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台所で魔法を使ったら、姪に「撮っていい?」と言われた




5時01分。物置の戸を開けると、庭はまだ暗かった。


向こうでは1か月が過ぎた。塔の実習室に寝泊まりして、《明かり》と《治癒》と《結界》の初級まで手順書にし、残りの金貨で魔石を12個買った。


家の中は静かだった。


冷蔵庫の灯りだけを頼りに、俺は冷や飯の入ったタッパーを出した。


ガスコンロの前に立つ。父が20年使っている。点火装置はとっくに寿命だ。


カチ、カチ、カチ。


火花は出ている。だが火が点かない。


点火の再現性を確認する。5回試して、点いたのは1回だけだった。


「点火不良、発生率80パーセント」


ポケットに手を入れる。真鍮の鍵と、それから魔石が12個。どれも指先ほどの小さいものだ。


魔石は使わない。手順の確認だけだ。


俺は右手をコンロのバーナーの前に出した。


吸気を4拍で取る。胸が膨らむ。止める。


3節を一息で言い切る。


《着火》。


指先に火が点いた。豆粒ほどの大きさだ。


1秒。2秒。3秒。


消えた。


「……短いな」


エルディアでは豆粒ほどの火が10秒は保った。同じ手順、同じ詠唱、同じ姿勢。違うのは場所だけだ。


「魔素が薄い」


手帳を出して、コンロの上で開く。


『10月2日 5時07分 台所にて《着火》試行。結果:点火後3秒で消火。エルディア比 約30パーセントの持続時間』


「ロット違いの材料で、同じ手順を回した感じだ」


品質管理の言葉で言い換えると、そうなる。


俺はポケットから小さい魔石を1個出した。


左手に握る。冷たい。だが、握っているうちに指の熱が移っていく。


つまみを回す。ガスの音がする。


3節を一息で言い切る。


《着火》。


ボッ、と音がして、コンロに火が点いた。


青い炎が安定している。


3秒。5秒。10秒。消えない。


俺は左手を開いた。魔石はさっきよりわずかに軽い。色も、心なしか薄くなった気がする。


『10月2日 5時09分 《着火》+魔石(小)1個。結果:点火成功。安定燃焼。持続10秒以上。魔石に軽量化と退色の傾向あり』


ペンを進める。


『仮説:地球では魔石が電池の役割を果たす。空気中の魔素が薄いため、魔石から魔素を供給して魔法を維持する』


『魔石1個(小)で初級魔法5〜10回程度と見積もる。要・定量試験』


書いてから、手帳を閉じた。


台所の換気扇を回していると、背後でスリッパの音がした。


「恒ちゃん、早いのね」


母がパジャマ姿で台所に入ってくる。肩にカーディガンを羽織って、寝癖を手で押さえていた。


「目が覚めた」


俺はコンロの前から動かずに答えた。鍋には湯を張ってある。味噌汁の準備だ。


母は冷蔵庫を開けかけて、俺の顔を振り返った。


「……ちょっと老けた?」


首をかしげて、まじまじと俺を見る。


「誤差です」


俺は味噌を溶く手を止めずに言った。


「あら、そう。でもなんだかくたびれてるわよ。昨夜ちゃんと寝たの」


「寝た」


母は軽く笑って冷蔵庫から牛乳を出した。コップに注いで一口飲むと、そのまま新聞を取りに台所を出ていく。


「今日は草むしりの続き、やってちょうだいね」


「別にいいけど」


スリッパの音が遠ざかる。居間の方で新聞受けの蓋が開く音がした。


コンロの火が消えていた。俺は魔石を握り直して、指先に《着火》の火を点け、バーナーに近づけた。


その直後、背後でスマホのシャッター音が1回鳴った。


カシャ、という軽い電子音が静かな台所にやけにはっきり響いた。


振り返ると、台所の入り口にひよりが立っている。パジャマ代わりのオーバーサイズのパーカーを着て、猫耳ヘッドホンは首にかけたまま、スマホを両手で横持ちにしていた。レンズはまだこちらを向いている。


