第二日目 3節「隠密活動」(アイミネア)(2)
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森の中を闇雲に駆けながら、しばらくは後ろに人の声を聞いた。あまり追っ手がかからなかったのは、先ほど聞こえた「西軍夜襲」のおかげだろう。東軍の陣営を少し離れて森の中に駆け込んでからは、暗闇の中ということもあり、小回りの利くアイミネアのほうが断然有利だ。現に追っ手の声や足音は、どんどん遠ざかって……
「おっと」
目の前に明かりが揺らめいて、アイミネアは慌てて方向を変えた。
西から遠ざかるルートになってしまったが、アイミネアはまったく気にしなかった。いまさら西軍に戻ることなどできるだろうか。まだ、何の手柄も立てていないというのに。ルーカを『戦死』させて、おめおめと一人だけ西軍に戻る、そんなことができるわけがないじゃないか?
闇の濃いほう、深いほうを目指して走る。
子供の頃は、この黒く深い森の闇が怖くてたまらなかった。グスタフとギルファスがよく夜中に抜け出して、夜の森を探検していたのは知っていたが、どうしてそんなことができるのだろうと不思議だった。子どもの頃のアイミネアにとって、夜の森というものは、得体の知れないなにかどろどろしたようなものの潜む、恐怖の対象でしかなかった。同い年の少年たちにとっては、恐怖と期待がない交ぜになったすばらしい冒険の舞台であるということなど、想像することもできなかった。
夜の森が怖くなくなったのは、いつからだろう。
耳を澄ませて、後ろの物音を探りながら、アイミネアはそんなことを思う。
子供の頃。……そう、参加する資格を与えられるようになって、一度目か二度目の『宴』。伝令隊は夜の森を歩けなきゃいけないと言われて、一人で仕事に出されたことがあったのだ。今にして思えばほんの数十メートル、森の中を歩いていって、そこにいる見張りに伝言を伝えるというだけの簡単な仕事だった。しかし、そのほんのわずかの距離が、あの頃は恐ろしくてたまらなかった。
怖くなくなったのは。一人でも、真っ暗でも、大丈夫だと思えるようになったのは。
アイミネアは足をとめた。今はもう、追っ手は誰もついてきてはいない。彼女は呼吸を整え、頭上を覆う、木々の梢を仰ぎ見た。
梢が折り重なる隙間から、月光がわずかずつ、漏れてきている。
静かだった。りりり、りりりり、と虫の声が聞こえる。かさこそと、そこらを這い回る小さな生き物の音もする。遠くで、人々が動いている気配がある。
アイミネアは目を閉じた。子供の頃、暗闇を歩かされた時に、聞いた言葉が耳によみがえる。
『大丈夫』
落ち着いた声音で、彼はそう言ったのだ。
あの頃から、口数の少ない少年だった。無表情で、何を考えているか分からなくて、学校の成績はとてもよくて、体が小さくて。そういう子供だった。周りの、年かさの少年たちからは、生意気だと目をつけられて。同年代の少年たちの、ほとんどから敬遠されて。でもいつも飄々としていて、何も気にしてないように見えて、何も感じないように見えて、それでいてギルファスやルーディと一緒にいるときは、いつもより楽しそうだった。
あの時、グスタフが言ってくれた言葉は、何年経とうとも思い出すことができる。
『いつもと同じ場所だよ。ただ、色んなものが見えないだけだ』
ただ、それだけの言葉だったのだけれど。
幼いグスタフは、幼いアイミネアの手をとって、一番闇の濃いように見えた部分に触れさせた。そこには、確かに、ごつごつした木の固い表皮があった。アイミネアが『王座』と呼んで自分の場所と決めている、お気に入りの枝のある、お気に入りの木。
『見えないけど、ちゃんとそこにある』
恐くてたまらなかった暗闇の中に、ぶっきらぼうだけど暖かい少年の声が響いた。
あの頃から、アイミネアは夜を、それほどには恐れなくなった。昼間、庭のように親しんでいるこの森が、暗くなっても、同じようにそこにあると言うことが、少しずつわかってきたから。
表情を変えない少年にも、人一倍優しい感情がちゃんと潜んでいるように。
