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第三話

 その日から男は老人の元へと毎日毎日通い続けた。

 一日に一回、老人に辛い記憶を渡し、代わりに幸せな記憶を得る。

 辛い記憶は渡せばそれで終わり。感慨も何も無かったが、幸せな記憶は別だ。

 幸せな記憶はずっと男の中に残り続けた。

 辛い記憶には事欠かなかった。何年も何年も男は虐げられて生きてきたのだ。山のように辛い記憶はある。そしてそれが幸せな記憶に変わっていく。

 男の生活は地獄のような様から一変して天国のような日々へと変わった。何せ辛い記憶が全て幸せな記憶に変わっていくのだ。幸せな記憶へと変化していく辛い記憶。不幸せであった数だけ男は幸せになる。

 絶世の美女を何度も抱いた。使い切れない札束に溺れた。一時代で大企業の社長になった。プロのスポーツ選手として世界で活躍した。武道館でライブも行った。プロの漫画家として兆を超える売り上げを作った。スーパーカーも持っているし、豪邸も買った。ブランドの服など一日毎に使い捨てる程、持っている。

 親が男の事を「誇りだ。自慢の息子だ」と語っていた。妻が「貴方と結婚して良かった」と毎日のように愛を囁く。子供が「お父さんが世界で一番凄い」と自慢していた。友人が「お前のような友人を持てる事が一番の幸せだ」と褒めそやす。

 幸せという幸せを享受した。こんなに幸せで良いのか、男はそう思った。

 だが、ある日の事だ。

「あんたはもう店に来る事は出来ない」

 突如として老人が男にそう言ったのだ。男はその唐突な拒絶を前にして激昂した。

「な……何で! 何でだよッ! まだ……まだ幸せになりたい! いつまでもいつまでも持ちきれない程の幸せで満たされて一生を暮らしていきたいんだ! だからそんな事を言わずに幸せな記憶を売ってくれ!」

「……売ってくれ、か」

 老人は相変わらずみすぼらしい外見のままだった。禿げかけた頭をボリボリと掻く。

「もうあんたは俺に対価である不幸な記憶を支払う事が出来ないんだ。だからあんたは店に来る事は出来ない。だって不幸な記憶があんたにはもう無いんだから」

「え……」

 男はその言葉に絶句した。

 そして不幸な記憶を思い出そうとして脳の中の記憶を覗く。

 ――――そうだ。元々、不幸せな人間だったんだ。一つくらい……まだ一つくらい『不幸な記憶』が残っている筈だ。

 しかし、

「ほーら……もうあんたは不幸な記憶を思い出せないだろう? 当然だ。あんたは不幸な記憶を全て俺に渡してしまったんだから」

「あ……あ、あ…………」

 老人の言う通りだった。記憶をどれだけ思い返しても出てくるのは幸せな記憶ばかりだった。不幸な記憶などどこを探してもなかった。

「だ、だったら!」

 男は考えに考え抜きとある結論に達した。

 そうだ! 不幸な記憶が無いのなら…………作れば良いじゃないか!

 そう――――長く勤めた会社を辞めれば良い。

 男はもう若くない。このご時世、この年齢で仕事を辞めればそれこそ不幸な事この上ない。大層な技術や資格など何も持っていないから、今会社を辞めればこの先はずっと不幸な人生だ。

「ま、待ってくれ! 分かった! 会社を辞める! 会社を辞めれば不幸だ! それを売るから頼む、幸せな記憶を――――」

「忘れたのか?」

 老人は男の言葉に奇怪な笑みを見せた。

「あんたはもう会社なんてとっくにクビになっているよ」

「…………は?」

 男は全く予想だにしなかった一言に素っ頓狂な声を上げた。

「だってあんたは際限無く不幸な記憶を差し出した。その中には会社でやってはいけない失敗をしてしまった記憶も含まれていた。分かるか? 失敗という経験はその後に成功へと生かされる。それさえも売ってしまったあんたは仕事でミスを連発した。経験を忘れてしまった耄碌社員などゴミに等しかったんだろうな。そうやってあんたは会社をクビになった。もっとも……あんたはクビになった記憶さえも『不幸な記憶』として差し出したからそれを忘れてしまっているのも当然だろうがな」

「…………」

 男は老人の言葉に手先が震えた。だが、それよりも男は幸福を欲した。

「じゃ、じゃあ……ッ」

「奥さんと別れる、そう言いだすつもりだろう」

「…………ッ」

 男は老人に次の言葉を言い当てられ、肺が押し潰されるようだった。

「もう奥さんとも別れているよ。子供も奥さんへ付いて行った。だって奥さんとの喧嘩の記憶や奥さんに言ってしまった失言も『不幸な記憶』として差し出すんだもの。家に帰ってから失言やらを連発したんだろうな。それに加えて会社をクビになったんだ。奥さんにとってあんたと暮らす意味はもう無かったんだろう。あんたが会社をクビになってすぐ奥さんには逃げられていた。それもあんたがくれた記憶で知った」

 老人はにやにやと笑みを浮かべる。

 男は段々と何が正解で何が間違いなのか分からなくなってきた。

 ならあの記憶は!? あの記憶も老人からの『貰い物』なのか!? あの記憶は!? あの記憶は、あれはあれはあれはあれはあれはあれはあれはあれはあれはあれあれあれあれあれあれあれあれあれあれあれあれあれあれあれあれあれあれあれあれあれあれあれあれあれあれあれあれあれあれあれあれあれあれあれあれあれあれあれあれあれあれあれあれあれあれあれあれあれあれあれあれあれあれあれあれあれ………………あれ?

「全部だよ。ぜんぶぜんぶぜんぶぜーんぶ――――もうあんたの記憶は何も無い」

 老人の声が耳に届いた。男はその声が聞こえないように声を張り上げて両耳を塞ぎ汚らしい家屋の床に突っ伏した。

「違う! 違う違う違うちがうちがつチガウぅううウウウウウウウ!! そんな筈はあああああああアアアアアアアアアアア!!」

 男は叫んだ。喉から血が出るまで、声が掻き消えるまで。音が出なくなろうが肺が無惨に潰れようが目から血が出ようが――――――男はずっと叫び続けた。

「違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違うチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウ――――――――――」

「――――――御仁」

 真っ暗な暗闇の中で老人の声がポツリと頭に響いた。

 男はその蜘蛛の糸よりも待ち侘びていた言葉に顔を上げる。

 そこには老人の優しげな顔があった。あの日、夜中の裏道で男へと手招きした時と同じような老人の姿がそこにはあった。

「御仁。あったよ、もう一つ。君に差し出せる『不幸な記憶』」

「……エ、ア、ウ……ホ、ホントウニ?」

 男は声にならない声で老人へと必死にしがみ付く。

「教えて欲しい?」

 男は老人の言葉に強く頷いた。目から涙が滂沱と溢れている。

「そう――――じゃあ『生きている記憶』を俺に渡せ」

「…………ヘ?」

「生きるという事は生物にとって何よりも抗いがたい『不幸な記憶』だよ。それをお前さんは俺に差し出せば良い。それであんたは幸せな記憶を貰える。そして死からも生からでさえあんたは解放され、永遠に幸せな記憶だけを感じて生きていられる……どうだい?」

 男は老人の言葉ににべもなく頷いた。それを最後に男は『幸せ』になった。



 男の『生きている記憶』を前にして老人はうっとりと微笑んでいた。乱杭歯を打ち鳴らしケタケタと笑っている。

 老人を包むボロ布の中には綺麗で透き通るような色合いの鎌が刃の先を光らせ、夜闇の中で輝きを放っていた。


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