「待って待って待って」


ひよりが半歩前に出た。


「今の何?」


「何も」


「何もじゃないじゃん。指から火出てたじゃん。ボッて」


「見間違いだ」


「見間違いで4秒も撮れるわけないじゃん。あたし動画で撮ってるんだよ。動画。今も回ってる」


スマホの画面の右上で赤い点が点滅していた。録画中だ。あとで消せばいい。消せるかどうかは分からないが、消す手順はある。


「その手。右手。今、何したの」


「火を点けた」


「だから何で」


「コンロの点火装置が壊れてるから」


「は?」


ひよりが目を丸くした。


「壊れてるなら電池替えればいいじゃん。なんで指から火出すの。おじさん、それ、どっちかっていうとそういうことじゃないでしょ」


「そういうことって何だ」


「こっちが聞いてるんだけど。まじで。無職になってからおかしいよ。ヒゲは伸びるし角は拾ってくるし、今度は指から火」


俺は手を洗ってコンロの火を消した。


「じゃあさ、それ、どういう仕組みなの」


ひよりはスマホをパーカーのポケットに突っ込んで、今度は真面目な顔で聞いてきた。真面目な顔のときのひよりは、美咲に似ている。


説明をどうするか、考える。


隠す理由は、家族に迷惑がかかるかもしれない、それだけだった。


迷惑がかからないなら、別にいいか。


「手品みたいなものだ」


俺はそれだけ言った。


「手品って何。種あるの。あるよね。ないと手品になんないし。どこに仕込んでるの」


俺は答えずに、さっきの魔石を出した。


「手を出せ」


「は? なんで」


「手品の種を確かめるんだろ」


ひよりは怪しみながらも、空いている右手を差し出した。手のひらを上に向けている。


俺はその手のひらに魔石を置いた。


「握れ」


「冷たっ」


ひよりが肩をすくめる。だが言われた通りに指を曲げて魔石を包んだ。


俺はひよりの手のひらの上に手をかざす。


吸気を4拍で取る。胸が膨らむ。止める。


《明かり》。


詠唱は一息で言い切る。エルディアで手順書にした6節の文句だ。


ひよりの手のひらの上で、光が生まれた。


ピンポン玉ほどの白い光が、ふわりと浮かぶ。


窓の外はまだ薄暗い。その中で、光はひよりの顔を下から照らした。丸い大きな目が、まんまるに見開かれている。


「え」


ひよりの口が開いた。


「熱くない」


俺は言った。


「熱くないって、え、これ何待って、何これ光ってるじゃん、え、待ってあたしの手、光ってるんだけど」


ひよりが早口で言い募る。声が裏返っている。


「これ、あたしが持ってるから光ってんの? おじさんが何かしたから光ってんの? どっち? 待って、あ、消えそう消えそうじゃない? まだ消えないで」


俺は黙って光を見ていた。


5秒。10秒。魔石があると、地球でもこれだけ保つ。


「もういいか」


「まだ。待って。あと10秒だけ」


「5秒な」


「ケチ」


俺は心の中で5つ数えてから、魔素の流れを止めた。


光がすっと消える。


ひよりは自分の手のひらをじっと見つめていた。指を曲げたり開いたりして、何かが残っていないか確かめている。


「……熱くない」


ひよりが、さっきの俺の言葉を繰り返した。


「熱くない、ほんとに」


「そうだろ」


俺はひよりの手から魔石を取って、ポケットに戻した。


ひよりが顔を上げた。


「それ、撮っていい?」


「条件がある」


俺は手帳を開いて、左手で頁を押さえた。


「条件?」


ひよりの眉が上がった。撮る気満々の顔から、値踏みする顔に変わる。


「1つ目。顔は出さない」


「は? 顔出さないと誰が撮ってるか分かんないじゃん」


「手だけ写せばいい」


「手だけで何が伝わるの。無職おじさんの手って情報量ゼロでしょ」


「ゼロではない。指から火が出る手だ」


