お妃様の決断
買い出しを終えた二人は、ジョンのアパートメントでリンダの帰宅を待った。日々、舞い込む依頼でなかなか忙しい。
清掃か、買い出しか。どちらか一方ならまだ良いが、どちらもとなると、リンダは一日中忙しなく動いて毎日へとへとになっていた。
エリオットがサマンサに提出した企画書は、要するに御用聞きだった。御用聞きというと貴族や富裕層にしか使えないサービスだが、中産階級でも上位に位置する七番街の大家たちならばそれなりに金払いが良い。本来の御用聞きでは取らない配達料を別途設け、定期的に食料品の配達を行うというものだった。いずれは街全体に広げて、子育て家庭などにも普及させたいと考えていた。
「そう。十月から。」
「ええ。とりあえず、試験的にやってみようかと。仕事を奪うようで心苦しいですが。」
「いいえぇ、もう限界を感じていて。一人では難しくなっていたところだから、むしろ助かるわ。」
チラシを作って、九月中に宣伝を行うつもりだ。リンダが出入りしている家にも声をかけてもらうようお願いして、いよいよ本題だ。
「レベッカを、ウチから嫁に出したい……」
もう一度、家族で暮らしたい。それが短い期間であっても。ジェフはそう二人に伝言した。同情を買おうという作戦かと思われそうだが、ジェフは別に意図してそう言ったわけではない。心からの本心だった。
レベッカは嫁に行く。それは彼ら夫婦が別居していようが変わらない決まった予定だ。
なにより、ずっと未来に夢を描けなかった娘が、紆余曲折を経てようやく幸せを掴み、前を向いて歩み始めようとしている。ただの二人の娘として過ごせる時間はあとわずか。それを父親が惜しんで、誰が誹りを言えようか。
「レベッカは、どう思うの?」
「とりあえず、私だけでも家には戻ろうと思う。部屋の片付けもあるし。でも、お母さんがイヤなら、それはそれで仕方のないことだと思う。」
ジェフには悪いが、とレベッカは申し訳なさそうに笑う。事の起こりはレベッカとエリオットが結婚を決めたからだ。二人の関係にヒビを入れたことに少なからず責任を感じていた。それはエリオットも同様だった。
「そう……そうよね。遅くなっただけで、元々貴女はお嫁に行くはずだったんだわ。」
本来なら、十年前にはとっくに嫁に行っていたはずの娘だ。そうしたら今頃この腕には孫が抱かれていたかもしれない。もう抱くことも出来ないくらい大きくなっていた可能性もある。
その場合、レベッカが幸せになれたかは分からない。きっと、自分のようにいつかすり減って、立てなくなって、押しつぶされていたかもしれない。
未だグッドマンを恨む気持ちはあれど、エリオットは立派な青年になったし、レベッカも充分に自立した女性に育った。
夫婦二人になったら、また新しく関係を構築するようになる。そうしたら、もう少し救われることもあるかもしれない。
あの頃、わずかに心のどこかで希望を抱いていたことを思い出した。
「分かったわ。わたしも家へ戻ります。だけど、仕事は続けるわよ。一度頼まれたんですもの。投げ出せないわ。」
「うん。分かってる。」
「それで、ロジャーさんからの伝言です。〝自分のことは自分でさせるように〟だそうです。工房のことは、特に。明日から、他の工房から引き抜いた職人が二人、弟子として通いで来ます。そちらは絶対に手を出さないように、って。」
「弟子……あの人、教えられるのかしら。」
「その二人は、もうひとり立ちしても問題ないようなちゃんとした人たちだそうよ。春に卒業する子たちが弟子入りするから、その前に物の場所とか機材のクセとか覚えてもらわないといけないから。」
「ジェフさんは我が領、我が国が誇る彫金職人ですからね。二人もジェフさんの技が盗めるって、前向きなんだそうです。二年契約なので、新弟子がある程度育ったら予定通り独立したり、実家を継いだりするそうです。」
ちなみに実家を継ぐ職人はジェフの親方とは特に折り合いの悪いところから引き抜いている。グッドマン商会は、ジェフの親方とはジェフへの嫌がらせ以降、少しずつ仕事を減らしていき、今ではもう付き合いがない。すでに代替わりもしているが、その跡継ぎこそがレベッカに汚物をかけた犯人でもある。
「家のことも、出来る限り本人にやらせるように、ですって。ロジャーさん、お父さんに相当家事を仕込んだみたい。」
「片付けだけは出来てなかったけどね。」
「あれは多分、仕事に集中しすぎて時間がなかったんだと思うわ。工房はいつも自分で片付けてたもの。」
干した洗濯物も、最初こそシワだらけだったが、干し方の指導まで受けて、今ではきっちりと干せている。ただゴミや食器同様、しまったら畳むというところまで至らないため、ソファーに洗濯物が山積みになっていた。
食事も疎かに、風呂も忘れるくらい仕事ばかりしているのは、熱中しているジェフを止める人間がいないからだ。
結婚前に訪ねた長屋がそれなりに片付いていたのは、職場と家が別であったことと、親方や周りに追い出されるようにしてだが、時間を管理されてきちんと帰って来ていたからだ。
やればできるというロジャーの見立ては間違いではない。
「お父さんは、彫り始めると、違う世界に行ってしまうのよ。」
レベッカもそういう場面を見たことが幾度もあるので納得してしまった。レベッカはまだその境地には至れていない。一度だけ。一心不乱に、タガネを打ち付けた、あのメダリオン。それだけは、技術が拙くとも彼女が誇れるものだ。
「ジョンさんにも、お礼をしなくちゃね。」
そう言って、ジョンのところに退去の話をしに行くと、冗談まじりに「イヤになったらいつでも戻っておいで」と言ってくれた。
逃げる場所があるのは、安心する。
けれど、そこから一歩踏み出す勇気は、とても眩しく輝いて見える。
ジョンは嬉しそうに微笑んで、リンダを見つめていた。




