天才の進化
六月 二十七日
フォークが床に落ちて鳴った。時計を見て月曜日が来たことに気が付いた。壁に掛けられたカレンダーを見る。
でも今日は三連休。まだこのままでもいいけれど、そろそろ時間だ。
憂鬱を感じる前に僕は体を起こす。
布団で寝ずに、机で寝たせいで体が痛い。特に肩と首にダメージを感じた。
体を玄関に向かわせる。
聞きなれた自転車の高いブレーキ音で僕は外に出る。
「おはよう透真君」
「おはよう敬ちゃん」新聞を持った敬ちゃんがいた。
「はい。朝刊」
「ありがとう。今日は少し遅い?」僕は手で受け取った。
「ううん。いつものとおりだよ」
「僕が早起きしたのか。知らなかった」
「寝てないんでしょ。くまできてるよ」
「メイクだよ」
「パンダになるの?」
「動物園でぐーたらできるからね」
「なら全身白くしないとね」
「良かった、元気になって」
「うん。透真君が知ってる僕じゃないくらい元気がいいよ」
「よかった」
「透真君今日暇?」
「うん。やることなにもないよ」
「一緒に行きたいところがあるんだ」
「うん。いいよ」
「どこ行くか聞かないの?」
「変な所じゃないでしょ。僕は敬ちゃんを信用しているんだ」
「またラインするね」
「わかった。待ってる」
敬ちゃんは籠に新聞が詰まった自転車にまたいで次のお宅に向かっていった。
元気になった敬ちゃんを見て安心した。
家に戻る。ダイニングテーブルに新聞とチラシを置いた。賞味期限切れのケーキが目に入る。朝から生クリームを食べる勇気はなかった。ケトルで湯を沸かす。いつものマグカップに紅茶のパックを入れる。
もう沸いた。お湯をカップに注ぐ。一瞬で色が付いた。
そうだ、温めたまま食べるのを忘れた魚と、電子レンジの扉越しに目が合う。
けれど僕は知らないふりをしてテーブルに座った。
僕は落ちたフォークでそのままケーキを食べ始める。しっとりがべったりに変わった生クリームはおいしく感じた。
昨日はいろんなことがあったのに、寝て起きたらケロッとしている。
この部屋がいっそう広く感じているのに、元気になった敬ちゃんを見て安心していた。
白い雲がまばらに散る晴天。昼過ぎでも熱い。湿ったくもりに慣れた僕は環境の変化に体が追いつかない。山を切り開いた場所にあるこの墓地。少し高いこの場所から田園が見える。水の張った田んぼの反射がまぶしい。
墓石の前で手を合わせる敬ちゃん。ピカピカの墓石に三人の名前ときれいな花。真っ白の砂利に草は一つもない。
ひとりでに鳴くカエルの声がした。誰に聞かせているのだろうか。やわらかく空に向かう線香を見て思った。アスターと線香の匂いが混ざる。ご先祖様の場所にいることを強く意識させられている。
今日は全然会話が膨らまない。最初の敬ちゃんみたいだ。もしかして不機嫌なのだろうか。長い距離を二人で歩いてきたのに、駅で集合してから数ラリーくらいしか返ってこない。そういう日なんだと思って僕も静かにしていた。
朝ご飯を食べた後、集合時間と帽子をもってきてとラインが来た。どんな場所に連れていかれるかと思ったら墓参りだった。
「透真君も」脱帽していた敬ちゃんが僕に線香を渡してくる。
「うん。ありがとう」
火のついた線香。十本くらいの塊。すでに三割は灰になって消えていた。
僕は香炉に線香を置いて、手を合わせる。顔も知らない、名前は墓石で確認したくらいの関係。友人のお父さん。他人のお墓に手を合わせるなんて初めて。
僕がここにいていいのかと思っている。敬ちゃんに誘われたから来た。そんな不思議で特別な間柄。
あんまり長居するものではないだろう。僕は手をほどく。
「」ちょろちょろと杓で墓石に水を流す敬ちゃんがいた。
「」
「終わった?」手桶を持った敬ちゃんが僕に聞いてきた。
「うん」
「かえろっか」
「もういいの?」
「することないもん」
「なら行こう」
「うん」敬ちゃんはトートバックに線香とライター、はさみと新聞紙を丁寧に入れる。
僕は手桶と手酌をもって敬ちゃんの横を歩く。
「今日は来てくれてありがとうね」
「今日は何で誘ったの?」
「なんとなくだよ。来てほしかったから呼んだんだ」
