バトル
智樹がしばらく休養を取ることになったというニュースは、学校中を駆け巡った。
婚約破棄で精神的に落ち込んでいるのだろうというのがもっぱらの噂だった。杏はそん
な事情を知っている唯一の生徒。しかしそんな杏も今回の出来事はさすがにショックだ
った。
「先生と何かあったの、杏?」
麻耶がさっそく杏に尋ねてきた。麻耶にとっても智樹はテニス部の顧問なので、関係
の深い人物である。
「いいや別に何もないんだけど。今の所思い当たる節がないんだ」
杏もどうして智樹が休養を取ることになったのか、はっきりと理由はわからなかった。
この前会った時、智樹は元気な様子であったので、まさかこんな事になるとは思って
もみなかった。
「とりあえず先生が元気に戻ってくるまで、私達テニス部はやるしかないわね」
「うん、そうだね」
そうは言ったものの、智樹のいない英語の時間は、まるで時計の針が止まっているよ
うだった。長く感じられる五十分間。他の科目の授業では何度も経験してきたことだけど、
まさか英語の授業でこんな気持ちになるとは思わなかった。それは他の生徒達も同じみ
たいで、ベテランの英語教師が授業を行っても気乗りしていないように見えた。
「やっと終わった。何か今日一日がとても長かった気がする」
杏がため息交じりで話と、麻耶も同調した。
「そうだね。それは私も一緒。何かずっと湿っぽい空気が流れていて、とても暑苦しい
の。加藤先生って爽やかな涼風みたいでしょう。それがないとメリハリがつかないんだ
よね」
「あっ、それいいたとえ」
麻耶が独特の表現で今日一日を振り返った。それは杏も同じだった。やはり智樹が不
在な学校は相当きつい。だから一日でも早く回復してもらって、戻ってもらいたかった。
放課後杏が自宅へ帰宅していると、突然誰かに呼び止められた。またメグミなのか。
恐る恐る後ろを振り返ってみた。しかし立っていたのは智樹の元婚約者である沙織さん
だった。なぜ彼女が杏の元に姿を現したのだろう。気が気でならなかった。
「相馬杏さんだよね。学校帰りに声掛けてごめんなさいね。今日はどうしてもあなたと
会って話しておきたいことがあったから、ここへ来たの。付き合ってくれるよね?」
沙織さんの声は甲高いのだが、どこか怒りも含まれているようだった。これから何を
言われるのかは想像がついた。恐らく智樹のことだろう。杏は覚悟を決めた。
「もちろんです、よろしくお願いします」
バトルは望むところだった。普通に戦っていては、沙織さんに勝ち目はない。
近くのファーストフード店へ移動して、沙織さんと二人きりで話をすることになった。
緊張はしているが、果たしてどんなボールを投げてくるのだろう。
「智樹がどうして高校を休養しているか、相馬さんご存知?」
いきなりストレートな質問であった。これに杏はこう答えた。
「いえ知らないです。なんせ今日知ったんで」
「そうなんだ。智樹は相馬さんには伝えなかったのね」
沙織さんは挑発的だった。もはや杏のことを年下の高校生だとは見ていなかった。
余裕があるように見えて、実際は余裕がないみたいだった。
「先生は大丈夫です。必ず戻ってきますから」
「それはどうかしら」
「どういうことですか?」
穏やかならぬ沙織さんの言葉に、杏は動揺した。
「私が生徒と本気で交際する気があるなら、教師を辞めるように伝えたの。だってそう
でしょう。教師と生徒の関係が曖昧になるようなことがあってはいけないから」
沙織さんの一言に、心がさらに揺さぶられた。杏と恋することが、先生の人生を奪っ
てしまうことになる。事の重大性に杏は気づかされた。
「智樹は志高くして教師になった、実際今でも生徒のみんなに分け隔てなく、ちゃんと
教えているでしょう。でも今回こんなことがあって、智樹は大ピンチに陥ってしまって
いる。それでもあなたは恋するとでもいうの?あなたもうまくいかないことは承知の上
でしょう。そうなのだから、あなたは早く身を引くべきよ」
沙織さんの言葉は重かった。さすが教師だけあって、説得力があった。
「苦しめてなんかいません。私はただ加藤先生にこちらを見てほしかったから。アピー
ルしたかったから、ああいう行動を取ったんです。そのことは加藤先生も理解してくれ
ていると信じています」
杏も引き下がらない。沙織さんは杏を睨みつけていた。
「あなたは私と智樹を婚約破棄に追い込んだのよ。何をしたかわかっているの?あなた
さえいなければ順調に結婚することが出来たのだから。本当はあなたの顔なんて見たく
もないのに……」
そう言うと、沙織さんは唇を噛んだ。杏はただ黙って前を見つめていた。智樹が休養
している理由はそんな訳があったのか。強気の杏もさすがに落胆した。智樹がもし高校
を辞めてしまうことになれば、杏だけでなく麻耶も含めた多くの生徒に迷惑をかけるこ
とになってしまう。ただ一人の好きだというエゴだけで、これ以上犠牲を大きくしたく
はなかった。杏も沙織さんと同様に、大きな悩みを抱え込むことになった。




