表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
(完結)男二人、ヤマアラシのジレンマ故に  作者: たろう


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

38/77

38

薄く開かれた口から熱い呼気が漏れ出ている。僕はただそれを見ていることしかできない。


あれから馬車を走らせて僕は意識のないキースを自室まで運んだ。


到着後すぐに医者を手配して、濡れた服をとりあえず着替えさせてベッドに寝かせる。彼の体は燃えるように熱かった。ベッドの上では、彼は苦し気な呼吸に合わせて胸を上下させている。


焦燥感に駆られながら医者の到着を待っていると、ややあって男三人組が駆けつけてきた。僕が普段世話になっている医者とその助手だ。彼らが部屋に入るなり僕に挨拶しようとするのを押しとどめて、すぐに診察するよう頼む。


言われるがままに年配の医師がキースの熱を測ったり、口内を覗いたり、胸の音を聴いたりして、慎重にその容態を見てから、ただの風邪だと言った。肺炎は併発していないので大丈夫だと、僕を安心させるように言った。医者が看護師に指示を出して、汗をかいたキースの体を軽く清拭させ、症状を緩和するための薬を鞄から取り出して少しずつ飲ませた。


適切な処置と薬のおかげで今は容体も安定しているように見えるけれど、僕には信用できなかった。なぜなら今もまだベッドの上では、キースが苦しそうに息をしているのが見えているからだ。何度か寝返りを打ちながら横になっている姿は、僕の心を搔き乱した。


うなされているようだった。もしかしたらひどい悪夢を見ているのかもしれない。


僕は彼の眠るベッドの側にある椅子に腰かけて、ただ彼の恢復を祈る外なかった。


さきほどの医者はただの風邪だと言った。命に別状はないが、あと少しで肺炎になっていたかもしれないと最初に言った。そう言われたときの僕の気持ちを言葉にすることはできない。その瞬間の、言い知れぬ恐怖を。


心配そうにキースを見守っている僕に、医者も従僕も大丈夫だと言う。風邪がうつるから別室で待機するよう諭された。代わりに看ているから、別室で休むように言う。自分たちが交代で、僕の代わりに看ているからと。しかし僕はその申し出を丁重に断った。


彼らにしてみれば何をそんなに頑なに居座り続けるのだろうと思ったかもしれない。ただの平民に王子である僕が、どんな義理があって看病することを申し出ているのかという問いかけが、彼らの顔から言葉にせずとも伝わって来た。


僕は、僕にできることがあるから残りたいと言っているわけではなかった。そんな馬鹿げたことを言うつもりはなかった。ただ、この場から離れがたかっただけだった。


馴染みの医師は僕に根負けして、僕の体調に異変があったらすぐに申し出ることを約束させた。僕はそんなつもりはさらさらなかったが、素直にその申し出に頷いて見せた。


半信半疑の医者が薬の残りを説明書きと共にサイドテーブルに置くと、彼が目覚めたら自分を呼ぶように言って部屋を出ていった。


僕はクリストフにも部屋を出て行くように言った。クリストフは抵抗したけれど、最後には根負けして、また様子を見に来ますと言って出て行った。


皆が僕の態度に訝し気な顔をしていた。僕の行動理由が分からないという顔をしながら、出て行った。


誰にも僕の気持ちなど分かるはずが無い。


僕はあの場に、あの雪の降る広場に偶然居合わせた幸運を神に感謝した。何もしないまま、再び彼を失ってしまうかもしれなかったから。二度も、彼を失ってしまいかねなかった。そうなったらもう、僕には耐えられそうになかった。


夜、彼は熱にうなされて何度も寝返りを打つ。そのせいで、彼の肩が布団からはみ出した。僕はそのたびにそっと、布団を掛け直してやりながら、じっと傍についていた。


時計を見るといつの間にか真夜中近くになっていた。しかし眠気は一向に訪れなかった。


約束通りにクリストフが来て、看病役を代わるから眠るよう言われたけれど、僕は頑として譲らなかった。


キースの顔に乗せた濡れタオルがずれて落ちるたび、僕はそれを冷たい水で搾りなおして彼の熱い額に置いた。それしかすることのできない自分が歯がゆかった。


彼の熱い体が、必死に生きようとしているのを僕に教えてくれる。僕には彼のためにどうすることも出来なくて、ただこうして傍にいるしかできなくて、ただただ己の無力さに絶望していた。


