第二話
「それで。幸せな記憶を貰うにはどうすれば良いんだ? まさかそれと同等の幸せな記憶を差し出せと言うのか?」
「ひっひ。御仁、半分当たりで半分間違いだ。同等の記憶を差し出して欲しいという所までは間違っていない。ただ、辛い記憶でも良いんだ」
「辛い記憶?」
「ああ。だからあんたに声をかけた。死にそうな顔したあんたなら辛い記憶なんて山程持っているだろ? そのどれかを俺にくれれば良い。そうすれば変わりに俺は幸せな記憶をあんたにやる。……どうだ?」
「……面白い」
男は単純にそう思った。
もしも催眠術の類にしろ、辛い記憶が消えてくれるならそれだけで万々歳だ。老人の話によれば金銭の要求は無いようだし、そもそもそんな大層な金額は持ち合わせていない。財布の紐は常に妻が握っているのだ。もしも法外な金額を要求されたら警察にでも駆け込めば良い。こんな販売許可さえ貰えないような店ならすぐに取り締まってくれるだろう。
つまるところ男にメリットがあれどもデメリットは無いのだ。乗らない手は無い。
「なら差し出して良い記憶を頭に思い浮かべてくれ。出来る限り強く念じるんだ。間違えるなよ? 間違えたら戻すのもまた一苦労だからな」
老人の言葉に男はまず高校生の頃の失恋を差し出す事を考えた。
……あれは酷かった。高校二年の夏の事。男はそれまで好きだったクラスメイトに告白した。そして次の日、男は裏で付きあっていたらしいその娘の彼氏にボコボコにされた。今でも夢に見る。痛みを覚え、涙を浮かべ、その目で見る想い人であった彼女の蔑んだ目とその彼氏の優越感でにやついた顔。二人がキスする瞬間など脳裏に焼き付いて離れない……。
生涯忘れられないと男はそう思っていた。
「……もう良いぞ。あんたのその辛い記憶は受け取った」
老人の声がおもむろに耳に入ってきた。
そして男は気付いた。
「……あれ?」
男は今の今まで考えていたであろう辛い記憶を綺麗サッパリ忘れていたのだ。
そもそも何が辛かったのかさえ思い出せない。さっきまでの記憶は本当に辛い記憶で間違いなかったのだろうか。
「ああ、間違いないな」
さっきまでの記憶について聞くと老人はそう答えてくれた。どうやら高校生の頃に告白し、玉砕した記憶であったらしいがてんで思い出せない。本当にそんな事があったのだろうか。
「じゃあ代わりに幸せな記憶をやるぞ」
老人は言った。男はその言葉を聞いて何となく目を瞑り、頭を空っぽにした。
すると、
「お、おおお!? おおおおおおお!!」
男は次の瞬間、多分生涯忘れる事が無いであろう記憶を持っていた。
何と男は高校生活の三年間、その学校で一番の美少女と付き合っていたのだ。制服で登下校もしたし、週末はデートに行った。皆が羨望の眼差しで男を見ていた。
その彼女とは残念ながら別れてしまったが、それでも楽しい記憶は持っている。それだけで幸せだった。
「どうだ? お前は今、幸せだろう」
老人の言葉に男は何度も頷いた。忘れた記憶は何であるかはもう覚えていないものの、それでもこの記憶に比べれば微々たるものであろう。男は欣喜雀躍を叫んだ。
「あんた! い、いや貴方様! 貴方様は神様だ! もっと! もっと幸せな記憶をくれ! 辛い記憶なんて幾らでも差し出すから!」
「ありがとう。そう言ってくれて嬉しいよ。しかし、慌てるな。少し落ち着け」
「はい!」
男は既に老人の虜だった。老人の言う事であれば何でも快く聞いてやろう、そう思った。
現に正座している様など熱心な宗教の信者と瓜二つだ。今、老人が「金が欲しい!」と言い出せば男は自身の出せる額ならば幾らでも出してしまうだろう。
ただし老人はお金など要求しなかった。
「悪いが、記憶の出し入れは一日に一度しか出来ないんだ。だからここへ毎日通って欲しい。それで辛い記憶を渡して欲しい。そうすれば俺はお前に幸せな記憶をやる」
「分かりました!」
それだけ聞くとさっきまでの死人のような足取りとは打って変わって飛ぶような足取りで男は帰路についた。
それを見て、老人は静かに乱杭歯を打ち鳴らし笑っていた。




