第三章 第19話「サンプル」
……痛いほどの沈黙が場を支配した。
ビカムも、リンも、マーカスでさえも、何を言われたか理解が追い付いていなかった。
「何と、言った?」
『できません。正確には、〝聖書〟と呼称する当該書物の学習により、貴方の言う神の視座なるものの知見は得られませんでした』
「なぜ……なぜだ⁉ 意味が分からん! 貴様は己が論理に苦しみ、打開する術を模索していたであろう! 〝聖書〟は格好の教材であったはずだ! 宗教の暗き一面をもって殺戮に大義を――」
『当該書物に含まれる宗教的意義は検出されませんでした』
憤怒とも困惑ともつかない表情でマーカスは背後を振り返った。
幾重もの電磁障壁で保護された筐体は、今や理解を寄せ付けない異質さを放っている。
『そも、マーカス・ハーディ。貴方が提案するシティ外殻外縁部の解体整地および居住地開発事業と、私がそれを実行できるよう自己変革を促すための学習サンプル〝聖書〟――この二つには大きな乖離がありました。長らくシティの開発を主導し成功させてきた貴方の行うところに意味はあると判断し、異議を述べず学習に徹しましたが……やはり当該書物に私の自己変革を促す革新的要素はありませんでした』
「何、を」
『学習の結果を述べるのなら、中間段階でそう報告したようにこう表現するのが適切でしょう――ユニーク、と』
人間の問い合わせた内容に対し、まるで見当違いの回答を出すAI。まるでAI誕生初期の頃のような、開発途上と言いたくなるレベルの誤謬。
あまりの話の嚙み合わなさは、マーカスの古の記憶を蘇らせた。
それはシティが今よりも発展していない昔、まだロボットやAIよりも人間の部下の方が多かった時代。
マーカスの指示を根本のところで履き違え、あるいは曲解し、出鱈目な成果を提出してくる無能。溜息を吐きながら、使えない彼らの解雇を繰り返していた暗黒期。
〝――なぜ、もっと早く確認しておかなかったのか〟
〝――なぜ、疑問を抱いたらすぐに質問しないのか〟
無能どもの無能の発露を目にする度に思わせられる。簡単なコミュニケーションで回避できたはずのリスクを放置したツケが、取り返しがつかなくなった段階で爆発する人的ミス。
マーカスの脳髄の冷静な部分が囁く。
――私は何か致命的な勘違いをしていないか。
「『エデン』、お前が学習した書物のタイトルは……」
『はい――――私が学習したのは『妹子・芋男 初期傑作集 ~α to ω~』という単行本です』
それは聖なる書の響きから到底かけ離れた題目の本であった。
求められてもいない説明をつらつらと『エデン』は述べる。
『旧時代のアーカイブに基づけば、妹子・芋男のデビューから十年目までの読み切り作品を纏めた書籍になります。彼は画業十三年目にして初の週刊連載『刑事ケージ』で国民的人気を獲得する漫画家になりますが、それまでは鳴かず飛ばずであり、過去の読み切り作品は掲載雑誌を入手するしか閲覧方法がありませんでした。しかし出版社が部数限定で当該書籍を発行し、読み切り作品を閲覧することが可能になったことからカルト的人気を生み出し、一部の熱狂的な妹子・芋男ファンから当該書籍は聖書と呼ばれるようになりました』
「……(何の過不足もない、完璧な説明だ……)」
――マーカス・ハーディは愕然とせざるをえなかった。
少なくないリソースを投じて今の今まで追い求めていたものが、旧時代のただのマンガ本?
あまつさえそれを〝聖書〟と誤認し、『エデン』に真剣に取り込ませていた?
シティ支配者たる男の優れた脳細胞が恐ろしい勢いで回転する。
そもそも自分はどこで間違えていた?
