暗闇
ぶにゅう。
擬音にすれば、そんな言葉が正しいだろうか。飛び込んだ闇はそんな感触を僕に与えた。
大黒の闇とは明らかに違っていた。
ぬるい、水。夏の水溜りに似た感触。純粋な水ではない。
だが、水。
だが、闇。
そんな水のような闇。
走る。
足の裏の感覚で、いま走っている道が、そこそこ急勾配の上り坂になっているのがわかる。これはいい兆候だ。僕は落とし穴を落ちてきた。そしてあの牢獄にたどり着いた。だから上っているという事は、元の位置に近づいているという証拠になる。
吉兆ではあるのだが。ただやはり厄介なのはこの闇。先が全く見えない闇の中を走っているという事。大黒に憑かれている僕は他人よりは夜目が利く。そんな僕でも目の前くらいしか視界がない。やはりこれは通常の闇とは異質。
そんな異質な闇だけど僕は走る。目が頼りにならないから、耳を頼りにして。聞き取る音は前を行っている蒔苗の足音。細々と聞こえてくるその音の刻むリズムが不自然なのは、ひろしくんに手を引かれて走っているからだろう。
無事なのか? 走っているという事は、無事なのだろうけど、ひろしくんは蒔苗をどこに連れて行こうというのか? 確かめなければ。
蒔苗とひろしくんに声をかけるために口を開いた。
「ッッぼッ!」
途端に何かが口の中にあふれ出した。
──ッ?
口にした言葉は言葉にならずに泡と消えた。
なるほど理解した。
この闇は水なんだ。
水のような闇ではなく、闇色の水なんだ。呼吸が出来るだけで、後は水と同じなんだ。
それを理解した僕は泳いだ。泳ぐように走った。僕のすぐ前から聞こえる、聞きなれたローファーの足音だけを頼りに。手を伸ばせば届きそうな距離にいるかのように聞こえる。しかし、いま駆けているここが水の中だとしたら、音の大きさで距離を測る事ができない。水は空気よりも音を伝導する。目も耳も頼りにならない。結構な恐怖だ。
だけど! この闇の先に何が訪れるかなんて考えない。僕はもう下手に考えない。
僕は力だ。僕は手だ。僕は闇だ。
目標に向って、目標を掴んで、目標に達する。
それだけだ。
歩を踏み出し、腕を振って、首を伸ばし、背筋を正し、駆ける。
全力で闇の中を駆け出した。
闇を抜ければ、光が訪れる。あけない夜はない。
それは正しい。
だが、その光は容易には訪れなかった。
走った。
奔った。
疾った。
駆けた。
地を咬む足の感覚すらおぼろげになってくる。
闇。聞こえる足音。前へと踏み出す足。
全てが幻で、自分が既に闇に溶けて、元存在に戻ったかのような感覚。
そんな感覚に怖気づきそうになったと同時に、突然、蒔苗の足音が消えた。
唯一の頼りとなっていた命綱が切れ、僕は足を止めようとした。しかしさっきまで全力で駆っていた足は、緊急停止要請を実行しきれなかった。
大きなストライドを保持したまま、五、六歩進んでから、やっとこ滑るようにして停止した。
瞬間。
衝撃。
何かに激突した。激突した何かは、柔らかいような、固いような、懐かしいような、怖ろしいような。そんな感触だった。
僕はそのままゆっくりと前のめりに倒れこんだ。
「つっ、つつッ!」
僕は頭を振って目を開いた。目の前に蒔苗がいた。僕の手は双丘の頂上に降り立っていた。
僕は蒔苗の体の上に着地していた。柔らかかった。
