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最終出社日、合わない鍵が1本だけ残った




9月30日。今日が最終出社日だった。


「助かるよ、志摩」


品質管理課の島で、権藤課長が椅子を引いて近づいてくる。


ジェルで固めた七三が蛍光灯に光った。


腕時計だけが異様に高そうでワイシャツの襟はうっすら黄ばんでいる。


「いや、ほんとに助かる。人件費が浮く」


俺は椅子に座ったまま、返事はしなかった。


返事は必要なかった。


15年使った机の引き出しは、もう半分空になっている。


棚には手順書のファイルが23冊並んでいて、背表紙も表紙も、作成者の欄はほとんど「品質管理課(権藤)」だ。


1冊だけ、端っこに残っていた「作成:志摩」のファイルも、権藤課長は黙って修正テープで消した。


「事実ですし」


俺はそれだけ言った。


別に驚きはしない。驚くような話でもない。


驚くという感情は、俺の中では「再現性の低い例外」に分類されている。


「……感謝はしてるよ、うん」


権藤課長がぽつりと言った。


机に置かれたのはコンビニのロールケーキが1個で、フィルムの表面が少し乾いていた。


「はい」


俺は頷いた。


返事は必要だった。


送別会はない。


16時50分。総務の窓口で、腰の鍵束から会社の鍵を外していく。


倉庫に薬品庫に測定室に書庫と、1本ずつ照合して返していくと、最後に1本だけ、どれにも合わない鍵が残った。


真鍮製で、持ち手に刻み目が1本入っている。その横には読めないほど小さな文字が彫ってあった。


どこにも挿さらないくせに、錆びてはいない。


「うちのじゃないですね」


総務の人が首を振る。


メーカーの刻印だろうか。


この鍵束は5年前に辞めていった鷹野先輩から預かったものだ。


白髪交じりの長めの髪を後ろで結んで、日焼けした顔に笑い皺を寄せながら、「倉庫の鍵、まとめて頼むよ」と。


俺は「はい」とだけ答えた。


あの時、先輩は俺にこう言った。


「志摩くんなら、手順書を書けるから」


作業着の胸ポケットの万年筆を指で叩きながら、そう言った。


17時15分、定時のチャイムが鳴る。


俺は15年で初めて、チャイムと同時に会社を出た。


◇


「会社辞めた」


19時。志摩家の夕飯で、俺は事実だけを告げた。


テーブルの上にはカレーと唐揚げとサラダと、なぜか刺身が並んでいる。


「へえ」 「退職金いくら?」 「じゃあ明日から暇じゃん」 「お義兄さん、おかわりは?」


声は4つあったが、退職を惜しむ声は1つもなかった。


「おう」


父はそれだけ言って、カレーを口に運んだ。


「恒ちゃん、お刺身食べな。今日はお祝いだから」


母が刺身の皿を俺の前に寄せる。皿の縁がカレーの皿にカチンと当たった。


「そうか」


俺は箸で刺身を一切れつまんだ。鯛だ。脂がのっている。実家の食卓で退職祝いが出るのは、たぶん父の時以来だ。


「無職になったんだから、明日から庭の草むしりくらいしなさいよ」


母は続けて言った。


「別にいいけど」


俺は刺身を飲み込んでから答えた。


「無職おじさん」


ひよりがスマホから顔を上げて、俺をまっすぐ見て言った。


ひよりはオーバーサイズのパーカーの袖から指先だけを出して、明るい茶色のボブを揺らした。


毛先だけが外にはねていて、その下の丸い大きな目が俺をまっすぐ見ている。


「なに」


俺は刺身をもう一切れつまみながら返した。


「いや、呼んでみただけ。無職って実際に言われると、なんか響きがいいね。おじさんに合ってる」


ひよりはオーバーサイズのパーカーから出した手で、猫耳ヘッドホンを首にかけ直しながら言う。


「でもお義兄さん、15年も勤めたんだからしばらく休んでもいいんじゃないですか」


美咲が落ち着いた声で言って、煮物の皿を健司の前に置く。


「うん。ママは優しいね。ばあちゃんは無職になったら草むしりって言うのに」


ひよりがため息をついた。


「あたし、おじさんの無職生活配信で追ってみようかな」


ひよりが急にスマホを横に持って、レンズを俺に向ける。


「タイトルは『無職おじさんの朝は遅いのか』。どう?」


「登録者47人に何を届ける気だ」


俺は箸を置いて言った。


「それ、撮っていい?」


ひよりは俺の返事を待たずに、画面をタップした。


「それ、撮っていいって言ってない」


「今の無職の顔、素人が出しちゃいけない顔してる。これがいいんだよ」


ひよりは満足げにスマホを揺らす。


父は黙ってカレーを食べ終え茶碗を置いた。箸を揃えて、布巾で軽く拭いてからようやく口を開く。


「物置の戸、建て付け直しといたぞ。健司が」


俺は箸を止めた。


「物置?」


「兄貴の荷物、あそこに入れといて」


健司がカレーを飲み込みながら、俺の方を向いて続けた。


