天才の帰る家。凡人の帰る家
敬ちゃんの家に着いた。僕らは外階段を静かに並んで登る。ちかちかと不安定な蛍光灯が僕らを弱弱しく照らしていた。
階段を上がってから敬ちゃんの家の玄関まで僕らはゆっくり、確実に歩みを進める。
敬ちゃんが扉の前に立ってドアノブを握ったまま、三秒。動かない。
「どうしたの?」
「何でもないよ」
震えている右手を見て僕は何にもしない。
きっとかけてほしい言葉がある。その震える手を抑えてほしいのもわかる。
だから僕は敬ちゃんの顔を見ない。助けてほしそうに声を細めても僕は何もしない。
ただ横で見ているだけ。僕はそれしかしない。
「開けないの?」催促をする声はどこの誰よりも冷酷で突き飛ばしたように言った。
「いま、今あけるよ」
少しだけ左に回るドアノブ。かちっと小さな音がしただけで玄関の扉はあかない。敬ちゃんは震えている右の手を左の手で押さえる。それでも震えは止まらない。
僕は顔をあげて表情を見る。敬ちゃんは涙こそ流してはいないが、額に汗を浮かべ『どうしてあかないんだと』としわ寄せる眉間に、開かないことをどこかで喜んでいる唇。その間にある両の目は右と左で違うところを見ている。
あべこべで出鱈目。ちぐはぐの心を頭が一つにしようとしておかしくなっている。
やりたいのにできない。したいのにさせない。
今初めて敬ちゃんは困難に立ち向かっている。
逃げていたことに向き合っている。その葛藤を敬ちゃんは抱えたまま扉を握っていた。ここまで来た勇気と覚悟をたたえたくなる。
その姿を見て僕は思い出した。きっとこれが見たかったんだろう。
「」
敬ちゃんから涙か汗かわからないものが外廊下に垂れた。その一粒に動揺した敬ちゃんから何粒も水滴が落ちてきた。
「」
僕はポケットから頑なに出そうとしなかった右の手で扉を二回叩いた。
「ぇ…」
急にこっちを向く敬ちゃんに僕は優しくつぶやいた。
「大丈夫。もう大丈夫だよ」
扉の奥からドタドタと人が来る。
敬ちゃんが握っていたドアノブは関係なく回り、扉が開いた。
「敬。お、おか」
縮こまって声も体も小さく、小刻みに震える母親。
敬ちゃんの震えは止まった。焦点も目標に向いている。
心を母親の前に据えて露骨に深呼吸をした。
「た、ただいま。お母さん」
「うん。おかえり敬」
母親が敬ちゃんの手を取って、何度も何度もその言葉を繰り返した。敬ちゃんはそれに「うん」と答える。
日常の挨拶。家族なら当たり前の呼称。
そうやって二人は家の中に入っていった。玄関は僕が閉めた。
「おじゃましました」
蚊帳の外の僕は聞こえるか聞こえないかの声で別れの挨拶をして家に帰った。
本当は最後までいるつもりだった。『感謝でもされようかな』そう思っていたけど無粋だなとか、手遊びにも飽きて暇になったから帰ったとか、明日は学校だから早く帰んなくちゃとかそういう当たり前のだ。
僕は誰もいない電車の車両に揺られている。座席はどこも開いているのに、僕は座る気になれなかった。座ったら僕は自分の家の最寄り駅で、立ち上がる自信がなかった。
最寄り駅のアナウンス。ボタンを押して電車のドアを開ける。
寄り道する元気もなかったけれど、家に帰っても食べるものがない。冷凍庫だってすっからかんだ。夕飯のことを思い出して、いつものスーパーに買い出しに行く。
家族連れに混ざってスーパーに入店する。
見切り品の肉や、魚を見ても、なんだか今日は料理をする気分になれない。
幸い僕の手料理を待っている人間はいない。
仕事が終わった大人たちが集まる総菜コーナーに向かう。
もう商品は残り少ない。今日の売れ残りたちが三割引で売られていた。中には半額の物のある。割り引かれないと人気のなさそうなメニューばかりだ。
僕は半額になっていた魚の南蛮焼きを何も入っていない買い物かごに入れる。
あれほど食べた甘いものがまた食べたくなった。半額のケーキを買った。違う種類の二つのケーキが長方形にしまわれている奴だ 。
慣れた手つきでレジに行って、買ったビニール袋に商品を詰めて店を出た。
ケーキが暴れないように僕はゆっくり歩いて帰る。帰り道すれ違う人は皆、明日のことを考えていた。暗い夜でもはっきり見える。僕はまだ今日の、これからのことを考えていた。
真っ暗な中の真っ暗な家に鍵を開けて入る。玄関のシューズボックスに飾られた、家族写真が目に入った。僕は赤ん坊のころ、三人で撮った家族写真だ。
買い物袋を床において靴を脱ぐ。僕のサンダルと今はいてきた靴しかない玄関。
靴をそろえる元気はなかった。
玄関の姿鑑に写る自分を見て小さくため息をついた。
台所に行って安くなった総菜を電子レンジにぶち込んだ。小さな窓の向こうで光っている総菜を見ておなかがすいた。
半額のケーキを食べよう。食事のセオリーを無視してデザートから食べよう。何ともいえない背徳感が僕の決定を推し進める。独り食卓の特権だ。
食洗器からフォークを出して、食器棚から皿を出して乗っけた。ケーキフィルムをはがしたところで、使っていない誕生日用のろうそくの存在を思い出した。
玄関にあったジッポライターを取りに行く。
ろうそくを三本刺して火をつける。 誕生日はまだまだ先だけどなんだか楽しい。照明を消して火を眺める。ぼんやりとした揺れる光。とても明るく感じた。
蝋がケーキに垂れないうちに消す。真っ暗な部屋に電子レンジの黄色が漏れる。
きっと敬ちゃんは温かいご飯が出てくるんだ。古臭い小さなボロアパートの小さな部屋、車の音にも気づかずに手作りのご飯を食べている。
敬ちゃんより広い一軒家、きれいな部屋。ほかの家の生活音なんて聞こえない。それが寂しさを際立たせる。
ここには誰もいないこと、僕にねじ込む。
僕は電子レンジが止まっても、開けることはなかった。機械が温めためた料理に文句が言いたいわけじゃない。いったところで伝わらない。
右手でフォークを入れる。僕はすぐにフォークを戻して皿の上に戻した。食欲が、ろうそくを吹いたら、僕の外側に行ってしまったから。その代わりに別の何かが僕を満たしてくれた。
「うらやましいな」
僕は強引に一口食べる。
あぁ、敬ちゃんちで食べたケーキとは雲泥の差だ。
僕の目の前にあるケーキは誰かのために作っている。
あの家で食べたケーキは敬ちゃんだけのために作っている。
僕の嫌いな甘くないケーキがあそこまで愛おしく、うらやましいものになるなんて。
ケーキはフォークを刺したせいで、ゆっくりと横倒しになった。乗っていたイチゴがテーブルに落ちる。
ただ、甘いだけのクリームにここまでの悲しい気持ちを持ったのは僕が初めてだろう。胃が持たれる。さみしさは消えず、僕の中で保たれている。
二口目を食べるための元気が足りない。
くらい部屋の中、ただぼうっとカチカチと動く時計のを見ていた。
ご覧いただきありがとうございました。
この物語は完結済みのため、添削でき次第投稿します。
次回も皆様とお会いできるのを楽しみにしております!