と思う。だけどそれを認識した瞬間に。僕の両頬をしなる鞭が往復し、僕の腹にはロケットランチャーが突き抜けていた。僕は上に吹っ飛び、一回転して、仰向けに倒れた。
目の前に広がっていたのは、知らない天井だった。
「ヘンタイッ!」
わざとではない。だが今は反論する気力はない。
そして重要なのはヘンタイ扱いでも、頬の熱さでも、腹の痛みでもない。
ここに、僕の手の届くところに、蒔苗がいる事だ。往復ビンタを喰らおうと、百烈脚を喰らおうと、それだけでいい。今度は失わなかった。
「よかった」
僕はそれだけ呟いた。
「──ごめん」
蒔苗も冷静になったのか。ぽつりと謝る。何に謝っているのかはわからないけど、きっと全部に対して謝っているのだろう。
僕は身体を起こして、無言で首を左右に振った。これだけでよかった。
もう言葉は必要なかった。
見つめあうだけでいい。幼馴染はこれだから楽だ。
しばらくそうやってお互いの無事を無言で喜びあった。
そうこうしている内に僕は気付いた。
「あれ?」
辺りを見回して確認するが、いない。
いないいない。
「どうしたの?」
どうしたも何も、いないじゃないか。
「ひろしくんはどうしたんだ?」
「──えっと。あたしにもわかんないけど、声だけが聞こえたの。後は僕が何とかするから、おねえちゃんはここで待っててっ」
「そもそも、ひろしくんってのは何者だ? あれは普通じゃないぞ」
闇色をした水に包まれた通路。
「んっと。ひろしくんは、いい子よッ!」
「……いい子かどうかは知らないけど、あんな道を作れるのは普通の子供じゃないだろう」
そもそも拉致監禁されている子供な時点で普通ではないのだけど。
「そりゃあ、そうだけど……でもあたしを助けるためにやってくれた事だし」
「僕の事は助けようとはしなかったけどな」
言ってから無神経な言葉だったと気付く。結果としては蒔苗も僕を見捨てた形になっているし、こいつの性格上、それを気にしているだろう。さっきのごめんはその意味での謝罪だったのだろうし。失敗だった。
案の定、言い返す事なく、蒔苗は俯いている。普段だったなら、言葉と暴力で反撃をしてくるはずだ。だがそれがない。
「……でもな。おまえが助けてくれようとしてくれてた時は嬉しかったよ」
頭の後ろで手を組みながら、僕はフォローの言葉は口にする。
蒔苗はクッと首をもたげ、僕の目をジッと見つめる。
「あの時、起きてたの?」
しまった!
「うんっと……あの時はああするしかなかったんだよな。僕がいたらひろしくんは出てこなかっただろうし、彼の中では僕に対する義理なんてなかっただろうし……」
しどろもどろな弁明。弁明というよりはイイワケ。
「起きてたなら、自分も助けてくれるように、ひろしくんに頼めばよかったじゃない」
「いやいや! 僕が起きてたらひろしくんは出てきさえしなかったって。あれは僕が寝てたから出てきてくれたんだよ。そんな状態で僕がノコノコと顔を出したら、助かる可能性のある蒔苗さえ助からなくなってたよ。それにあの時はひろしくんがあんなに突拍子もない方法で助けるとは思ってなかったし。秘密の通路で蒔苗を助けてくれると思ってたんだ。ごめん」
「──ッ! じゃあ、あんたはあたしを助けるために起きなかったって言いたいの?」
身を乗り出した蒔苗の頬が紅く染まっている。
「ああ──」
何を当たり前な事を言っているんだ?