「兄貴の部屋、もう物置みたいなもんだろ。これから家にいるんだから、少し片付けとけよ。でかい図面のファイルとか、置く場所ないだろ」


「そうか」


俺は短く返した。


父はもう茶碗を台所に運んでいて、背中しか見えなかった。


◇


21時になって、段ボールを1箱抱えて庭の物置の前に立った。


中身は手順書の控えと、ロールケーキと、識別用の黄色いテープだ。


物置の戸には鍵穴がない。


なのに、ポケットの中で真鍮の鍵が指に触れた。


「再現性の確認です」


誰にともなく言い、鍵を戸の隙間に当ててみる。


当然、合わない。鍵穴がないんだから、合うはずがない。


でも。


カチリ、と鍵が回った。


戸がゆっくりと内側に開く。


「……」


俺は立ち尽くした。


戸の向こうに広がるのは、物置の中ではない。


夜の森だった。


土と葉っぱの匂いがして、遠くで虫が鳴いている。


「……仕様ですね」


段ボールを抱え直して、1歩だけ森に入った。


背後で、カタン、と戸が閉まる音がした。


振り返ると、戸枠だけが闇の中に立っていた。


戸を開けてみても、向こうにあるのは同じ森だった。戻れない。


スマホを出してみたが、電波は入っていない。


「……」


さすがにこれは想定外だ。


◇


まずは記録を取ることにした。


品質管理の基本だ。


異常が起きたら、まず状況を記録して再現性を確認する。


段ボールから黄色いテープを出す。


戸枠の近くの木の幹に、ぐるりと1周巻く。


巻き終えてから、手帳を開いて「21時03分」と書いた。この木がスタート地点だ。


戸枠はさっきと同じ場所に立っている。木の幹と幹の間に、ぽつんと。


俺はポケットから真鍮の鍵を出した。


さっきは、この戸の隙間に当てた。右に回した。それで開いた。


だから今度も同じことをする。


当てる位置はたぶんこの辺りだ。回す向きは、たぶん右。


音はしなかった。鍵は空を切った。


もう一度やってみる。今度は少し上。回す向きは右のまま。


音はしない。


もう一度。少し下。右。


音はしない。


3回目で、俺は手を止めた。


「不良、ですか」


呟いてから、自分の声が森に吸われるのを聞いた。


月明かりだけが頼りだった。


さっき鍵を当てた位置を、俺は正確に覚えていない。


「条件が、特定できていない」


品質管理で一番やってはいけないことだ。


条件が分からないまま、結果だけを追う。それは手順書にならない。


俺は段ボールを地面に置いた。しゃがんで、黄色いテープを引き出す。さっき木に巻いた残りだ。


戸枠の、さっき鍵を当てた辺りの高さに、テープを横に1周巻いた。巻き終わりを爪で押さえて、剥がれないことを確認する。


それから手帳を開いた。


ペンは胸ポケットのボールペンだ。インクは出た。


俺はページにこう書いた。


「21時05分 再試行。不良。条件不明」


条件不明、の4文字を書くとき少しだけペンが止まった。


止まったが、書いた。事実だからだ。


「条件を、1つずつ潰します」


俺は手帳を閉じて、テープを巻いた高さを指でなぞった。


スマホのライトを点ける。画面の右上は「圏外」のままで、こうなるとただの懐中電灯だ。


段ボールからロールケーキを出して、フィルムを剥がす。


「権藤課長からの感謝、3日分ですね」


一口だけ食べて、残りをフィルムで包み直す。


手帳に「21時10分、感謝の消費開始」と書いた。


次にやることは経路の確認だ。


戸枠から放射状に進むことにして、最初は北に向かう。磁石はないが、月の位置で大体わかる。


木の幹に黄色いテープを巻いて、手帳に時刻を書いて、また進む。工場の巡回点検と同じで、手順を変えずに繰り返すのが一番だ。


◇


2日目の朝は、7時00分にスマホのアラームで目が覚めた。圏外でもアラームは鳴るらしい。


昨夜、眠りについたのは木の根元だった。


背中に土の冷たさが残っている。


目の前に黄色いテープを巻いた木があって、巻いたのは俺だ。背中も痛いし、夢じゃない。


「おはようございます」


誰にともなく言って、段ボールの中からロールケーキを出す。


一口食べて、フィルムを戻す。


黄色いテープを目印に、今日は戸枠を中心に円を描くように歩くことにした。


歩き始めて30分もしないうちに、水の音がした。


沢だ。幅は1メートルあるかないかで、水は澄んでいて底の石まで見える。


手ですくって口に含む。冷たい。


煮沸できない水。ロットは不明。飲む。


手帳に「水、確認。味は普通」とだけ書いた。


20分ほど歩いたところで、茂みがガサガサと揺れた。


「……」


足を止める。品質管理の現場でも、こういう時はまず観察だ。


原因が不明なときは、不用意に近づかない。


茂みから出てきたのは、白い生き物だった。


体長は20センチほどで、長い耳と額にねじれた角があり、赤い目がこちらを見ている。


「……」


次の瞬間、一直線に突っ込んできた。


