第一話
夜中。とある街路から外れた裏道を一人の男が歩いていた。
裏道とは言っても様々な店、特に居酒屋や隠れ家的なバーが立ち並んでいた。裏道には店内から伸びる光と共に賑やかな声が聞こえてくる。どの店からも陽気な声が聞こえ、客達が日々の疲れを忘れようと楽しんでいる。
そんな裏道を歩く男の足取りはいかんせんパッとしない。首は項垂れ、肩は重く、歩く姿はまるで死人のようだった。
男は日々に疲れていた。仕事、仕事に追われる毎日。仕事から帰ればいつしか夫の帰りを待ちわびる事の無くなった妻に無愛想な表情で睨まれ、子供の笑った顔は何年も見てなかった。男はどこに居ても一人のようだった。
男の居場所はいつのまにかどこからも無くなっていたのだ。
そんな日々に生きていれば人間誰しも死人のようにもなろう。
だが男はそれでも生きていた。
死んだところでそこに居場所は無い――――男はその事を知っていたから。
そんな中、男は一人の老人に声をかけられた。
「御仁、お疲れようだな」
どうしてだろう、気付けば男は立ち止まって老人の顔をまじまじと見ていた。
老人の服は乞食のように薄汚く、歯は汚らしい乱杭歯。声も地獄の釜から響いてきたような響きの悪いしわがれ声。そんな老人が男に向かって手招きをしていた。
普通ならば男はそんな怪しい老人の手招きなどに応じない。そもそも立ち止まる事さえしなかっただろう。しかし、男は吸い寄せられるように老人の手招きに応じ、彼の誘いに応じてしまったのだ。
老人は手招きをしながら徐々に裏道を奥へ奥へと進んでいく。老人の誘いに応じ、進んでいく内に居酒屋から聞こえてくる声が耳から遠ざかっていった。それはまるで現世からも遠ざかっていくように男には思えたが、それでも足は止まらなかった。
気付けば老人は一軒の今にも倒壊しそうな古びた家屋へと入っていく。男も続き家屋へと入っていった。
家屋の中は何やら訳の分からない雑貨や見た事も無い奇妙な人形や何に使うのかも定かでは無いオブジェのようなものがあって、簡単に言えば散らかってた。老人はその中の一角に座った。
男が繁々と老人を眺めていると、やがて老人は口を開いた。
「御仁。あんたはついているよ。らっきーだ」
「……ラッキー?」
男は老人の下手な発音の横文字を拾い上げ、繰り返す。
「そう。あんた、疲れているんだろう? 分かるよ。生きながらに死んだような目をして。まるで地獄で生きているかのようだ」
「……そう、見えるのか?」
男は酷い隈の出来た目を見開いた。自分が疲れている、という事を言い当てられた事よりも、下卑た老人にそんな事を言われたのが驚きだった。
「ひっひ……、当たりだろう。だが、もう一度言おう。あんたは――ついている。ここならばあんたのその疲れも癒す事が出来るだろう」
「癒す? ……どうやって?」
男は老人を訝しげに睨み付けた。
……新手の新興宗教の勧誘か。男は老人の言い草の裏をそう読み取っていた。
だが、最初から胡散臭い勧誘とは下手な奴も居たものだ。まあ上司との酒の席のネタくらいにはなるか、とそんな事を男は考えていた。
「ひっひ……。驚くなかれ、ここは『記憶』を取引している店なんだよ」
「……は? 記憶?」
次に老人の口から一体どんな宗教勧誘が飛び出すのかと思っていた男は、この老人の言葉に少々面食らってしまった。
「そうさ。ここではあんたが記憶を差し出す代わりに、俺が幸せな記憶を分けてやるんだ」
「…………」
最近の宗教勧誘は聞いた事の無いやり方を使うんだなあ……。男は少しばかり感心した。
記憶? 催眠術でも使う気だろうか。それならそれで……、と少しばかり男は興が乗っていた。
何と言っても最近のつまらない日常には飽き飽きしていたのだ。ここらで一つ、宗教勧誘を味わってみるのも良いのでは無かろうか。
もしかしたらマイナーな神を拝んでいれば少しは気が紛れるかも知れない。それに社会にも家庭にももううんざりだ。少しぐらい何かに溺れたところで誰が男を咎められよう、男は少しばかり自暴自棄になっていた。
「ほう。ではもう少し詳しい話を聞こうじゃないか」
だから男は老人の話にマトモに取り合ってみる事にした。一種のジョークのつもりだった。
「やはりあんたに声をかけて良かったよ」
老人はニカッと笑った。それが余りにも不気味で死神のように見えてしまった。