「そそそ、それじゃあ──あんたが助からないじゃない! そんなの嫌よ!」
「? お前が無事に脱出できたら、もちろん僕を助けてくれるだろう?」
「あったりまえじゃないッ!」
「じゃあ──いいじゃないか」
「ぐッ」
蒔苗は言葉に詰まった。これ以上、反論する事はできないようだ。なぜか微妙ににやついているように見える。怒りとにやけを表情が行き来するから気持ち悪い。
僕は現実を引き戻す。
「そもそもここはどこだ?」
僕と蒔苗はあたりを見回す。
そこは茶を基調にした、重厚感溢れるインテリアで統一された。まるで校長室のような部屋だった。広さは二十畳程度だろうか。家のリビングと同じくらいの広さだった。
壁に寄り添うキャビネットには、高級そうな酒が居並び、同じように高級そうなグラスが楚々とした風情で淡い光を放っている。
部屋の中央には革張りのカウチソファが鎮座しており、毛足の長いラグの上には、イサムノグチのローテーブルがその存在感を示してた。
幸運な事に、部屋の中には人はおらず、電気も点いていなかった。しかしその割には室内が見渡せる。その理由は、特に思案せずとも、一見するだけでわかった。
部屋の正面にはられた全面ガラス。これが理由だった。正面のガラスの先から煌々と光が差し込んできている。
僕と蒔苗は全面ガラスにはりついて、その先を眺めた。
「なに、これ?」
ガラス張りになっている先は、とても広い空間が広がっていた。体育館くらいの広さだろうか。僕らのいるこの部屋は二階に位置しているらしく。体育館の二階席から、下を望むような形になっていた。
その眼下の空間では、複数の半裸の女性が、男性を取り囲み、酒を飲み、食事を貪っている光景が、そこかしこに広がっていた。
まさに現代の酒池肉林だった。
「何かはわからないけど、僕らの教育によろしくないのは、間違いないだろうな」
蒔苗の言葉に僕は静かに答えた。
「雑賀、鼻血……」
僕は言葉を発する事なく、手の甲で鼻をこすった。
往復ビンタのせいである。決して酒池肉林を覗き見た結果ではない。
「あれは?」
蒔苗が壇上を指差す。下の空間も、体育館同様、前面に舞台がある。
そこで一人の男が陽気に何かを喋っている。舞台の上には電光掲示板が据えられており、そこには、何かの金額だろうか? 数字が並んでいる。
舞台の中央には、何よりの異様。等身大の仏像が鎮座していた。
その横で司会が大仰な身振り手振りで、観客を煽っている。観客も観客で煽られるままに、手を高く掲げ、掲げた手で何かのサインを作っている。
挙がる手と、煽る司会と、上がる金額。
これは──。
「オークションか」
そしてこの部屋は眼下にオークション会場をのぞみ、端末から入札を行い、酒と食事を楽しむ。俗に言うVIP席って奴だ。
「オークション?」
「ああ、そうだ」
「なんでこんな所でそんな事……」
急な展開に蒔苗の言葉が詰まる。
それにしてもあの仏像。どこかで見た事ある。きっと有名な仏像だ。遠めで見ても由緒あるどこかの寺に収蔵されていそうだし。どう考えても、こんないかがわしいオークションに出品されるような品物じゃない。と言う事は盗品か。
あれ? 盗品? どこかでそんな話を聞いた。
美術品。
盗品。
……。
あッ! あの時。逮捕されて、釈放された後! 須藤さんが言っていた。
その影響で警備が強化されていて、たまたま学校に潜りこんだ僕らが逮捕された。
連続美術品窃盗事件。
あそこに出品されているのは、その事件で盗まれた品じゃないのか?
間違いない、そうだ!
この学校は連続美術品窃盗事件の犯人で、それをこの学校の地下で売りさばいている。
そう考えると、全てが繋がった気がする。
僕が目撃した事件。
僕の記憶の消去。
僕らの逮捕。
僕と蒔苗の退学。
隠蔽された校長室。
蒔苗の誘拐。
全部、全部!
このオークションに関係しているんだ。
僕らの人生を蝕み始めた原因。僕らの敵。巨悪。それが目の前で行われている。
ガチャリと。
『物』の鍵が開いた音がした。
「全部、このオークションのせいだったんだ」
「え? どういう事?」
混乱する蒔苗に、僕は今まで考えてた推理を話して聞かせた。
「じゃあ、校長があたしや雑賀を退学にしようとしているのは、これが原因だって言うの?」
「ああ、そうだ」
「じゃあ、じゃあじゃあ! この事を警察に言って、あの人たちを逮捕してもらえば、あたしたちの処分は取り消されるんじゃないの?」
「そうだな」
「なら! こ、こんな所で時間を無駄にしている場合じゃないじゃない! さっさとここから逃げ出して警察に通報しないと!」
蒔苗が跳ね上がって言った。僕も大きくそれに首肯した。
一気に事件は解決に向っていた。
後ろから男の声が響くまでは。