今でもあなたのことを、信じています
「やっぱり、江口さんも……」
ソードに俺の過去を間接的に話したあの日のこと。
それを説明し終えると、宇奈月はそう呟いて視線を落とし虚空に向ける。
あまりしんみりさせるつもりはなかったので、軽い口調でフォローを入れておく。
「まあね。でも、俺には小説っていうある種の逃げ場みたいなものがあった分、まだましな部類だったとは思うけど」
「そう、かもしれませんね」
笑顔を返してくれたものの、その笑顔には心なしかいつもより覇気がない。
彼女の中ではまだ、過去の出来事を消化しきれていないのかもしれない。でも、それは俺の方から踏み込んでいい領域ではないだろう。いつか、あえかの方から話してくれるそのときがくるまでは。
――だけど。
「今じゃなくていい。だけどあえかも、もし何か吐き出したくなったら、俺でよければいつでも聞き役にくらいはなるから」
「――っ!」
これくらいは許されるだろう。俺が今何も言わなければ、もしかしたらあえかはいつか、俺じゃなく他のだれかに悩みを相談してしまうかもしれない。結果としてその誰かのほうが、あえかの気持ちをより深く理解し、あえかの心をきちんと救うことができるかもしれない。でも、俺はこれまでこの子に何度も世話になって、何度も救われてきた。たとえ俺の独りよがりでも、彼女の心の棘を抜く役目は、俺が果たしたい。
彼女は少し間をおいて、
「はいっ! ありがとうございます!」
今度は、いつもの調子で微笑んでくれた。
もちろんこれは俺の勝手な想像でしかないけれど、この笑顔は、彼女がいつか自分の過去を話してくれるということの伏線のように感じられた。
* * *
「さて、気を取り直して江口さん」
「な、なに?」
すっかりいつもの調子を取り戻し、いやむしろいつも以上に調子の良さそうな宇奈月が、テーブルを挟んで前かがみにずずいと迫ってくる。
俺は書く体勢にはこだわらないタイプなので今日はなんとなく食器類を片付けた後そのまま食事を並べていたリビングのテーブルで書いていたのだが……、その判断は英断だったと言わざるを得ない。ありがとう、ありがとう。
いやでも、俺だって男だ。こんなに無防備でいて、なにかあったらどうするつもりなのかと心配にもなる。
そんな俺の複雑な乙女心をよそに、あえかはその体制のまま続ける。
「ずばり、勝てそうなんですか?」
一気に俺の頭が冷静になる。いや嘘。少しだけ煩悩もある。が、あえかの質問は、俺がここまで、意図的にあまり意識しないようにしてきた事柄だった。勝ちを意識し過ぎれば、自分の作品の方向性をブレさせることになりかねないからだ。だから俺は、ただ楽しんで書くことを一番にして、この作品に取り組んできた。……とはいえ、全く考えなかったわけでもない。
「向こうがどんな内容の作品を書いてくるかわからない以上なんともいえないけど……現状から言えば、どちらかというと俺の方が有利なんじゃないかなと思ってはいるよ」
「おお。強気とも取れる発言ですが、是非ともその理由をお聞かせ願えますか?」
手をマイクに見立てて、インタビュアー風に尋ねてくる。
……危ないあぶない。伸ばした腕のせいでより強調される胸に、危うく意識を持っていかれるところだった。
そんな心情を悟られないよう、努めて平静を装いつつ答える。
「ほら、白之は今、刊行中のシリーズものも平行して書いてるだろ?」
「そうですね。確か最新刊は今日発売だったはずです……あっ」
「そう。てことは、少なくとも白之は最近まで、そっちの原稿にかかりきりだったはずなんだよ」
「白之さんは、今回の短編企画に割ける時間はそう多くなかった」
「そういうこと。まあ、ちょっとフェアじゃない気もするけど、勝負を受けてもらえた以上、そんなところにこっちが気を回すのは野暮ってもんだろうしな」
「シリーズの原稿と平行とはいえ、文字数に制限だってありますし、白之さんもさすがに完成させられないってほど時間が足りないってことはないはずですよね」
「そうだな。限られた文字数で競うこの短編企画だからこそ、白之も勝負を受けてくれたんだろうし――」
と、ここまで所感を語ったところで、俺は何か見落としているような、奥歯に物が詰まったような釈然としない違和感に襲われた。
今回の短編企画には確かに、文字数に制限がある。その数2万文字。
この短編における物語はその2万文字を最大限に活用して展開させ、そしてその中で完結していなければならない。そのはずだ。
……だが、一つだけ……。一つだけ、その制限を超えて、物語を展開する方法がある。
(いや、だけど、あり得るのか? 確かに短編企画から白之の刊行するシリーズの最新刊発売である今日まで、3週間ほど猶予はあった。けど、締め切り自体はもっと前だったはずだし、俺の考えているような調整を行う時間なんてほぼなかったはず――。いや、今の白之には、ソードがいる。彼女が白之を手伝ってるなら、あるいは……。いや、だけど、そんなことをしたら、白之の作品は……)
