第二章 第3話「杖の切っ先は」
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時刻は既に夜。草木も眠る〝左月の天〟だ。
リンダリアル世界の月は二つ存在する。
最初に夜空を訪れ、暗闇に光をもたらす蒼い左月。
その後に現れ、セプテールの目印になるために赤光をたたえた右月である。
昼間、世界に光が満ちているのは、燃える神『昼と炎のセプテール』の権能のおかげである。
セプテールは創造神より二つの役割を与えられている。
一つはリンダリアル世界に恵みの光を届けること。
もう一つが地獄を焼き、悪魔たちに罰を与えることである。
ゆえにセプテールが近くにいる時間――昼間は彼の燃える体が放つ光で明るいが、残る一日の半分は自分が居ないせいで冷めつつある地獄を再び燃やしに行くのだ。
しかし、セプテールが居なければ世界は闇に覆われる。
光のない世界に、生きとし生ける者だけでなく、川や木、山と空、海と大地までもが怖れに包まれた。
そんな彼らを憐れんだ三女神の一柱が、自らの両目を材料に二つの月を創り、夜空に浮かべた。遠くにいるセプテールの光を届けるための月を。
かくして、世界は夜でも仄かな光を享受することができるのである。
ビカムとリンを加えたテスカの馬車はその後、何度か魔獣の蹴撃に遭いながらも退け、今は森の中の野営に適当な場所で休息を取っている。
しかし、敵はいつ何時やってくるか分からないため、夜の見回りを交代で担当することとした。ビカム、マルティナ、ニチカの三人が野営地の周辺からやや離れた位置で、油断なく周囲に視線を配っている。
……といっても、ビカムの所作に張り詰めたものはない。
たとえ敵陣の只中だろうと、彼にとっては住み慣れた我が家のごとくであろう――己を脅かすものが存在しないという意味で。
月明かりの木漏れ日を愛でるように彼の目は細められている。
「……(なぜ、この人は私と組むことを選んだのか……一人にしてほしかったのに……)」
ビカムの傍には魔法使いのニチカが居た。
二手に分かれ、野営地を中心に円を描くように見回るとのことで、ビカムは実力から考えて一人で務まると名乗り出たのだが、ニチカが強い意志で同行を申し出たのだ。
ニチカに剣呑な雰囲気は感じられない。しかし友好的なそれでもない。
そして周囲の気配を探りつつ、さりげなくビカムの動きに気を配っている。
「ビカムさん」
唐突にニチカが口を開いた。
「貴方――〝異界渡り〟なんじゃないですか?」
「……」
「チキュウ人のリンさんと行動を共にしていたこと、こんな辺境の何もない――〝ゲート〟しかないような地域にいたこと、左腕の見慣れない鎧……。全てが貴方は〝異界渡り〟であることを物語っています」
「……良く見ているな(めちゃくちゃ警戒されてる……!)」
ビカムは是と唱え、同時に深い洞察力を有した少女への賛辞を贈った。
ビカムの言葉の褒賞を受け――しかしニチカはあろうことか、杖の先端をビカムに向けたではないか!
「……(!?!?!?!?!?)」
こうなることを予見していたかのように、ビカムの表情は凪いでいた。
微動だにせず佇むその姿は、名工が石から削り出した彫像のごとく。
いついかなる状況に置かれようと、外界とは無縁とばかりに平静を保ち続ける。戦士としての頂がここにあった。
「動揺しないのですね。私が杖を向ける理由を訊かないのですか?」
「……理由を問えば、君は杖を収めるというのか?(じゃあ……)」
「いいえ」
「(ええ……結論が決まっているのに訊くなんて)……無駄な問答だ」
「……ッ」
ニチカは苛立ちを募らせ、キッと口端を歪ませた。
魔法使いに杖を突きつけられているというのに、子供が振り回す木の枝でも見ているかのごとく、美剣士の怜悧な表情は変化しない。
碧く美しい瞳に見つめられてニチカは不安を掻き立てられ、しかし強く杖を突きつけることで振り払った。
「ちょうど危なくなった時に現れるなんて都合が良過ぎる! 最初から見計らっていたんじゃないですか、もっとも警戒されずに懐に潜り込める瞬間を! 狙いはいったい何ですか。お金ですか。それとも捕まえて奴隷商に売り飛ばそうと……!」
「……誇大妄想だ(しないよそんな酷い事……⁉)」
「はっ、どうだか。〝異界渡り〟に手を染める人なんて、食い詰めて見境のなくなったろくでなしと相場は決まっています!」
……ニチカの言も、あながち否とは言い難い実情があった。
二十年前の〝大衝突〟以降、二つの世界が積極的不干渉を貫いているのは周知のとおりだが、どこの世界にも希少品を求める需要の声はある。それが異世界にしか存在しない物とくればなおさらだ。チキュウ世界からリンダリアル世界に来る〝異界渡り〟はそれなりにいた。
しかしその逆、リンダリアル世界からチキュウ世界へとなると、めっきり数は少なくなる。
その違いが何から生じているかと言えば、一つに大陸の開拓度合いの差にあるとの説がある。
チキュウ世界においては深海を除き、地表のあらゆる場所は偵察衛星により丸裸にされた。世界には果てがあり、有限であることが証明された。
