第二日目 3節「隠密活動」(アイミネア)(3)
お互いにとって幸運だったのは、その場所の上を覆う木の枝が、比較的薄かったと言うことだろうか。
棍棒を二本、喉元に突きつけられたあげくに追い剥ぎまがいのことを言われた男は、何が起こったかわからないと言うように目をぱちくりさせていた。その呆然とした顔が、アイミネアからはよく見えた。月光が梢の隙間から差し込んでいる。男も、こちらの顔を見ている。
そして、男は呆然とした声音で言った。
「あ……アイナか?」
「アルスター?」
アイミネアは男が頭に巻いている鉢巻きの色を確認した。青く染まった鉢巻きは、淡い月光に晒されて黒ずんで見える。しかし、この人は……
「あ……あははは」
アイミネアは慌てて棍棒を後ろに隠した。
アルスターがようやく衝撃から立ち直って、苦笑する。
「ああ、ビックリした。追い剥ぎかと思ったよ」
「あはははは。あの。ここで何してるの?」
ようやくすっかり目が覚めたアイミネアである。慌てて話を変えると、アルスターは苦笑したまま答えた。
「それはこっちが聞きたいな。まあいい、探してたんだ。今日は偶然が重なって、恐いくらいだな」
「偶然って?」
「さっきも森の中でいきなり飛びかかられたと思ったら、ギルファスたちだったんだよ。広い森の中で出会えたというのも運がいいし、殴り倒されなかったのも運がいい」
そう冗談めかした言い方をしてから、アルスターは少しだけ、まじめな顔になって、先ほどギルファスら銀狼隊と遭遇したときのことを、詳しく話してくれたのだった。
* * *
アルスターは、アイミネアたちよりも十ほど年上の、温和な青年である。いつもニコニコしていて、いつでも穏やかで、ついでに言えば既婚者で、二つ年下の奥さんを溺愛している。毎年『求歌』を歌い続けて、ようやく射止めたのである。普段は温和さの陰に隠して滅多に見せないが、粘り強くて根気と根性のある男らしい。普段の動きはかなりゆっくり目なのだが、それでいて『宴』では各戦闘隊の隊長から熱烈な勧誘を受ける。戦闘になると、大胆で、的確で、肝の据わった戦い方をするらしい。厳つくて髭が濃くて外見はとても怖いのだが、さばさばした性格で、少年たちの人気も高い。
それはさておき、アルスターはいつもどおり温和な顔をしながらギルファスたちのことを話し終えた。
で? とアイミネアは先を促す。
「夜襲はどうなったの?」
「さっき鏑矢が鳴った。ギルファスがゴードに知らせてくれたらしい」
「鏑矢……」
アイミネアは目を瞬いた。
「夜襲に備えた敵が、すぐそばにいるのに?」
「まあ、一番的確な判断だろうな。ゴードは見張りを倒し終えるのをてぐすね引いて待ち構えていたはずだ。鏑矢が鳴れば即座に兵を出すだろうし、本陣をつけば、銀狼だけに構ってる暇はなくなるだろう。それからシャティたち媛隊も、銀狼隊とは別ルートを通ってこっちへ向かってる。媛隊に危機を知らせなきゃ……」
「媛隊も!?」
アイミネアは、思わず地面にどっかりと座り込んでしまった。体重の軽い自分が『どっかりと』座るつもりで動いても、さまにないことはよくわかっているのだが。
アルスターは簡単にうなずいた。
「そういう話だったよ。俺が東軍見張りの位置を知らせたときには、そう言っていた」
「……」
黙りこんだアイミネアを、アルスターが心配そうに覗き込む。
「媛隊と銀狼隊を同時に前線に出すなんて、と怒ってるのかい? まあゴードにも考えがあるってことじゃないかな」
「そうじゃないわ」
彼女はきっぱりと、首を振った。
「どうしてあたし、そんなときに媛隊にいられないのかなーって、『宴』の神様に恨み言を言いたい気分なだけ」
冗談交じりに言ったが、それは、彼女の正直な気持ちだった。
媛隊がそんな場面に立ったことなど、『宴』の長い歴史でも初めてのことじゃないだろうか。そんなときに自分は、こんな森の中で、寒さに震えながら眠っていたのかと思うと腹立たしい。
眠気はもうすっかりアイミネアの体を去ったようだった。ほんの数十分でも熟睡したことで、頭の働きや体の機敏さが戻ってきている。何より興奮している。あたしも早く働きたい、と思うとうずうずした。
「それなんだけど、アイナ」
アルスターが、なにやら用心深い口調で言った。
「今なら、東軍の進攻に混じって、媛隊に合流できるかもしれないよ。帰れるのは今しかない。ゴードが攻撃に出れば、東軍は君に構ってる場合じゃなくなるはずだ」
「あら、もう少し東軍の中を探って、有力な情報を手に入れてから帰ろうと思ったんだけど」
今しかない、という表現は大げさじゃないだろうか。そう思ったが、しかし、アルスターはまじめに首を振った。
「東軍は、昨日シャティたちが脱出した後、森のある時点に防衛線を敷いて、西軍の侵入を警戒してる。その警戒は並大抵じゃないよ。そこを通るには、東軍の許可を得るか、兵士の振りをして出て行くか、のどちらかしかないんだ」