俺は、その疑問を確かめずにはいられなかった。スマホを手に取り、ツイッターを起動する。今日発売なら、フラゲした人たちが感想などを既にSNSなどに投稿している頃だ。
焦燥に突き動かされるように『魔法は誰も幸せにしない』をワード検索して――。果たしてそこには、俺の危惧していた通りの反響が寄せられていた。
とはいえ、やはりネタバレになってしまうため、その詳細にまで触れられているツイートは少ない。と、なると……
「あえか、ちょっと本屋に行かないか?」
「え、はい。いいですけど……どうしたんです?」
「『魔法は誰も幸せにしない』の最新刊を買いに行きたいんだ」
「えっ、今からですか?」
「どうしても、確かめたいことがあるんだ」
「……わかりました」
俺とあえかは、急いで家を出て、バイト先でもある駅前の本屋を訪れ、目当ての本を二冊買って、帰る時間も惜しんで駅前のファーストフード店でその小説を読んだ。そして、そのラストの展開を目にした時。
「ええっ!? これってまさか……」
「ああ……。やっぱり、思ったとおりだった」
あえかは驚きのあまり言葉を失い、俺は空笑いを浮かべるしかなかった。
「これは、やられたとしか言いようがないな……」
* * *
「なっ……!?」
暫く紙をめくる音だけが続いていた白之の書斎に、私の声が響く。
「どうしたんだい、ソードたん。ほら、感想を聞かせてよ」
「こ……こんなことが、許されるのですか!?」
私は気づけば、今読み終えたばかりの小説の著者、白之絵巻に対して叫んでいた。しかし彼は、愉快そうに口の端を釣り上げて笑っている。
「ええー? なんのことかな?」
「とぼけないでください! この最新刊のラスト……これまでハイ・ファンタジーを貫いてきた先生の作品が、その主人公が、どうしていきなりこっちの世界に舞台を移したんですか!?」
そう。彼の作品はこれまで、総曲輪庵やシエロといったハイ・ファンタジーを主流とする作家に影響を受けただけあって、同じくハイ・ファンタジーを貫いていた。それがここにきて、いきなりの鞍替え。これは明らかに……。
「これは明らかに、短編企画に繋げるための展開ですよね!?」
もはや従順を装うことすら忘れてしまっていた。だがもうそんなことはいい。この男の真意を問いただすことが先決だ。そんなことはないと言うならいい。たまたまこのタイミングで鞍替えを行っただけということであれば、いいのだ。だが彼は、そんな私の切望を意にも介さず、こともなげに言う。
「うん、そうだけど?」
「なっ……そ、そんなことをして、恥ずかしくないのですか!? 少なくとも江口殿は、新作をぶつけてくるでしょう。そこに、こんな既得権益を武器に不意打ちを行うような真似をして、たとえ勝ったとしても、あなたはそれで嬉しいのですか!? 読者の方たちにも、こんな目的のためにいきなり展開を変えられて、本当についてきてもらえるとお思いですか!?」
そうだ。これは紛れもなく、既得権益を振りかざす、真剣勝負に泥を塗る行為に他ならない。
それだけではない。これまでハイ・ファンタジーを読むためについてきてくれた読者を、利己的な願望のために裏切るに等しい行為でもあるはずだ。
しかし、そんな私の言葉も柳に風。飄々とした口調で笑みすら浮かべて、彼は答える。
「こんなことをしてまで勝って、嬉しいかって? もちろん嬉しいとも! そもそも、オリジナル作品に限るなんて条項はなかったしね。これは明らかに、主催者側のミスだ。責められるべきは僕じゃなく主催者側なのさ。それに、読者のみんなだって、劇的な展開を望んでる。現に江口先生だって、あれだけのハイ・ファンタジーを書いておきながら徐々に尻すぼんでいったんだよ? ……そうさ、僕は彼と同じ轍は踏まない。人気のためなら、シエロ先生に勝てるなら、多少作風がぶれたって僕は一向にかまわないんだよ」
それに――、と彼は一呼吸置いて、トーンを少し落としてこう続けた。
「総曲輪さんを引退させた才能を僕が叩き潰せば、もう一度あの人が筆を取ってくれるかもしれないんだから」
私には、その言葉の意味は分からなかった。依然として口ぶりはどこか飄々としている。
……だが、そう言う彼の目が、ここではない、どこか遠くを見ているように――寂しげに、憂いを湛えているように感じたのは、私の錯覚だったのだろうか。
だが彼は、そんな雰囲気を消し飛ばすように、皮肉めいた口調でこう続けた。
「いやあ、ソードたんも協力ありがとう。ソードたんが監修してくれなかったら、とてもあのタイミングからの改稿なんて間に合わなかったよ」
「っ!!」
そうだ、私はこの男を、監修役として手伝ってしまってすらいる。
「さてさて、江口さんはこの僕たちの愛の結晶に、どんな作品で応えてくれるのかな?」
普通に考えれば、彼に勝ち目なんてほぼ無いはずだ。現在刊行中のシリーズについてくれている白之の読者をも唸らせ、そしてその文字数の制限を無視したバックボーンをも超える世界を描かなければ、到底勝ち目なんてない。
