第8章 進路
放課後の教室に、西日が長く伸びている。 机の上に置かれた一枚のプリント。「進路希望調査票」という無機質な文字が、今の私には鋭いナイフのように見えた。
(今度こそ、あそこに行くんだ……)
脳裏をよぎるのは、あの冬の記憶。合格発表の掲示板に、私の番号だけがぽっかりと抜け落ちていたあの絶望感。倍率は10倍を超えていたし偏差値だって全然足りなかったから落ちるのは当然だった。だけど、それなりの難関校に入った今でも、街中であの制服を見かけるたびに、すごく行きたかったなあってなる。慶應義塾大学。私にとってそこは、単なる大学ではない。過去の自分を救い出すための、たった一つの出口だった。
うちの学校に割り振られた指定校推薦の枠は、わずか3つ。評定平均は死守してきた。欠席もしていない。だけど、みんなが狙ってる、言わないだけで。
「……慶應か。お前らしいな」
不意に横から、低く掠れた声がした。心臓が跳ねる。見上げると、隣の席で不機嫌そうに髪をかき上げた花沢が、私の手元のプリントを盗み見ていた。
「な、なによ。勝手に見ないでよ」
「別に隠すことじゃねーだろ。小学校の時から狙ってたんだろ、そこ」
図星を突かれ、言葉に詰まる。花沢はそのまま、自分のプリントを乱暴に鞄に突っ込んだ。そこには迷いのない筆致で、『国立大学医学部』の文字。
「花沢くんは……やっぱり国立なんだ。……妹さんのこと、あるから?」
少しだけ踏み込んだ質問に、花沢の動きが一瞬止まった。彼は窓の外、遠くの空を見つめる。その横顔には、同い年とは思えないほどの色気と、それ以上に重い「覚悟」が滲んでいた。
「うちは私立に行かせる余裕ねーしな。それに……あいつの病気、俺が治すって決めたから。」
「あー、花沢くんとか? 意外と凄そう。……っていうか、絶対ヤバいよね」
別の女子が、声を弾ませて乗っかる。
「普段あんなに無口でストイックなのに、二人きりになったら……こう、強引に押し倒されたりとかしてさ」
「やだ、何それ! 想像しただけで熱くなるんだけど!」
女子たちの妄想は、アルコールランプの火よりも激しく燃え上がっていた。
私は、心臓がバクバクと暴れるのを感じながら、必死に試験管立てを磨いた。
(……夜の花沢くん?)
一度考えてしまうと、もう止まらない。
医学部を目指す彼の、あの鋭い眼差し。
もし、あの目が熱を帯びて、私だけを至近距離で見つめてきたら。
あの、大きな手が。私の……。
「……佐倉、何顔真っ赤にしてんだよ。のぼせたか?」
不意に、すぐ耳元で低い声がした。
飛び上がるほど驚いて振り返ると、いつの間にか花沢が私のすぐ後ろに立っていた。
科学室の喧騒が、一瞬遠のく。
彼の首筋から漂う、微かな汗の匂い。さっき女子たちが言っていた「豹変」という言葉が、呪文のように脳内でリフレインする。
「な、なんでもないわよ! 暑いだけよ、ここ!」
「ふーん。変な奴。……ほら、これ。お前の分だろ」
花沢は、私が洗い忘れていた蒸発皿を無造作に差し出してきた。
ぶっきらぼうに言い捨てて、彼は立ち上がる。
私の「憧れ」という動機が、急に子供っぽくて軽いものに思えて、私は小さく俯いた。だけど、花沢は教室を出る間際、振り返りもせずに呟いた。
「……動機なんて何でもいいんだよ。受かった奴が正義だ。お前は、そのまま必死に足掻いてろ。」
その言葉は、突き放しているようでいて、今の私にはどんな慰めよりも力強く響いた。多分花沢は普通に受かる実力がある。どうして?どうしてそんなになんでもできちゃうの?羨ましすぎるよ。




