伯爵の娘
翌朝。
聖堂の裏手へ回ったエレナは、そこに並んでいる馬を見て足を止めた。
「……荷馬車ちゃうかったん?」
「すまない」
パトリックが答える。
「別の案件で使うことになった」
「聞いてへんで」
「昨日の夜に決まったんだ」
横でダガルが苦笑した。
「悪いね。でも、馬の乗り方は教えるよ」
「乗ったことないんやけど」
「だから教えるんだよ」
エレナは露骨に嫌そうな顔をした。
用意されていたのは、他の馬より一回り小さい栗毛だった。
近づいても暴れる様子はなく、のんびりと鼻を鳴らしている。
「……こいつ、大丈夫なん?」
「この中じゃ一番大人しいよ」
「ほんまかいな」
それでもダガルに教えられながら、どうにか鞍へ上がる。
「手綱を引っ張りすぎない。そうそう。背中も固くしないで」
「くっそ……むずいな」
馬がゆっくり歩き出した。
「うわっ」
「大丈夫。走らせないから」
「絶対やで」
しばらく敷地内を回ったあと、エレナは何とか馬を止めた。
パトリックが少し感心したように見る。
「初めてにしては、ちゃんと乗れているじゃないか」
「……はずいわ」
エレナはそっぽを向いた。
「あれ? 伯爵は行かへんの?」
「王命を受けて、航海に出ることになっていてね。
すまないが、彼らと行ってくれ」
「航海?」
「船団を率いている身でもあるからね」
「そりゃすごい……」
その時、少し離れたところで馬具を確かめていた若い女が顔を上げた。
パトリックによく似た赤い髪を、後ろでまとめている。
エレナより幾つか年上に見えた。
「お父様」
パトリックが振り向く。
「マギー。すまないな」
女がこちらへ歩いてくる。
「道中、クロウリーさんを頼むよ」
「ええ」
マギーはエレナを見る。
「マーガレット・スピノーラ。みんなマギーって呼ぶわ。よろしく、クロウリーさん」
「エレナでええよ」
「じゃあ、エレナ」
「急に近いな」
「そう?」
マギーは真顔だった。
エレナは少しだけ眉を寄せる。
「……あんたも行くん?」
「ええ。ソールズベリーには何度も行っているから」
「何しに?」
「色々よ」
「色々……か。
まあええわ」
マギーはエレナにふっと微笑むと、自分の馬へ戻っていった。
その背中を見ながら、エレナがダガルへ小声で聞く。
「……なあ、あの人って伯爵の娘なん?」
「そうだよ」
「なんか変わってへん?」
「まだ何もしてないでしょ」
「いや、なんとなくやねんけど」
ガーズィが馬上から口を挟む。
「その勘は大事にした方がいい」
「当たっとるんかいな」
やがて四人はロンドンを離れた。
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しばらくは街道をゆっくり進んだ。
エレナの馬に合わせて、速さは出していない。
一時間ほど経った頃。
「……なあ」
「どうしたの?」
ダガルが横を見る。
エレナは鞍の上で微妙に身体をずらしていた。
「お尻、痛い」
「まだ一時間くらいだよ」
「まだちゃう。もう一時間や!」
「慣れれば平気になるよ」
「いつ慣れんねん」
「数日かな」
「今日中に慣れさせてくれや!」
マギーが少し前から振り返った。
「腰を浮かせすぎると余計痛くなるわよ。骨盤を立てて、馬の動きに合わせて――」
「今それ聞いても尻は治らへん!」
「あら、良かれと思ったのに」
マギーは少し不満そうな顔をして、前を向いた。
ダガルが笑いを堪えている。
「笑うな!」
「ごめんごめん」
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昼前には道幅が狭くなり、低い林の間を抜けるようになる。
人通りも減っていた。
先頭を進んでいたマギーが、突然手を上げた。
「止まって」
全員が馬を止める。
「なんや?」
エレナが周囲を見回す。
少し先。
街道から外れた草むらに、大きな牡鹿が倒れていた。
その腹に、一頭の黒い犬が食らいついている。
犬と言っても大きい。
大型の猟犬ほどはある。
「……野犬?」
エレナが呟く。
マギーは犬を見据えたまま馬を降りる。
「おい、近づいて大丈夫なん?」
「静かにして」
さっきまでの口調とは違った。
マギーは地面にしゃがみ、離れた位置から鹿と犬を眺める。
犬は腹部へ頭を突っ込むようにしていた。
