想い出の地
三年教師をしてきて、病気でもないのに休暇を取ったのは初めてだ。婚約破棄と杏の
件があって、精神的に相当参っていた。このままの状況ではとても生徒の前に立つこと
は不可能なので、しばらく休みことにした。そして今後の行く末について冷静に考えて
みたいと思った。
懐かしい校舎。そして夢中で練習したテニスコート。原点に戻ればおのずと答えも出
るだろう、そんな淡い期待も込めて、智樹は昔通った高校にやってきていた。ここは綾
が亡くなって以来、智樹がずっと来るのを拒み続けてきた場所だ。
十二月中旬だというのに、昔と変わることなくテニス部員達は熱心に練習している。
顧問には昔お世話になった先生もいて、軽く挨拶を交わしたりした。智樹は練習の邪魔
にならぬようコート脇で見守っていた。時に冷たい北風が吹いてきて、背中を通り抜け
ていく。そして智樹は高校時代の自分自身を思い出した。
「ねえみんなで写真撮らない?きっと思い出になるに違いないから」
声の主は綾。綾はどこから持ってきたのか、セルフタイマー付のカメラを持っていた。
「ええっ、そんなの撮る必要あるの?卒業したって僕らまだ会えるじゃないか」
「そんなこと言っているからダメなんだよ。今を大事にしなきゃ。この一瞬を逃すと、
もう後戻りすることはできないんだからね」
綾の言っていることは正しかった。しかしまだ若かった智樹には、その感覚が理解で
きなかった。
「そんなものかね。でも綾がそんなこと言うの、珍しいね」
「そうかな?そんなに深い意味はないんだけど。まあいいじゃない、早く聡達を連れて
きてよ」
智樹は聡達に無理を言って来てもらい、総勢十人ほどで撮影した。まさかその写真が
思い出の一枚になるとは思ってもみなかった。
「さあみんな笑顔で、はいチーズ」
綾の合図でカメラに向かって、みんな思い思いのポーズを取る。けれども僕はあまり
乗り気でなかったこともあり、冴えない顔で写った。一方、隣の綾は今までに見たこと
もない透き通った笑顔で写った。
「みんなでここで写真が撮れて本当に最高だよ。もう悔いはないね」
なぜ綾がそんなことを言ったのかはわからない。けれどもそれは綾の未来を予兆する
言葉になってしまった。
その数日後、綾はこの世から去っていってしまった。不慮の事故だった。
智樹はあの時を思い出して、不覚にもテニス部の後輩の前で泣き出してしまった。
胸の奥から立ちこめきて、急に悲しくなったのだ。不思議そうに見つめる後輩達。しか
し智樹は彼等の視線を気にすることなく、わめき散らかした。この涙には智樹なりの理
由があった。
それは綾との決別を意味する涙。この思い出の場所で泣けるだけ泣いておいて、明日
から亡くなった綾のことをきっぱり記憶から消し去ってしまう。そうしなければいつま
でたっても綾のことを引きずったままで、沙織と杏に顔を合わさなくてはならない。そ
んな自己都合で、これからも二人を傷つけるわけにはいかない。整理をする意味合いが
あった。
涙腺に貯めるだけ貯めてあった涙を使い果たして、智樹はポケットの中から一枚の写
真を取り出した。それはあの時、綾と撮ったただ唯一のテニス部での写真。それを今焼
却炉へと持っていこうとしていた。
「もう七年になるのか」
「その声は?古沢先生?」
背後で聞き覚えのある声がした。振り返るとやはりテニス部顧問の古沢先生だった。
高校時代に大変お世話になった恩師である。
「テニスコートで泣いている先輩がいるからと聞いて、ここへ駆けつけたんだ。もしや
と思って来てみたら、やはりお前だった」
どうやら異常な風景を見た後輩の誰かが、古沢先生に報告したようだった。
「申し訳ありません、ご迷惑お掛けして」
「いやいやそれは別にいいんだよ。問題なのは平日のこの時間に、なぜお前がここにい
るのかということだ。確か君は今、高校で英語を教えているんだろう?」
古沢先生の指摘は最もだった。智樹は事情を話す。
「悩んでいることがありまして。それでついここへ寄ってみたくなったんです」
智樹は信頼している古沢先生に、これまであったことをすべて打ち明けた。先生は智
樹の長い話をちゃんと訊いてくれた。もっと早くここへ相談しに来れば良かった。話し
ておきながら智樹はそう感じた。




