参 霊災
住居を移して一月。
桜の花は葉桜となり、澪も久遠の家の生活に馴染んでいた。
元々十年ほどを巫女の修行に費やしていた澪だったが、それは咲也も蓮司も一緒。自らの手を動かした方が早いと、使用人の数は最低限しかいない久遠の家は、澪にとって北條の家よりも過ごしやすい程であった。
「あら、蓮司さん」
書物を戻しに歩く回廊で偶然会った蓮司に笑顔で声をかける程には、慣れも出た。
「お久しぶりです。これから東へ?」
「あ、ああ」
初めて会った時の蓮司の従者らしからぬ態度は、咲也の言葉で理解した。幼い頃から主従として常に側にいた、いわば気心の知れた友人なのだと。人前でこそ取り繕えば、二人でいる際には逆に落ち着かないと言われ、そんなものかと納得する。
そして、それならばと澪も取り繕わないように願った。
始めは渋っていた蓮司だったが、咲也が面白がって笑いながらからかうものだから、なし崩しで口調も変化している。
「お館様に報告をね。やはり東は不穏だな」
「そう、ですか」
居をうつしてから霊災が起きないと感じていたが、実際には国の東側で霊災が頻発しているようだ。北條の家は東の領土にある。
「やはり東は負の気が色濃いのですね」
「あそこの土地は仕方がない。北條もよく抑えていると」
帝を含めて、東の地には国の政治的な機能が全て配置されている。国中で一番人の我欲が蠢く土地でもあるのだろう。
その中で、頭一つ抜きん出ているのが北條の家だ。政治的手腕だけで負の気を抑え込むのは、常人には難しい。
家族とは言い難い薄い絆ではあったが、離れればその手腕の凄まじさにも目が行く。澪は改めて父親を思い、そっと視線を下げた。視界の端に使用人の姿も見える。
「澪様、お館様がお呼びです」
すぐ参ります、と使用人の声に応えて蓮司に会釈をすれば、手に持っていた書物を取り上げられた。
「足止めしてしまいまして。こちら返却しておきます」
澪が両腕で抱えていた書物を軽々と片手で持つ蓮司に目を丸くして見上げれば、蓮司は冗談めかして片目を閉じた。
「長々と澪姫と二人で話をしていたなんて、お館様に無駄な妬心を抱かせてしまうからね」
その言い方が滑稽で、澪はくすりと笑みを浮かべた。
「旦那様、澪です」
からからと音を立てて障子を開ける。咲也は異国の文机に落としていた視線を上げてほ、と小さく息を吐いた。
「何かございましたか?」
「ああいや、足労をかけたな。ここでの暮らしはどうだ」
この一月、咲也とは義務的な会話ばかりだ。
笑顔の仮面を貼り付けて澪は答える。
「ええ、皆様大変良くしていただきまして、随分と馴染ませて頂きました」
まだ久遠の人間としては不慣れな部分もあるかと思いますが、と続ければ、咲也はそうか、と一言だけ返した。
「この婚儀の意図は、君は知っているだろうか」
「ええ。帝からの命で、霊災に備えよ、と」
今更それを問いかけるのか。咲也が何を考えているのかわからない。こんな意味のない会話を続けるのか。
咲也は視線を文机の上の書類に落とした。しばし何やら呟いていたが、改めて澪に視線を戻す。その眼には強い光があった。
「東の地だけでなく、南の地でも霊災が起きた。規模は中程度」
その言葉に息を呑む。東の地の霊災の対応で、他の者は疲弊していると聞く。残るは各家の当主か、子どもばかりだと。
「勅命が下ったが、私は『鎮め』だ。『清め』の君にも、共に来てほしい」
先程の契約結婚の意味はこう言うことか。澪は小さく唇を噛んだ。
霊災は確かに怖い。けれども、使命も契約も全てを放り出して逃げるような人間ではない。
「わかりました。出立は」
「明日早朝に」
無駄な会話は省く。霊災が広がる前に対応するのは、清めの巫女としても久遠の者としても当然の使命だ。
気を抜けば震えそうになる手をぐっと握りしめて、澪は咲也に大きく頷いた。