……たけど私は、願っていた。信じていた。
それでも、と。
確かに私の行なった監修は、ある面では白之を助け、彼を苦しめる結果になったかもしれない。だけど。
だけどそれでも、私の思いが伝わってくれれれば。そうすれば、彼ならきっと――
* * *
「まずい、ですかね」
「そうだな。少なくとも、さっき言ったことは取り消すよ。俺は、まったく有利なんかじゃなかった」
俺にはなく、白之にあるもの。それは、現行のシリーズ作品の有無。俺はつい数時間前までそれを、この短編企画において、短編に費やせる時間の関係上、白之よりも自分に分がある違いだと考えていた。だが、白之はそれを逆に利用して、文字数の限りという縛りを、自身の現行シリーズとリンクさせるという形で取り払い、本来の文字数では到底表現しきれなかったはずのバックボーンを無理やり付与したのだ。
「こればっかりは、俺の考えが甘かった。白之は、俺の宣戦布告を受けた時点で、この構想を練って、勝てると確信したんだろう。ああもあっさりと勝負に乗ってくれた時点で、考慮すべき点だった」
「でも、こんなことをして、白之さんは今後この作品をどうしていくつもりなんでしょう」
「……」
そう。白之の現行作品である〈魔法は誰も幸せにしない〉は、ごりごりのハイ・ファンタジー。それをいきなり現実世界に舞台変更なんて、どう考えても長続きするとは思えない。極端な例だが、指輪物語を読んでいたらいきなりフロドが現代日本に転生してしまったようなものだ。そんなもの、二次創作ならまだしも、本編の既存の読者に認められるわけがない。だが、今回1回くらいなら……。そのあまりに突拍子もない鞍替えに、既存の読者も興味という名の蜜に結い寄せられてしまう可能性が高い。その続きが今回の短編企画で描かれるとなれば、その話題性は計り知れないだろう。
あまりにリスキーなそんな行いに今回の勝負のためだけに打って出るなど馬鹿げていすぎて考慮すらしなかったが、そこが俺の誤算だった。白之は今回の勝負に、作家生命をすら賭けているということになる。
方や彼は現時点で人気作家で、方や俺は鳴かず飛ばずの落ちぶれ作家だ。正直俺は、今回の勝負において、白之には油断のようなものがあるとさえ思っていた。だが、それは間違いだった。彼はこの勝負に、俺以上の覚悟をもって臨んでいる。
だけど――。
白之の作品を読んで、俺はそのこととは別に、もうひとつ気付いたことがあった。
俺はそれに気付いた瞬間、体から熱い思いがこみ上げて来るのを感じた。
「それでも、俺が書くのをやめる理由にはならないよな」
「え?」
俺は、あの日ソードに向けられた真っ直ぐな目を思い出しながら、そう呟いた。
そして勢いよく立ち上がり、
「ごめんあえか、明日から俺、またしばらくバイト休むから! 今日は本当にありがとう!」
「え? え?」
疑問符を浮かべまくるあえかを半ば置き去りにして、俺は帰路を急いだ。「ちょっとー!?」という叫び声が背後から聞こえるが、今は振り返っている余裕なんてない。それほどの感情に、俺は突き動かされていた。
慣れない全力疾走で体が熱い。しかし、それ以上に、胸の辺りが熱くなっている。
(早く、書きたい――!)
その思いが、この上なく高まっている。
どんな策を弄されようと、どちらにせよ勝ち負けや読者の反応を気にするような器用な真似は俺にはできない。
そのことを、俺は最近ようやく理解した。だったら、俺は俺の書きたい物語を書く。俺にはそれしかないのだから。
それなら、せめてこの熱さが消えてしまわないうちに、精一杯楽しんでやる。
精一杯楽しみながら、自分が思う、最高の物語を書いてやる。
白之の小説――。その最新巻には、ソードの手による監修の色がいくつかみてとれた。やはり彼女は、白之を手伝っていたのだ。だが、それは多分、白之のためではない。何故なら――
『ドラゴンは、とても厳格で生真面目な性格である』
『スライムは最下級のモンスターである』
『竜は驚くほど綺麗な声を持つ』
『時間停止魔法も、転移魔法も、治癒魔法も、非常に便利な代物である』
何故ならその内容は全て、俺に教えてくれた彼女の世界の本当の姿とは、真逆の内容だったから。
ソードが本当に白之のことを本物の大魔道師だと信じているなら、どうしてこんな嘘をつく必要がある? そもそも、俺に教えた情報ばかりをこれでもかと盛り込んでいるあたり、そこには俺に対するなんらかのメッセージがあると考えるのが自然だ。
ソードは恐らく、俺にこう伝えてくれている。
『私は今でもあなたのことを、信じています――』
走り続けて三半規管が狂い始める中、不意に、彼女の声が届いた気がした。
俺は汗なのか涙なのかもわからないものをぬぐって、走り続けた。
彼女を取り戻すため。そして、彼女に見せても恥ずかしくないような物語を、誰よりも楽しみながら書くために。