その後も彼は眠り続けた。僕が自室に連れてきてから、半日以上の間ずっと眠り続けた。その間一度も目を覚まさなかった。そのことが僕をますます不安にしていった。若く体力があるので、薬の効果で熱は徐々に下がっていくと医師は言っていたけれど、僕には彼がそう簡単に良くなるようには思えなくて、楽観的にこの事態を見ることができなかった。


静かな時間が流れて行った。僕は彼がいつ目を覚ますかと、ただそれだけを祈った。


長い夜が明けて行く。


彼は翌日の午前中にやっと初めて意識を回復した。僕が椅子から腰を上げて、丁度彼のぬるくなったタオルを冷たい水で搾りなおして、額に乗せたときだった。


虚ろに見開かれた二つの瞳が周囲を探る様に見ている。僕は驚きと嬉しさの両方から、何も言えずに彼が部屋の中を見回すのをただ見ていた。声をかけたらきっと彼を驚かせてしまうような気がして、僕は息をつめて見ていた。彼の視線が僕の方へ来るのを祈る気持ちで待った。


そしてとうとう、ゆっくりと動く視線が僕の上で止まる。僕の見つめる視線と重なった。彼が僕を見つけた。その瞬間、わずかにみひらかれた瞳に、僕は、キースがはっきりと僕を意識したのだと分かった。


そのことが嬉しくて、僕は自分の顔が緩むのを止められない。見ていると、彼の口が動く。そして、キースが僕の名を呼んだ。掠れて小さな声だったけれど、確かにアルベルトと彼が言った。


僕はそっと彼を抱き上げて、声をかけるが、はっきりとした反応は無かった。僕は抱き上げた態勢のまま、彼に水と薬を飲ませた。なんとか飲み干してくれたことに僕は安堵する。


「大丈夫?」


僕は訊いたけれど、彼はそれに答えることなく僕の腕の中で再び眠りに落ちていった。


僕は静かにその熱い体をベッドに横たえると、布団を引き上げて彼にかけた。額にそっと手を乗せてみる。少し体温が下がっているようだった。


僕は震える心を抱えて、安堵の吐息を零した。


結局僕は、トイレに行く以外はずっと、半日以上の間彼の傍にいた。


彼が目を覚ましたとき、自分がすぐ近くにいなかったら彼が困るだろうと思うと、彼が目覚めたときにそばについていてあげたいと思うと、僕は部屋を去ることができなかった。昨夜から何も食べていない。食事が喉を通るような気が全くしなかった。


何度もクリストフが僕を部屋から連れ出そうとしたけれど、僕は考えを変えなかった。


キースを再び寝かしつけた後、カーテンを開け放つと、まだ雪が降っている。時計は午前九時を指していた。


この雪はもうずっと降っている。やんだり降ったりを繰り返しながら、もう何日も降っていた。空は厚い雲に覆われてどんよりとし、全く晴れそうな様子がなかった。僕はぼんやり曇り空を見ていた。時計の針が時を刻む音と、彼の呼吸する音だけが室内を満たしている。


そして、昼過ぎにキースが再びを覚ました。僕が、クリストフの説得に根負けして、昼食に軽いものを摘まんだすぐ後のことだった。


そんなときに、前触れもなく、キースが目を覚ました。目を開いて、しかし眩しさに目を細め、手で窓からの光を遮る。手で作った影の下で何度か瞬きを繰り返している。状況が呑み込めないようで、その顔には困惑の色がありありと浮かんでいた。彼は熱でぼんやりするのだろう、額に片手を当てて、意識をはっきりさせるように頭を振った。


それから、ベッドから起き上がるために、両手で上体を支えようと試みていたが、上手く力が入らず、しかも眩暈までするのか、彼は再びベッドに沈んだ。体のだるさもあるはずだ。彼は起き上がるのを諦めて横になったまま、今朝と同じように部屋の中を見回した。