工場の通路で台車が突っ込んできたときと同じ要領で、俺は半歩横にずれた。


「危険回避です」


角が俺の脇を掠めて後ろの木に刺さる。


一角兎(ホーンラビット)――と後で知ることになる兎は、角を木に刺したまま暴れている。


体をひねった拍子に、角が根元から折れた。


兎は悲鳴を上げて逃げていった。


木に残った角を抜く。


ねじれた形が、手のひらに収まる。


手帳に書く。


「7時50分、一角兎(仮称)と接触。角1本を回収」


角は、ポケットにしまった。


◇


3日目、ロールケーキは最後の一口になった。


黄色いテープをたどって、戸枠まで戻る。


戸枠は相変わらずそこにあったが、向こう側もこちら側も同じ森のままだ。


ポケットの中の真鍮の鍵に触れる。5年前に鷹野先輩が渡してきた鍵束の1本だ。


「志摩くんなら、手順書を書けるから」


先輩の声が蘇る。


俺は戸枠の前に立ったままテープの高さを目で測った。1日目の夜、俺はこの高さに鍵を当てた。右に回した。


そのあと、同じことを2回繰り返した。位置を上にずらした。下にずらした。


回す向きは、右のままだった。


「位置は同じ。違うのは向きだ」


3日目にして初めて、条件の切り分けができた。


品質管理の基本中の基本だ。


1回目の結果と2回目の結果が違うなら、変えた条件を1つずつ確認する。


位置を変えたのか、向きを変えたのかタイミングを変えたのか。


それを分けずに闇雲に試すのは、条件の特定を放棄したのと同じだ。


俺はポケットから真鍮の鍵を取り出した。


3日間ずっと持ち歩いていたから、手のひらと同じ温度になっている。


持ち手の刻み目に親指を当てる。1本だけある。


その横に、読めないほど小さな文字。指の腹では凹凸しかわからない。


「向き、だけを変えます」


テープの高さに鍵を当てた。


鍵の先端を枠の内側の面に押し当てる。テープの上端と下端のちょうど中間。1日目に当てた位置と同じ高さ。


右手で鍵を持った。親指と人差し指でつまむ。回す向きは、左。


来たときと逆だ。


1日目は右に回した。


今度は、左に回す。


カチリ、と鳴って戸がゆっくりと開いた。


向こう側は、物置の中だった。


俺は戸をくぐった。


物置の外に出ると、夜の空気が頬に冷たかった。


庭の砂利が靴の裏でじゃりと鳴る。


スマホのロック画面を人差し指で叩いた。


画面が光る。


「10月3日 21:00」


森で過ごした3日分の時刻だった。


「ロットが違うな」


呟いて、手帳を胸ポケットから出す。ページを開いて、時刻の欄に書く。


書いている途中で、画面の右上に電波のマークが点いた。アンテナが1本、2本と増える。


その瞬間、画面の時刻が滑るように動いた。


「10月3日 21:00」が「9月30日 21:48」に変わる。


秒針が逆回転しているわけではない。表示が入れ替わっただけだ。再起動のときと同じ挙動。


「……同期したな」


俺は物置の戸の前に立ったまま、スマホの画面を見ていた。


物置に入ったのは21時ちょうどだった。テレビの時計が20時59分を表示していたのを見た。だから21時だ。間違いない。


ページには森で書いた記録が並んでいる。


「21時から48分」


声に出して確かめる。


「整合、取れました」


呟いて、手帳の余白に書く。


「9月30日 21:00 進入。21:48 復帰。現世経過48分。森経過3日」


書いてから、ペンを止める。


n=1だ。1回の結果は再現性の証明にならない。手順書にするには、同じ条件で複数回試す必要がある。


「ロット1。サンプル数1。参考値」


そう書き足して、手帳を閉じた。


顎を触ると、3日分のひげが伸びていた。会社員時代なら考えられない顔だ。


ポケットを探る。


一角兎の角がねじれた形のまま入っていた。


段ボールを物置に置いて、台所に向かった。


台所で、ひよりが麦茶を飲んでいた。


猫耳のヘッドホンを首にかけて、スマホを横に持っている。


俺を見て、眉を上げた。


「あれ、おじさん。さっき物置に行ったばっかだよね?」


「ああ」


「おじさん、ヒゲ伸びてない?」


「伸びるもんは伸びる」


「いや、1時間でそんな生えないから」


ひよりが麦茶のコップをテーブルに置いて、俺に近づいてくる。


まじまじと顔を覗き込んでくる。


「……マジで伸びてる。しかもクッサい」


「風呂入ってないからな」


「そりゃ臭いわ。てか、マジで何してたの」


「物置に段ボールを」


ひよりの目が俺の手元で止まった。


ポケットから取り出した一角兎の角を、テーブルの上に置いたところだった。


「……何それ」


ひよりが半歩だけ後ろに下がる。


「拾った」


「どこで」


物置の向こうで、と言うのは仕様の説明として不十分だろうか。

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