一度は絶滅したフロンティア。
だが、リンダリアルという新たな開拓地の出現により、チキュウ人類の興味関心は間違いなく異世界へと傾きつつある。
翻ってリンダリアル世界――ここには未だ人跡未踏の地が残っている。
地図の白紙が埋まりきっていない状態で他の世界に関心が向くかといえば……。
そしてリンダリアル世界の〝異界渡り〟は基本、冒険者と兼業のパターンが常だが、腕前のある冒険者はわざわざ得体のしれない異世界など行かずとも、普段の仕事で充分以上に稼ぎがある。危険な橋を渡る必要がないのだ。
つまり結論を導くと、リンダリアル世界における〝異界渡り〟のニュアンスは、本来の冒険者稼業で栄達できず、異世界に行くしかなくなった落伍者やならず者を指すのであった。
彼らはほとんどが犯罪者とイコールの存在。異世界という名のゴミ箱、あるいは最終処分場を使って、密売、密猟、資金洗浄、不法投棄、証拠隠滅、要人誘拐、その他あらゆる犯罪行為に手を染める。
〝異界渡り〟と聞いて警戒心を露わにするのは、むしろリンダリアル人にとっては普通の反応に過ぎない。
しかし、そんな輩とビカムを同列に語ろうとは。この娘は恐れというものを知らないのか。
……いや、見よ。杖の切っ先はわずかに震えている。
実のところ、ニチカも己が行いに大きく動揺していた。
見た目の雰囲気に反し、一度火が点けば仲間の中で誰より怒りが激しい彼女は、過去にエルフと喧嘩沙汰になったこともある。その時も同じように油断なく杖を相手に向ける一触即発の事態に陥ったが、今ほど胸騒ぎが襲い来ることはなかった。
まるで、大罪を犯す寸前で踏みとどまっているような、大いなる意思が自分の挙動を注視しているような、そんな気分がざわめいてならない。
それでもなお彼女は杖を手放さない。
恐怖を乗り越える仲間への思いが杖から手を放させなかった。
「何とか言ったらどうですか。怒りもせず、怯えもしない。貴方本当にエルフですか?」
「……驚いている」
「……へえ、鈍いのですね。〝異界渡り〟なら稼業の評判の悪さは知っているものとばかり――」
「……止めようとしていることに――君みたいなのが、私を(大人しそうなニチカ殿よりむしろビラート殿の方が突っかかってきそうな性格と見たのだが)」
――なんという挑発なのか!
たかが人間の魔法使いごときが自分を止めることなどできようか――ビカムはそう言いたいのだ!
言葉数少ないがゆえに行間を読ませることで、相手を刺激する効果はこれ以上なく高められていた。
ニチカにとっての不幸は、ビカムの言わんとする旨を理解できてしまったこと。いや、挑発が挑発にならないほどの実力差があったことか。
「上等ですよ……!」
額に青筋が浮かび、杖の先に魔力が渦巻く。
ビカムはなおも動かない。
だが、彼の指先が何事か為そうと――
「――何やってるのよ!」
林を掻き分けて、マルティナがニチカの背後から飛び出てきた。
立ち止まって口論するビカムたちに絶妙なタイミングで追いついたのだ。
彼女はそのままニチカに抱き着き、後ろから伸ばした手で杖を掴む。
「放してください!」
「放すわけないでしょ! アンタいったい恩人に何してんの⁉ 昼間私たちを助けてくれた人よ!」
「この人は〝異界渡り〟です!」
その事実にマルティナの動きが固まる。しかし手は放さない。
「……だとしても、助けてくれたのは本当じゃない。それに、まだ何かされたわけじゃない」
「何かされてからでは遅いんです! 私の父は仲間に加えた〝異界渡り〟に裏切られて家宝の魔導書を奪い取られた挙句に殺されました! 〝異界渡り〟なんて信用できない!」
悲痛なニチカの叫び。
マルティナは何を言えばいいか分からず――その気の緩んだ瞬間を狙って、杖を掴む手をニチカは振り解いた。
「【射よ】!」
最も初歩的で最速の詠唱をほこる攻撃魔法が杖の先から放たれる。
迫り来る紡錘状の光弾――
ビカムは指先で小さく何かを空中に描いた。
その不可視の軌跡に触れた光弾はあっけなく溶け散った。
「う、そ……魔法文字の一語で掻き消された……? ただの構成要素でしかない最弱の干渉力で……」
風体と戦い方からして彼は剣士であるはずだ。
しかし、今見せた魔法に関する技量は、明らかに並みの魔法使いと隔絶している。
ニチカの顔に混乱がありありと浮かんでいた。
「……(ビッッッッックリした……本当に撃ってきた……! そんなに〝異界渡り〟のことが嫌いなのか……?)」
何よりも、このビカムの落ち着き様よ。
ニチカが本気で魔法を撃つ気なのを見抜いていたのだろう。
「……ここでは何も起きなかった(そういう事にしてほしい……喧嘩したのがバレたら空気が気まず過ぎて死ぬ)」
今の出来事を水に流す、いや、初めから何も起きていない、と――
嗚呼、己に杖を向けたニチカの名誉すら守ろうというのか、ビカムよ。
立ち尽くす二人に彼は背を向けた。
並び立つ者のいない、孤高なる男の背中であった。
――その時、身の毛もよだつような咆哮が轟いた。
テスカの荷馬車がある野営地の方角からだった。