窓の外の景色に、キースの視線がくぎ付けになった。雪は一時的に止んでいて、厚く灰色の雲が垂れ込める空を見つめていた。


そうした後で、やっと振り返って僕の方を見た。


彼が目を見開く。


「え?」


キースのかすれた声が部屋に響いた。どうやら昨日のやり取りや今朝方の出来事は覚えていないようで、全く予想もしていない事態に驚いたというように僕を見つめている。


僕はそんな彼を宥めるように笑いかけると、サイドテーブルの水差しを取ってグラスに温い水を注ぎ、彼に差し出した。


「喉が乾いているだろう?水を飲んだ方が良い。それから食べられそうなら食事も」


僕の言葉に呆然とした様子で、キースはじっと動かない。僕はそんな彼をしり目に、手に持った水の入ったグラスを差し出す。


「どうして……。これは夢なのか?俺が見ている?」

「夢ではないよ」


僕は答えた。困惑顔のキースの手に無理やりグラスを渡すと、彼は案外しっかりとそれを受け取った。


「昨日のことは覚えていない?君はあの広場で凍えていて、風邪をひいてしまっていたんだ。僕がたまたまた居合わせて、君をここへ、僕の部屋へ運んだんだ。具合はどう?頭が痛いとかだるいとか寒気がするとか、そういった症状は?」

「覚えていない。……いや、確かに、そうだ。アルベルトが来て、それで……、でも、夢じゃなかったのか」

「夢じゃないよ。ほら」


そう言って僕は彼の手を取る。


驚いた声をあげて再び僕を見る。彼は起き上がって謝罪しようとしたのを、慌てて押しとどめた。


「謝罪はいらないよ。君が謝らなければいけないようなことはなにもない。そんな必要はない」

「ですが……」

「それなら、ありがとうと言ってもらう方がずっと嬉しい」


僕の言葉にはっとしたように言葉を詰まらせて、手に持つ水の入ったグラスと自分の置かれた状況を見た。キースがおずおずと口を開いた。


「ありがとうございます、アルベルト殿下」

「どういたしまして。それよりも、さぁ水を飲んで」


頷きながら僕はそういった。キースは大人しくグラスに口をつけた。


それからすぐに医者を呼んで、診察をしてもらう。熱もだいぶ下がっていた。


クリストフに粥を持ってきてもらって食べさせて、薬を飲ませた。


彼は自分が僕の部屋にいる理由も、僕が世話する理由も分からないのだろう。終始困惑気味だった。かいがいしく世話する僕に、ずっと何事かを問いたいな顔をしていたけれど、結局何も聞かれなかった。しばらくして薬が効いてきたようで、彼はまた眠りに落ちて行った。


僕は彼が再度眠ったことを確認して、後をクリストフに頼むと別室で眠った。安心できたからだろう。僕もまたあっという間に眠りに落ちた。


思ったよりも眠ってしまったようで、僕は夜に目が覚めた。クリストフを呼ぶと、キースは起きたり眠ったりを繰り返しているという。


僕は急いで食事を腹に詰め込むと自室へと急いだ。


時計を見ると夜の十時だった。キースは起きていて、僕の顔をみると声を掛けて来た。その声がひどくざらついていた。


僕はすぐにベッド脇の椅子に腰かけて彼の顔を覗き込む。再び熱が上がって来たのか、横になっているキースの顔が赤かった。咳も出始めていた。


僕が慌てて医者を呼ぶように言うと、診察したばかりだそうだ。クリストフが教えてくれた。彼に診察の結果はどうだったのかと問うと、心配ないとの返事。新しく薬を処方し直して、飲ませたばかりだと言う。今までよりも少し効果の高い薬だそうだ。