「え……」
アルスターは宙に図を書いて、説明してくれた。
『宴』の舞台である広場をぐるりと森が囲んでいて、東側の頂点に東軍の館が、西側の頂点に西軍の塔が、それぞれ建っている。森の中はある程度進んだ地点に杭が打たれていて、そこから先へは出てはいけないことになっている。『宴』のルールの一つというわけだ。つまり上から見ると、『宴』において通行可能な森はドーナツ状になっているわけで、そのリングの一点、館から少しだけ西に行った地点に、東軍の見張りが密集しているということらしい。
「この防衛線はどうやっても抜けられない。現に、昨日、俺たちの情報を取りにきた西軍の伝令隊がつかまって『戦死』させられてる」
「ええ?」
アイミネアはアルスターの描く図をまじまじと見詰めていたが、その言葉で視線をアルスターに戻した。
「だって、じゃあ、どうやって見張りの位置を西軍に知らせたの?」
「西軍から入り込んでるスパイは二人いるだろ。もう一人はガウスだった。ガウスは昨日、集めた情報をもって、西軍に帰った」
アルスターが手短に説明したことによると、こういうことらしい。
ガウスは昨日の夜、ゴードに知らせる情報をアルスターと相談してまとめた後、夜の森の見張りに出るために他の兵たちと連れ立って出かけた。兵たちの密集している防衛線を抜け、わずかな人数だけになって持ち場についた後、小用を足してくると偽って持ち場を離れ、そしてそのまま西軍に情報をもたらしたのである。
つまり、ガウスは、東軍にもう一度スパイとして戻ってくることはできない。
同時に、アルスターは、西軍からの情報を受け取ることができず……こちらからの情報も一度しかもたらせないという、とても不自由な立場になってしまったのだった。
「だから、君が西軍に戻るチャンスは、今しかないと俺は思う」
アルスターは真剣な顔をしていた。アイミネアはアルスターを見上げた。確かに、今抜け出せば、西軍に戻れる可能性は高いだろう。しかし、ただ戻るだけでは、ここに残っていた意味がない。アイミネアは少しだけ、首をかしげた。
「アルスター、あなたは、疑われてるんじゃないの?」
「え?」
「夜の見張りを抜け出して、ギルファスたちに危機を知らせにいったんでしょう。そのあと持ち場に戻ったの? 怪しまれたんじゃない? そうじゃなきゃ、こんなところをうろうろしてるわけがないと思うんだけど」
アルスターはまじまじとアイミネアを見、そして、苦笑した。
「かなわないな、アイナには。確かに、俺はスパイだとばれてしまった。防衛線を固めてた奴らには、まだその事実が伝わってなかったから、上手く潜り抜けてこられたけど」
「うん、それはわかる。でもこれがわからない。どうして、スパイだとばれた時点で、西軍に戻らなかったの?」
もう一度防衛線を潜り抜けて、東軍に戻ってきたのはなぜなのか。アイミネアはそれが知りたかった。
アルスターは再び苦笑する。
「そうだな……俺は今年の『宴』で、まだ何もしてないし」
「もう少し手柄を立てないと、帰れないと思ったのよね」
「ああ、まあね。……気が合うじゃないか」
アイミネアはにっこりした。
「わかってくれて嬉しいな。防衛線のこちら側にいる西軍兵士は、あたしとアルスターだけなんでしょ。貴重な戦力じゃない、ね?」
「頼もしいな」
アルスターは左手を差し出した。左手を握り、その甲を、アイミネアのほうに向ける。同盟、友情、信頼を示す身振りだ。アイミネアは嬉しくなって、同じように左手の甲を差し出し、アルスターのそれに押し付けた。
「俺は銀狼を狙う。東軍媛はまだ助け出されてないからな。これからは別行動だ。そしてもし俺がつかまったら、俺はアイナが西軍に戻ったということにする。お前は敵陣でたった一人だけ見つかった、俺の大事な仲間だ」
押し付けた左手の甲から、アルスターの暖かさが伝わってくる。アイミネアも厳粛な気持ちで、復唱するように言った。
「あたしも捕まったら、アルスターが西軍に戻ったと言うことを誓う。あなたのことは絶対に漏らさない、裏切らない、東軍にいる限り、あなた以外の人に真実を語らない」
簡単な儀式が終わると、アルスターは優しく微笑んだ。梢を抜けてきた月光が、彼の髭の濃い顔の上にまだら模様を作っている。
「アイナは誰を狙う? 君のことだ、どうせ狙うのなら大物だろう」
「銀狼はアルスターに譲ってあげる」
冗談めかして言いながら、彼女は立ち上がる。そろそろ夜が明ける。夜襲をかけられて、東軍兵士たちが手一杯のうちに、館の中に戻っておきたい。続いて立ち上がったアルスターに、アイミネアは改まった口調で言った。
「ねえ、アルスター、とても言いにくいお願いがあるんだけど」
「なんだい、改まって?」
彼女は薄い綿のシャツの下で、鳥肌のたった肌をこすりながら、切り出した。
「……上着、貸して」