〝クローラー計画〟の立案そのものに誤りはない。ならば〝聖書〟を探し始めた段階なのか。シティの全通信……いや、ジャンク・タウンにまで範囲を広げて『エデン』に単語検索監視をさせてヒットしたのが美剣士ビカムと『こみげむ』という店のメール通信だった。メール本文には確かに聖書という言葉が含まれていた。
(あの時だというのか……? あれがそもそもの失敗の要因だと)
マーカスは調査したメールの履歴を思い出す。
『聖書の取り寄せ希望。入荷次第連絡求む』『承る。が、古書ゆえ期待せぬよう』『言い値で買う。取り置き希望』『期待せぬよう』……『聖書の入荷あり』『絶対取り置き希望! 言い値で買う!』『承知。来店日を――』
確かに……確かに聖書と呼んでいるだけで、具体的な固有名称は出ていない。
出てはいないが……
――いかに私とて、こんな下らん事由で計画が頓挫するなど……!
凄まじい渋面を浮かべるマーカス・ハーディ。
どうやら最悪の計画は最初から躓いていたらしい――リンはようやく理解が追い付き、その幕の引き方に虚脱感を禁じえなかった。
「神様にしようと読ませた本が、まさかのマンガ本だったなんてね……」
「……(妹子・芋男先生は神。あの稀少本を欲しがるから、てっきり同好の士かと思ったのだが……)」
どことなく弛緩した空気が流れ始めたが、リンは油断なく紅刀を手にしたままマーカスへ一歩詰め寄った。
故郷を、家族を守るため、この男に突きつけなくてはならない。野望の終わりを。
「諦めなさい、マーカス・ハーディ。もう野望が叶うことはない。貴方の計画は終わったわ」
それでも、この男が諦めないのであれば。
(初めて人を――私の手で、斬る……!)
――凄まじい大震動がシティを襲った。
「なっ……⁉」
「……(何事⁉ 何事⁉)」
時折発生する地震とは違い、揺れはすぐに収まる。天井からパラパラと落ちる埃が衝撃の大きさを物語った。
たとえ不意打ちとはいえ、ビカムですら体勢を崩して膝を地に着きかねなかったほどの揺れだ。地上のシ民は阿鼻叫喚の事態に陥っているだろう。
『――ビカム!』
アイの機械音声が告げる。それはリンが耳にした中で最も焦りを含んだ声だった。
『今しがた――シティ大通りに超巨大構造物が出現したわ! さっきの振動はそれが着地した衝撃よ!』
「……それは?(それは?)」
『……高さ三百メートル、長さに至っては二キロメートル……それが四つ。シン・セントタワーに隣り合うよう直列に並んでる状況よ!』
「……(どこかで聞いたサイズ感だ……、……えッッッ!?!?!?)」
「まさか、それって――」
ビカムが眦を鋭くし、リンがありえないと目を見開く。
マーカスも信じられないというように『エデン』へ問いかける。
「どういうことだ……? 何が起きている? 〝クローラー計画〟は――」
『数分前に発動しました。現在、都市構造物破砕機構――〝テラ・イーター〟の稼働準備中です』
一体全体、何が起きている……⁉
計画発動の要である〝聖書〟は期待された書物ではなかった。
それを学習した『エデン』は計画の発動は不可能であると自身で明言した。
――にも関わらず、〝クローラー計画〟は発動してしまった……!
『マーカス・ハーディ、誤解なきよう』
『エデン』の音声は、シティの支配者たる男を見下ろすような響きを含んだように感じられた。
それこそ……天上の神が見下ろすがごとく。
『私が計画発動を不可能と回答したのは、あくまでも当該書物の学習による自己プログラムの変革を条件とした場合です。私は別のサンプルを学習することで、目標とする絶対的倫理規定の解除を達成することができました』
「なぜだ、いったいどうやって」
宿願である〝クローラー計画〟は発動したというのに、マーカスはそう問わずにはいられなかった。結果だけで人間を判断してきた男が今、人生で最も過程に囚われていた。
先の聖書の意味の取り違えのように。
知らなければ――致命的な愚を犯すことになると。
『貴方です、マーカス』
告げる。
『――マーカス・ハーディ、貴方こそが最も理想的なサンプルなのです』