僕は症状が一向に改善されない焦燥感に苛まれていた。しかし、この焦りを誰にぶつけるわけにもいかない。こればかりは、人のせいではないのだから。


僕は再び、クリストフと交代して、僕は彼の傍にある椅子に腰かけた。椅子にじっと座りながら、彼の荒い息遣いを聞いていた。


時間は泥のように緩慢に流れて行った。


時間とともに彼のざらついた呼吸音が部屋に満ちて行く。僕はタオルを交換してやりながら、黙ってそれを聞いていた。


真夜中過ぎ。


キースの顔が赤くなっていることに僕は気づいた。


熱が上がってきたのだろう。よくよく気を付けてみると、呼吸も荒い。そっと額に手を当てると思った通り熱い。


時計を見ると深夜の二時だった。僕は薬を飲ませるべくキースに声を掛ける。熱が上がったら飲ませるよう言われていた薬があったのだ。


「キース?」


僕は声を掛ける。彼はうなされている風だった。眠りの合間合間に何かをうわ言のようにつぶやいている。


僕はそっと彼の肩を揺らして起こす。


幾度目かの声掛けに、彼が薄く目を開いた。汗が灯りに輝いている。


「大丈夫かい?」


僕が声をかけると、眠りから醒めたキースが辺りを窺うように視線をさ迷わせ、僕を見つけると、ほっと息をついた。


「大丈夫か、キース?」


再度声をかけると、か細い返事があった。


僕は彼をそっと抱き起して、薬を飲むのを介助した。薬を飲み終わったキースがベッドに倒れ込む。僕はその肩にそっと布団をかけてやった。


それから、僕がキースの眠りを妨げないよう、サイドテーブルの灯を弱くすると、部屋に暗闇が訪れた。小さな灯は部屋の端までは届かず、闇が隅のほうにわだかまっていた。


ただ静かに椅子に腰かけて座る。僕の目には、キースが布団に包まって横になる姿がよく見える。彼の向こうに闇があった。キースの影がカーテンに濃く映し出されている。


僕は小さいころこの暗闇が苦手だった。何か得体の知れない想像上の怪物が、そこに紛れて僕の眠るのを待っているような、そんな気がしていた。僕が眠りについた後でその闇から抜け出し、眠っている僕をその中に引き摺り込む、そんな想像をした。そんなときは僕は布団を深くかぶってただひたすら恐怖に耐えたものだ。


そんなことを思い出しながら、僕はこのままキースが朝までぐっすり眠ることを期待していた。そして、彼が眠った後、闇から這出ずる怪物を打ち倒すことを夢想して、その馬鹿馬鹿しさに一人笑った。つまり僕は暇だったのだ。


そんなくだらない妄想をして、今はそんな時ではないと、気持ちを切り替えるために立ち上がる。カーテンの隙間から外を見ると、また雪が降っている。


手持無沙汰な僕は立ち上がってずり落ちかけた布団を治したりキースのタオルを替えて、彼の熱を見たりした。まだ熱は高いようだ。もうしばらく様子を見て、熱が下がらないようなら、また医者を呼ぼうなどと考えていた。


部屋にはキースの息遣いが満ちている。僕は薄暗い部屋の中で、いつの間にかうとうとしていたようで、はっと気づいたときには半刻ほど時間がたっていた。


慌ててベッドのほうをみると、キースが起きていた。目を見開いて天上を見ている。


「キース。眠れないのかい?」


僕は熱を確かめるために、彼の額に手を置く。まだ熱がある。しかし、よくよくみると、顔色は悪くない。少しほっとする。


そんなことをしている間、僕をキースが黙って見ていた。口を開くようすはなかった。けれど、その顔に浮かぶ表情が、何事かを言わんとしているのを教えてくれる。きっと今彼は考えている。僕の意図を。僕が傍にいる理由を。


「喉は乾いてない?」


その問いに、彼がかすれた声で答えようとして、しかし咳のために言葉が続かなかった。喋らなくていいと言うと、彼が小さく首を振った。


「分かった」


僕はそっとキースの肩口に手を添える。優しく、リズムをとるように叩く。子供をあやすように。彼がまた咳をした。


「医者を呼んで来ようか。辛そうだ」


そう言いおいて、僕は部屋を出るために椅子から立ち上がる。腰を上げてドアのある方へ体を向けたとき、背後から声がした。


「待って」


それは本当に小さな声だったけれど、確かにそう言っていた。


僕が咄嗟に振り返ると、キースが自分の言葉に驚いたような表情を一瞬見せ、それから恥じ入るように顔を伏せた。


「いえ、何でも、ありません」


彼がそう言った。


その言葉に僕は少し考えて、再び椅子に腰かけた。


「分かったよ。どこにもいかない。傍にいるから」


僕はそう言った。彼の反応を見る。


椅子に腰かけて、彼に何かあったときすぐに動けるよう心のを準備した。


ベッドの上ではキースが静かに横になっている。そして、しばらくあって、恐る恐るという風に彼が顔を上げて僕を見てきた。


それに気づいて僕は彼の目を見る。その目を覗き込む。なんだろう。


その瞳が揺れていた。こちらを窺うように。迷子の子供がするような目だった。なんとなくそう思った。


その目に僕は心当たりがあった。というのも、僕にも経験があったから。セオドアが時々そんな目をしていたから。それに、僕も風邪をひいた時はいつも心細いような気がしていたことを思い出した。体調がいつもと違うと、そのことに不安を覚えるものだ。それが普通だ。きっと、キースもあの時の僕と同じ気持ちなのだろう。そう思った。