だが、妙だった。
肉を引きちぎっているようには見えない。
マギーは目を細めた。
「……おかしい」
「何が?」
「食べてない」
「噛みついとるやん」
「違う。腹は裂けてるのに、肉がほとんど減ってない」
エレナが鹿を見る。
「ほな何してんの?」
マギーが少し身を乗り出した。
「血も少ない。傷口の形も牙じゃない。胸郭の下から内側へ何かを差し込んで――」
言葉が速くなる。
「待って。肋骨が外から折れてない。内側から押し広げられてる。ということは口じゃない。舌? いや、犬の舌じゃここまで届かない。別の器官が――」
「ちょ、待て待て待て」
エレナが顔をしかめた。
「なんで急に早口なん」
「面白いから」
「どこがやねん」
その声に反応した。
黒い犬の頭が、ゆっくり持ち上がる。
口元は汚れていない。
代わりに、顎の下から細長い灰色のものが垂れていた。
舌ではない。
虫の脚のように幾つにも分かれ、うねうねと動いている。
「……なんやあれ……。
よう見たら犬ちゃうやん」
「だから言ったでしょう」
マギーの声が妙に弾んだ。
「やっぱり別器官がある。口腔じゃなくて喉の奥から伸びてる。鹿の体液を吸ってる? いや、血が少なすぎる……じゃあ何を――」
「今、喜んどる場合か!」
黒い獣が唸った。
低く、犬とは思えない音だった。
「襲ってくるかもしれない」
ダガルが馬から降り、腰の剣を抜く。
長剣でも短剣でもない刀身。
「その剣、短かない?」
「昔流行った型だよ。グラディウス。
マギー。弱点は?」
「まだ分からない」
「珍しいね」
「初見だもの」
獣が地面を蹴った。
一直線にマギーへ飛びかかる。
エレナが声を上げるより早く、ダガルが横から踏み込んだ。
剣が閃く。
黒い獣の首が飛び、胴体が地面を転がった。
「……早!
終わったん?」
エレナが恐る恐る聞く。
「いや」
マギーだけが即答した。
首を失った野犬の胴体が立ち上がった。
左の前脚だけが、わずかに遅れて動く。
「うそやろ!」
喉の断面から、灰色の細い器官が何本も飛び出す。
ダガルが後ろへ跳んだ。
「首じゃないね」
「うん。もうちょっと待って」
マギーは獣の動きを凝視していた。
「左側!」
「どこ?」
「前脚の付け根! 少し下——たぶんそこ!」
ダガルが身体を捻る。
灰色の触手を避け、一歩踏み込んだ。
剣が獣の左胸を深く裂く。
何か硬いものを断ち切る音が耳に届いた。
黒い身体が突然痙攣し、その場に崩れ落ちた。
——今度は動かない。
マギーが親指を立てた。
「……当たった」
「賭けやったんかいな」
「確信はなかったもの」
ダガルが剣を鞘に納めた。
エレナが恐る恐る馬を降りる。
「こういうのって、ようおるん?」
「いや」
ダガルは腰を落とし、その死骸を眺めた。
「街道沿いで遭うのは珍しいね」
「ええ。たぶん、普通なら野犬だと思って通り過ぎるわ」
「最近、この辺りで何か報告あったっけ?」
「いえ。何も」
ダガルがわずかに首を傾けた。
「……なあマギー。
なんで弱点がそこって分かったん?」
マギーはすでに死骸の前へしゃがみ込んでいた。
「動いた時、左前脚だけ少し遅れたの。それに首を落としても動いたなら、主要器官が頭部にはない可能性が高い。鹿の傷も左側から深く——」
また早くなっている。
「もうええ。分かった。分からんけど分かった。
ちゅうか、ダガルも何気に強いし」
「まあそこそこかな」
「ちょっとは謙遜せえや」
マギーは黙ったまま死骸の胸元を覗き込んでいる。
「……切ってみたい」
エレナが固まった。
「何を?」
「これ」
マギーが死骸を指差した。
「持って帰れば構造が分かるわ。喉の器官も確認したいし、骨格も普通の犬と比較したい。内臓の配置も――」
「持って帰んの!?」
「全部は無理ね。頭と胸部だけなら——」
「もっと嫌や!」
ガーズィが馬上からため息をつく。
「置いていけ。日が暮れる」
マギーは露骨に残念そうな顔をした。
「少しくらい」
「駄目だ」
「……もう。堅物。
分かったわよ」
そう言いながら、懐から小さな刃物を出した。
「何してんねん!」
「一部だけ」
「諦めてへんやん!」
結局、マギーは灰色の器官の先端だけを布に包んで持っていった。
エレナはしばらく、彼女から距離を取ることにした。