「怖かったとか?」僕は踏み込んだ質問をした。
「うん。そう。ここには逃げ出したくなるような、いろんな思い出があるからね」
敬ちゃんは少し視線を落とした。
「久しぶりなの?」
「うん。引っ越して以来、来たことなかったからさ」
今日敬ちゃんの口数が少なかった理由がなんとなくわかった。
僕らは墓地を抜けて畑で囲まれた道路を歩いていく。
「日焼け止めありがとね」
「こちらこそ。こんなに暑い日だからね。きっと透真君は付けないと思って持ってきたんだよ」
「もらっちゃっていいの?」
「いいよ。僕のバイト代だからね。バイト変わってくれたこととか、お母さんのこととかのお礼さ」
「今の日焼け止めってにおい付きなの?」
僕は手の甲を嗅いだ。なんかミントみたいな香りがする。
「何のにおいかわかる?」
「えーっと」僕はポケットに手を入れる。
「パッケージ見たらだめだよ」
「ミント?」
「色で判断した?」
「緑だったからね」
「ティートピアだよ。外国のお茶のにおいかな」
「僕はこの香り好きだよ」
「よかった。僕も使ってる。一番使いやすいんだよ」
僕らは行くときも使った公園に入った。真新しい子供用の遊具とバスケのハーフコートがあった。
赤い自動販売機が目に入る。
「飲み物買っていい?」僕はポケットから財布を出した。
「ちょっと待って」
「え?なんでさ」
『がこん』
敬ちゃんはいつの間にかボタンを押していた。左手にはスマホがあった。
「はい。どうぞ」かがんだ敬ちゃんが取り出し口から出たペットボトルを無造作に差し出した。
「なんで?いいの?」僕は敬ちゃんの顔を見る。
「どうせ水でしょ。透真君いつも水しか飲まないじゃん」
「違うよ」僕は敬ちゃんから水を受け取った。冷たいペットボトルが痛く感じる。
「え?違うの」敬ちゃんは目を丸くした。
「今水が飲みたい気分になった」
「素直に言えばいいのに。面倒だね」
「僕も思う。敬ちゃんは何がいい?」ポケットにもらった水を入れ、財布の中の小銭を漁る。
「スポーツドリンクがいいな」
『がこん』
「はい。交換」僕は受け取り口から出たペットボトルを敬ちゃんに渡した。
「ありがとね」
僕らは藤棚の下にあるベンチに座る。緑の葉っぱが茂ってはいるけれど、木洩れ日から強い日差しが降り注いでいる。
「「いただきます」」
「そういえばさ。なんで駅の自販機見ているの?」一口水を飲んだ僕はいつか聞こうと思っていた疑問を聞いた。
「?」ペットボトルの半分くらいを飲み切った敬ちゃん。口角から滴るスポドリを手で拭う。
「いつも通学中にホームにある自販機見てるじゃんか」
「あーね。あれはね。季節を確認するためだよ」
「役に立つの?」
「あんまり。昔は見てて面白かったんだ。冷たいとあったかいが共存している箱の中身を想像するのがね」
「なんで今でも見てるの?」
「同じものをじっと見ているのって楽しくない?」
「?」僕はきょとんとしてしまう。
「最近夏でもあったかいが冷たい、のエリアを侵食しているんだよ。その理由をぼんやりと考えたり、それを買う人を見てたりするのは楽しいよ」
「面白いこと言うね」
「面白いでしょ」
からっとした風が吹く。少しじゃりじゃりするような風が藤の葉を揺らす。
敬ちゃんはペットボトルのラベルをはがしたり、またつけたり。それを繰り返している。
「そろそろ行く?」
「透真君に言っておきたいことがあってさ」敬ちゃんが手遊びをやめた。
「改まって何さ」
「バスケを本気でやることにしたよ。お父さんのチームに誘われたんだ」敬ちゃんが僕の目を見て話す。
「よかったじゃん。もう助っ人はやめるんだね」
「やめない。全部行くよ。野球もサッカーも何でもやるよ」
「欲張りでいいじゃん」
「いろんなスポーツの経験をバスケに生かすよ」
「アルバイトは?」
「これで、おじさんの奥さんが復帰できそうだから、シフトの数を減らすよ」
「完全にはやめないんだね」
「うん。あそこで働くのは嫌いじゃないんだ。おじさんにはお世話になったしね」
「それ、ちゃんと言葉にしたの?」
「うん。僕の居場所になってくれてありがとうって、ちゃんと伝えたよ。おじさん、少し泣いていたけどね」