「僕に何かして欲しいことはあるかい?」

「い、いえ」

「そう。お腹は空いていない?」

「は、い」

「具合は?熱があるようだ。咳も。辛くない?」

「……大丈夫、です」


言葉を発するとこらえきれないのだろう、苦しそうな咳が彼の口から出た。


「大丈夫。喋らなくても」


咳に苦しむキースの丸まった背をさすりながら僕は言った。


「眠れないのなら、僕が話をしてあげるよ。寝る前のお話だよ」


咳が止まったキースが怪訝そうな顔で僕を見上げて来た。


「僕が子供の頃眠れなかったときはね、母がよく話して聞かせてくれたんだ。御伽噺を。それから時々歌を聞かせてくれた。思い出した。眠れないときは僕は話をしてもらうのが好きだったんだ。だから……」


彼の肩口を優しく叩きながら僕は語った。一定のリズムを刻む僕の手。その影がカーテンに映っている。今となってはもう懐かしい記憶。その記憶を頼りに僕はキースに話して聞かせた。御伽話を語って聞かせた。昔母や乳母から聞かせてもらった昔話を。


それはただの軽い気持ちからだった。いい歳をした大人が、それで喜ぶとは微塵も思っていなかった。どちらかというと、僕がそうしようと思ったのは、この手持無沙汰な夜の時間を潰すためだった。


「昔々あるところに――」


囁くように僕は言葉を紡ぐ。彼の眠りの妨げにならぬよう。ゆっくりと。単調に。


僕の記憶は曖昧で、ところどころ無理やりな展開があったり、詰まってしまうところもあった。次から次へと幼い頃の思い出が僕の脳裏によみがえってきた。それが、なんだか楽しかった。