どうしてあんな有能で寡黙で無愛想なやつを好きになってしまったのか、と自問することが多いアイミネアだが、本当は、答えは自分でちゃんとわかっていた。
一つため息をついて、アイミネアは地面に座り込んだ。このまま眠るわけには行かない、ということはわかっていたのだが、急に疲労がどっと出てきたような気がする。ごつごつした木の根本に座り込んで、ため息混じりに、所持品を確認した。棍棒が一本。鉢巻きはちゃんと頭に締めている。身につけているのは、媛隊の制服である白いシャツに、ごわごわした防水布のズボン。昼間暑かったので、上着は脱いでしまっていた。空腹の時よりはだいぶマシだが、それでも少し寒い。
疲れ切った足がじんじんしているので、厚底のしっかりした靴を脱いで夜気に晒した。
ポケットを探ると、先ほどルーカが包んでくれた、焼き菓子が二つ出てきた。食べようかどうしようか少し迷ってから、明日に取っておくことにする。
それからハンカチが一枚。
左手首には、カーラがくれた細い綺麗な髪飾りを巻いている。
ポケットの中には、切れ味の良い小型ナイフが一丁。
体中を探り、記憶をひっくり返して調べ、アイミネアはそっとため息をついた。所持品はこれで全てだ。たったこれだけ。夜気を防ぐための、防水布が欲しかった。こんなところで眠ったら、風邪を引いてしまうじゃないか? 夜、外で眠ることになれているギルファスでさえ、むき出しの体を夜気に晒すようなことはバカな真似はしない。
あそこにおいてきたカーテンがあれば、どんなに居心地良く眠れることだろう。
はあああ、と再びため息をついて、木の幹に背中を預ける。顔を仰向けると梢の隙間から月光が差し込んできているのが見える。月光を顔に浴びて、彼女は瞼を閉じた。閉じた瞼の裏にまで、月光が優しく染み入ってくるような気がする。
明日からまた忙しい。東軍の館に戻ったら、眠る暇もないだろう。
ここで眠ってしまうわけには行かないけど……でもほんの少しだけ、休んでいこうかな。
その考えが脳に浮かんで、疲れ切った体が諸手をあげて賛成し、理性もすぐに屈した。
それでも、眠っていたのはほんの数十分の事だっただろう。
がさ、がさと草をかき分ける音がして、彼女ははっと目を覚ました。体が冷え切っていた。眠いし、寒いし、体がこわばっているしで、こんな惨めな目覚めもまたとないだろうと、不機嫌な頭で考える。
そして、草をかき分ける音が再び響いた。
今度こそはっきりと目が覚めた。耳を澄ませる。どうやらそれは一人分の足音で、結構背の高い男らしい。というのは上の方の枝が揺れている音までするからだ。
誰だろう。
アイミネアは動かないまま、そっと棍棒を引き寄せた。
今この時間、こんな場所をうろうろしているなんて。見張りとは思えないし、『夜襲』に備えて配置へ急ぐにしても場所がおかしい。しかしそれをいぶかしく思うよりも、アイミネアの頭を占めていたのは、のこのことたった一人でやってくる男が着ているであろう上着のことだった。男の人で、しかも大柄だ。アイミネアは素早く計算する。あたし一人がくるまる毛布代わりにするのに、充分な大きさの上着を着てる可能性。
答え。かなり高い。
……よく考えると寝ぼけていたのかもしれないのだが、その時のアイミネアはこの上もなく真剣だった。疲れ切っていて、しかも寝入りばなを起こされて、さらに体が冷え切っている。もう少し幼かったら、地団駄踏んで泣き喚いてしまいそうなくらいの悪条件は揃っていると思う。起こしてこの寒さを味わわせてくれやがった奴の上着くらい、奪って何が悪いというのだ?
棍棒を左手に持ち、そっと立ち上がる。
歩く音はどんどん、近づいてきている。
『目付』がいないということ、大声を出されたら一巻の終わりだと言うこと、それ以前に返り討ちにあったらどうするのだと言うこと……普段のアイミネアなら真っ先に考えただろうことが、このときには全く頭に浮かばなかった。
がさり。
ひときわ大きく草が鳴って、
目の前に姿を見せたひょろ長い男の前に、身をかがめて飛び出して、
「わあっ!?」
突然の襲撃に仰天した男の棍棒を奪って、
二本の棍棒を両手に構え、男の喉元に突きつけて、
彼女は宣言した。
「上着、ちょうらい」
ろれつが回っていなかった。