嬉しそうに話す敬ちゃんを見て僕もうれしくなる。
「バスケットはどう?」
「楽しいよ」
「よかったね」
敬ちゃんが一度うつむいた。
「嘘。うまくいかないことばかりだよ。でも本気の勝負は楽しいよ」
「いいじゃん。昔よりかっこいいよ」
「そう?確かに。そうかもね」敬ちゃんは笑った。
「どうしたの?」
「いや、初めて会った時を思い出してさ。透真君は覚えている?」
「水道の前でしょ?」
「え?全然違う。教室でいきなりきれいなハンカチを見せてきたじゃないか。本当に初対面だからこわかったよ」
「それは二回目だよ。はじめては僕のハンカチ踏んだ」僕は眉をひそめた。僕が敬ちゃんとの出会いを忘れるはずがない。
「別人じゃない?」
「そっちこそ誰かと間違えているよ」
「僕…ハンカチ踏んだの?」 敬ちゃんは口を開けて驚いている。
「思い出した?敬ちゃんの左足だよ。ハンカチ踏んで悪びれもしなかった。しかも指さしただけだよ。拾わなかったんだよ。僕がありがとうって感謝したんだ。踏まれたのに」
「そんなことあったかな?」
敬ちゃんは腕を組んで思い出そうとしている。
「あったよ。入学式の後、教室の水道の前だったよ」
「そうだっけ?一人でぼんやりと遠くを見てた僕にいきなり話しかけてきたよね」
「そう。それが二回目。踏まれたハンカチがきれいになったことを報告しに行ったんだよ」
「あれって当てつけだったの?」敬ちゃんが驚いた声を出した。
「そうだよ。新品の靴で踏まれたけど少し汚れたんだ。必死で洗濯板でこすったんだよ」
「そうだったんだ…ごめんね」
「いいよ。もう気にしてないしね」僕は自然な声で敬ちゃんに答えた。
「じゃあさ、二回目の時、僕に何を言ったのかも覚えている?」
「なんて言ったの?」
「教えないよ。思い出してみて」
「変なこと言ってた?」
「とびきりね。思い出しただけで、こっちが恥ずかしくなるよ。おかしな人に声をかけられたと思ったよ。防犯ブザーがあったら鳴らしてた」敬ちゃんがニヒルに笑って顔を手で覆った。
「恥ずかしいね」
「ほんとだよ。でもだいぶ楽になってたんだ。僕意外にもおかしい奴がここにいるって。いろいろあって引っ越して、誰も知り合いいなくて寂しかったんだよ。ありがとうね」
「そこまで感謝されることじゃないよ」
敬ちゃんが足を延ばして足首をぐるぐると回し始める。
「違う。これを先に言いたかったんだ」僕が聞こうとする前に敬ちゃんが声に出した。
「どれ?」
「昨日はありがとう。おかげさまでお母さんと話せたよ」
「積もる話がたくさんあったんだね」
「うん。なんでわかるの?」
「顔を見ればわかるよ。お互いパンダだった」
「これでも隠してきたんだけどね」
敬ちゃんが恥ずかしそうに帽子を深くかぶる。
「本当に透真君のおかげ。あとお父さんが死ぬ前に取った動画をお母さんが見せてくれたんだよ」
「どうだった?」
「痩せてげっそりしてた。忘れてた声も思い出せた。完全に忘れてたはずなのに、声を聞いたらとってもしっくり来るんだよ。すごく不思議な感覚だった。あの時はごめんってことと、僕には才能があるからバスケは続けた方がいい。諦めずに、努力すればプロになれるって言われた。面と向かって言われたことはなかったけどね」
優しい声で敬ちゃんは僕に話してくれた。わだかまりも幾分かましになったのだろう。
「僕のおかげではないね」
「ううん。本当に透真君のおかげ。お母さんと仲直りって言うか、ああいう空気感?みたいなのをやめない限りは見れなかったし、見せなかったから。全部透真君のおかげだよ」
「よかったね」
「うん。自分の名前を好きになれた。自然と反応できるようになった 」
「由来。聞いたの?」
「うん。聞きたい?」
「どっちでもいいかな」
「だろうね。」
敬ちゃんの含みのある言い方に引っかかる。 でも興味はそんなにない。昔だったらぜひ聞いてみたかった。
ご覧いただきありがとうございました。
この物語は完結済みのため、添削でき次第投稿します。
次回も皆様とお会いできるのを楽しみにしております!