深く考えていたわけではなかった。


ただの思いつきだった。


物語は佳境へと近づく。幸福な結末へ。困難は乗り越えられ、主人公は進み、悲しみに暮れる姫は救い出され、そしてついに……。


僕は気づいた。


最初気付いていなかったけれど。忘れかけた物語を思い出すのに気を取られていたから。


でも。


何か……。


僕はそっと視線を上げて、ベッドへと向ける。キースが横になる姿が目に入る。


僕はふとキースの顔を見た。


僕の心臓が止まりそうになる。痛いほど締め付けられる。


キースは、泣いていた。


声を殺して、それでもなお堪えきれぬ嗚咽を漏らして泣いていた。その声が小さく僕の耳に届いていた。違和感の正体はこれだった。


見ている間も、後から後から、彼の閉じられた瞼から、涙が零れ落ちて行く。


キースはその涙をぬぐおうともせず、ただ流れ落ちるに任せて泣いていた。


それを見て、僕は彼の孤独を知る。今はっきりと。その深く暗い孤独を。


僕はその驚きと動揺のせいで途切れてしまった物語を、二人が結ばれるところを、なんとか最後まで語り終えた。


部屋に沈黙が落ちる。


僕は彼に声を掛けるべきかどうかを逡巡していた。けれど何も思い浮かばなくて。だから僕は息をつめて成り行きを見守っていた。ただ、静かに、彼が泣き止むのを待っていた。


泣き止むのを待つ間、じっと見つめる僕の視線の先にいるキースが、なんだか小さく見えた。小さな幼子のようだと僕には思われた。


そして唐突に、天啓のように一つの考えが僕の頭に生まれる。


今、彼はきっと六歳の子供に戻ったんだ。ベッドの上に六歳の子供が横になっている。


何故かそう思った。


彼の嗚咽は、慟哭にもにた響きを持っていた。聞く者の心を締め付ける。


彼は今までどれほどの思いを、抱えきれない思いを堰き止めていたのか。


僕は今やっとそのことに気付く。そのことに思い至った。初めて、彼の心の中を覗いたように思った。


六歳のキースがそこにいた。六歳のキースが、今十年越しに泣いている。


そこで不意に僕は思い出す。


一昨日の夕方道を歩いていたあの時の自分を。


歩くことがただただ楽しいと思っていた六歳の自分がいた。


しかし、歩くのが楽しいのは何の障害もなく進めるものだけだ。


不自由なく行きたい方へ行けるものだけだ。


突然、そんな考えが頭に浮かんできた。


彼のように困難な道を行く者にとって、当てのない道はどれほど険しい道のりだろうか。


進むべき方角の分からぬ、暗く先の見えない道を手探りで進むのは、さぞかし孤独で不安だろうと思った。


未来。その一言が頭に浮かんだ。


だから僕は……。


「キース……」


僕は思わず声をかけていた。


僕の呼びかけに答えるように彼が目を開いた。そして、僕を見上げた。


その目には涙の雫が大きくたまって、一粒零れた。


「大丈夫だよ。僕がここにいる。傍にいる。だから、何も恐れることはない。本当だ。朝までここにいるよ」


彼は何も言わない。ただ黙って僕を見上げていた。


「夜の暗闇が去るまで。朝日が明日を連れてくるまで」


安心させるように頷いて見せる。


「君が次目覚めたときも、僕は変わらず側にいる。君が夢にうなされるような時には起こしてあげる。そして、そうなったらまた僕が寝かしつけてあげよう。優しい夢が、君に訪れるように。ね?」


彼が何事かを言うように口を動かした。


「さぁ、目を閉じるんだ」


僕は彼の流れ落ちた涙の痕を拭う。僕の指が濡れた。


「君が眠るまで、話をしよう。あぁ、それとも、子守歌にしようか?」


僕は戯れに言ってみた。そして、それがなんだかとても良い思い付きのような気がした。知らず笑いが僕の口から零れた。


「でも僕は、歌を聴くのは好きだけれど歌うのはあまり得意ではないから。やっぱり君はいらないかな」


そう言うと、彼がかすかに首を振った。


「分かった。子守唄なんて歌うのは初めてなんだ。もう随分前のことだから、うろ覚えで申し訳ないのだけれど。もしかしたら僕は君の眠るのを邪魔してしまうほど音痴かもしれない。それだったらごめんね。先に謝っておくよ」


キースが首を振る。


「他に何かしてほしいことは?」


再び彼が首を振る。


「遠慮はいらない。病人は特別待遇を受けるのが普通なんだ。何でも言ってみて。まぁ国立歌劇場で歌って欲しいとか、そういうのはちょっと難しいかもしれないけれど」


キースが少し笑った。


「大丈夫。誰も見ていない。この部屋は今、君と僕の二人だけだ。何でも言って良い。負い目だとか、身分の差だとか、もう僕らがいい年をした大人だからとか、そういうのは全部忘れて。ね?君が欲しいものはなんだい?君が今してほしいことは?教えて。そのために、僕は今ここにいるんだよ」


沈黙があった。長い沈黙が。


僕はキースを急かさなかった。


なぜなら、キースが逡巡していたから。静かに彼の言葉を待つ。


「手を……」

「手を?」


やっとそれだけ言うと、それきり彼は黙り込んだ。


彼がこれ以上何かを言うことはないだろうと僕には思われた。だから、僕は彼に手のひらを向けて見せた。ペンだこや剣を振るって皮膚が硬くなってしまった手のひらを。


「キースの手も見せて。僕の手を見せたんだから」


そう言うと、キースがおずおずとその手を差し出してきた。


躊躇いがちに、キースが手を布団の下から出して来たので、僕はその右手をそっと手にとる。


僕はそれを優しく握り込む。熱い手だった。


僕はその手をじっと見た。僕の手よりもずっと状態がひどかった。けれど、これがきっと彼らの普通なのだと思う。


僕が彼の手を離さないでずっと見ているからだろう、キースが横向きに体勢を変えた。彼の眼はそれでもじっと僕に注がれているのを感じる。


彼が恐る恐るという風に僕の手を握り返してきた。


僕はここでやっと気づく。手を握っていて欲しい。彼はそう言いたかったんだと。


「もう、怖くない。大丈夫。明日はやってくる。明日には風邪もだいぶよくなる。僕が保証するよ」


キースが頷く。


「だから、目を閉じて。良い夢を。君が怖い夢を見る時は、僕が起こしてあげるから。今は、ただ楽しいことだけを、風邪を治すことだけを考えるんだよ」

「はい」


僕は静かに歌いだした。子守唄を。誰もが知っている、なんの変哲もない子守歌を。最初は鼻歌を歌う風に。そして、曲の旋律をすっかり思い出したころ最初の歌詞を言葉にした。彼の手を握りしめながら。


キースがじっと僕を見ていた。僕が歌う様子をじっと見ていた。僕の拙い歌に耳を澄ませている。僕はその視線を痛いほど感じていた。


そして、しばらくして、穏やかな寝息が僕の耳に届いた。かすかに。


僕は今震えていた。


この夜、僕はただ一人、震える心を抱いて座っていた。


初めて、彼の心に触れたと思った。


時間は静かに流れていった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