ひよりは口を開きかけて、閉じた。


「……まあ、指から火が出るなら手だけでもいっか。続けて」


「2つ目。手順は説明する」


「手順?」


「どうやって火を点けるか。手順を説明する。魔法の名前も言う」


「魔法って言った今。魔法って」


「手順だ」


「魔法って言ったじゃん。おじさん今、魔法って」


「聞き間違いだ」


「聞き間違いじゃない。録音してないけど耳はある」


ひよりは俺の顔をじっと見た。丸い目が少しだけ細くなる。


「おじさん、それ、どっから仕入れてるの」


「仕入れ先がある」


「どこ」


「遠い」


「遠いってどこ。県内? 県外? まさか海外?」


「遠い」


「はあ。まあいいや。で、3つ目は」


「3つ目。家族には言わない」


「じいちゃんとばあちゃんとパパとママに?」


「全員」


「なんで」


「まだ再現性が確認できていない」


「さっき2回やってたじゃん。コンロと、あたしの手」


「n=2だ。参考値にもならない」


「……わかった。全部飲む」


「そうか」


◇


夕方、学校から帰ってきたひよりが、俺の部屋の戸を叩いた。


「おじさん、入るよ」


返事を待たずに戸が開く。ひよりは制服の上にオーバーサイズのパーカーを羽織って、スマホを両手で横持ちにして立っていた。


「配信の準備できたんだけど」


ひよりは俺の机の椅子を引いて座った。俺はベッドの端に腰かけたまま、手帳を閉じて顔を上げる。


「配信」


「そ。あたしのチャンネル。登録者47人」


ひよりはスマホの画面を俺の方に向けた。画面に数字と小さなサムネイルが並んでいる。


「生放送のことか」


俺が聞くと、ひよりは目を丸くした。


「生放送って。おじさん、まじで何も知らないんだ」


「知らない」


「まあいいや。生放送でいい。今夜やりたい」


「今夜」


俺は手帳を机に置いた。21時から物置の用事がある。向こうでは30日分の用事だ。


「21時から30分ならいい」


「30分だけ?」


「30分で足りるだろ。手品だからな」


「足りるかどうかはあたしが決める。まあ、初回だし30分でいっか。タイトル、『【初】おじさんの手品』。これでいくよ」


ひよりは画面に打ち込んで立ち上がり、戸に向かった。ドアノブを握ってから振り返る。


「21時ね。遅れたら配信で晒すから」


「晒すって何を」


「遅刻した無職おじさんの顔」


ひよりはそう言って部屋を出ていった。階段を降りる音が遠ざかる。途中で「ママ、今夜21時から台所使うから」という声が聞こえた。美咲の「何するの」という返事に、ひよりが「手品」と答えている。


俺はベッドの端に座ったまま、手帳を開いた。


『21:00 配信開始。21:30 配信終了予定。物置進入は21:30以降に繰り下げ』


ペンを止めて、向こうの時間を計算する。


『30分の遅れは、向こうでは約2日。誤差』


手帳を閉じて、ベッドの端から立ち上がる。


部屋の壁には鏡が1枚かかっている。俺は鏡の前に立って自分の顔を見た。


こめかみのあたりに白髪が2本増えている。昨日の夜まではなかった。


今朝の母の「ちょっと老けた?」を思い出す。品質管理的には「外観検査で検出可能なレベルの変化」だ。


手帳を出して、10月2日の頁の隅に1行だけ書く。


『こめかみ白髪+2本。母の観察と整合。誤差』


もう一度鏡を見る。鏡の中の男は、白髪が2本増えた以外は昨日と同じ顔をしている。無職になった顔だ。それは別に、誤差ではない。仕様だ。


今夜21時。登録者47人のチャンネルで、俺は魔法を手品として説明することになった。


……説明書きは、何枚いるだろうか。

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