棚の左側が少し割れていたが、中はぜんぜん見えなかった。あの戸棚にもぐりこめたら、全てが上手くいくのに。さっきまでみたいに、衝立の向こうという動きにくい場所じゃない。この部屋の中にグスタフが入ってきたら、あの戸棚から飛び出すだけでいいのだ。

 アイミネアは少しの間、グーレンの気配を探っていた。先ほどまでブツブツ言っていたグーレンは、今は地図を見るのに没頭している。戸棚を開けてもぐりこんだら――と思ったが、そんなことをしたら、いくらグーレンだって気がつくだろう。誰かがグーレンを外に呼び出してくれればいいのに。でも、誰かが呼びにきたら、見つかってしまう。

 こつ。

 グーレンが机を叩く音にあわせて、部屋の中でもう一つ、ごくわずかに音が鳴った。

 こつ。

 時間をおいて、もう一度鳴る。

 それはごくごく小さな音で、おまけにグーレンの音に合わされていたから、没頭中のグーレンは気づかない。しかし鋭敏さの戻ってきたアイミネアの耳にはとてもよく聞こえた。それもすぐそば――本当にすぐそばで、鳴った。同じ間隔をあけて、もう一度鳴る。

 アイミネアは首を回して、机の下を見る。

 机の下にも、さまざまな道具が乱雑に詰め込まれていた。地図を刻まれた木の板が大半で、その他にも大きな布をかけられたごつごつした包みがあって――

 その布の下から、アルスターが顔を出していた。

 

 ――アルスター!

 アイミネアはもう少しで叫びだすところだった。何でこんなところにいるのか、とか、一体何をしているのか、とか、会えて嬉しい、とか、夢じゃないか、とか。さまざまな言葉が頭の中に去来して、全てがすぐに消えた。アルスターが人差し指を自分の口に当てたからだ。

 開きかけていた口を慌てて閉じて、彼女は肯いて見せた。一瞬の衝撃が去ると、すぐさま伝令隊の精鋭としての自制心が戻ってきていた。しかし彼女が見せた一瞬の表情が、とても嬉しそうなものだったので――アルスターは手招きをしながら、にっこりと微笑んで見せた。

 ――なんて頼もしいんだろ。

 一日もの間、たった一人で逃げ回っていた彼女には、敵陣の真っ只中にたった一人だけ残っていた味方に会えたということは、信じられないくらいの安心感をもたらした。もう見つかったって怖くないとすら思える。さっきまで、グーレンのそばで声を出そうかどうしようか迷った一瞬があったことさえ忘れさせた。どうしてこんなに安心するのか、その理由について深く考える暇もなく、アルスターがそっと布を持ち上げて、差し招いた。入れというのだろうか。彼女は一瞬躊躇したが、すぐにそこにもぐりこんだ。机の下はそれほど広くはなく、アルスターの巨体を隠すので精一杯に見えたが、奥の方にまだ隙間があって、アイミネアの小柄な体を隠すくらいの余裕はあった。アイミネアが入り込むと、アルスターが布を下ろす。視界が、真っ暗になる。

 アルスターの大きな体に、アイミネアはすっぽりと抱きしめられた態勢になった。

 心臓が跳ね上がって、一瞬体が硬直してしまう。

 アルスターはアイミネアよりも体温が高くて、腕が長くて、がっしりしている。そんな時ではないのに体が固くなってしまうのは、どうしようもなかった。

 嫌悪感というほどは強くない。他の女の子たちがよく言うように、男の人は汚いとか、思うわけじゃない。おそらく本能的なものなのだろう。自分より大きくて強い者に対する恐怖、とでも呼べばいいのだろうか。

 アルスターの声が、普段と変わらぬ平静さで、耳元で囁かれる。

「グーレンを外に誘い出す」

 うん、とアイミネアはわずかに肯いた。アルスターが、この体勢についてまったく気にしていないようなのが、ありがたかった。

「グーレンが外に出たら、あの戸棚に入れ。さっき覗いて見たが、アイナが入れるくらいの隙間はあるようだった。俺はこの机の下でチャンスを待つ。いいか、俺はアイナがあそこにいることを忘れるからな――アイナも忘れろ、いいな?」

 うん、と彼女はもう一度肯いた。アイミネアが見つかっても、助けはしないと言っているのだ。同様に、アルスターが見つかっても動いてはならない、とも。

「これを持っていけ」

 囁きと共に、布の包みが、アイミネアの抱えたひざの間に落とされる。なんだろうと思う間もなく、アルスターの大きな手が、アイミネアの肩をつかんだ。

「正念場だ。……頑張ろうな」

 うん、ともう一度、肯く。するとアルスターは、行動を開始した。

 

 アルスターは机の下から這い出すと、閉まっていた扉を、こちら側からノックした。低い体勢のまま扉を開け、大きな声で……声色を使って、部屋の中に向かって言う。

「グーレン! 時間です、食事をとってください!」

 その大胆な声に、アイミネアは身を縮こまらせた。アルスターの度胸は尋常ではなかった。部屋の奥から、グーレンの声がする。

「……あー。そう言えば腹が減ったな」

「後がつかえてるんですから、早くしてください!」

「わかったわかった」

 グーレンの声はとても暢気だ。ちっとも疑った様子はない。グーレンは少し沈黙した後、笑いながら言った。

「すぐ行くから、先に行ってろ」

「早くしてくださいよ!」

 アルスターはそう言って、扉を押した。ゆっくりと扉が動いて、音を立てて閉まる。アルスターが机の下の隠れ場所に戻ってくるのと、グーレンが億劫そうに立ち上がるのはほとんど同時だった。

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