第1話 おい、うんこ野郎ッ!
「おい、うんこ野郎ッ!」
背後から声が聞こえたため、私は足を止めて振り返った。
論ずるまでも無いことだが、私の名前はうんこ野郎ではない。正確にはエリアス・フォン・ブリリアン三世という名前だ。
しかしながら、一部の人間が私を呼ぶ際にうんこ野郎という呼称を好んで用いることは認識している。
こういう場合、足を止めて振り返ることが正しい反応だと経験上知っているので、私はその知識に従うことにした。
廊下の中央には20代半ばの男が立っていた。
赤銅色の髪の毛は肩に少しかかるくらい。きちんと手入れをしているらしく、シャンデリアの光を艶やかに反射している。虹彩の色は蜂蜜のような黄金色だ。
身にまとう赤マント――近衛騎士団に所属していることも合わせると、眼前に立っている男は、事あるごとに私に絡んでくる男と同一人物のようだった。
名前は何度か聞いたことがあるはずだが……残念ながら、どうでもいいことに割く頭の余地はない。
「はい、どうされましたか?」
「……どうされましたか、だと? ふざけているのか貴様はッ!!」
肌が震えるほどの声で某は言った。どうやら、激怒しているらしい。
私には怒りという感情がよく分からない。しかし、怒っている相手にどのように対応すればいいかも経験上知っていた。
「何か私に不手際があったようで……まずは謝罪いたします。よろしければ、詳しくお聞きしても?」
「修練場のトイレについてだッ!」
某は顔を真っ赤に染めている。わなわなと震える拳を眼前で握りしめると、その拳の内から金色の光が漏れ出した。
修練場のトイレ、と言われて私は記憶を探った。たしか……少なくともここ10年弱は、あのトイレに手を加えていなかったはずだ。
当時最新式の水洗式トイレを設置したものの、修練場で展開される攻撃術式と水洗術式が干渉し爆発。修練場は糞尿まみれになった。
あの事故をきっかけに水洗術式と妨害術式を併用するようになり、結果として大気の魔力量に関わらずトイレが安定して駆動するようになったのだが……。
騎士団長に感謝を伝え、お礼に私たちの総力を以って新たなトイレを設置することを申し出たところ、なぜか非常に立腹されてしまい、糞尿処理科は修練場を立ち入り禁止になってしまった。
以来、誠に残念なことであるが私はあのトイレを放置している。
ボットン式トイレなどという原始時代の遺物が、未だ王宮に存在していることは甚だ不本意ではあるが、近衛騎士団長に逆らうことは権限上難しい。
当時、少なくとも数十回は国王陛下に抗議の直訴状をお送りしたが、結局聞き入れられることはなかった。
仕方がないので、修練場のトイレについては考えないようにしてきたわけだが……。
「修練場のトイレがどうかしたのですかな?」
「貴様ッ――」
某が瞳を黄金色に輝かせながら近づいてきた。
私の胸倉を掴み、持ち上げる。
「しらばっくれるつもりか!!」
布地で首が閉まるが、筋骨に強化術式を付与すれば特段問題はない。
そんなことよりも……このような場合、どのように対応するのが正解なのだろうか?
胸倉を掴まれることには慣れている。これは怒りを表明する行動だ。
相手が怒っている場合、大抵はなにかしら心当たりがある。それに関して謝罪をすれば万事解決する、のだが……今回は全く心当たりがない。
ふむ、困った。
考えてもどうすればいいか分からない時、私は状況を観察することにしている。即ち、私は胸倉を掴まれたまま、某の顔を無言で見下ろすことにした。
「貴様……なんだ、その反抗的な目はッ!!」
「ライアン」
そこへ、若い声が割り込んできた。ふと見ると、某の背後10メートルほど先に、いつの間にか数人の集団がいる。
どうやら、先頭に立っている男が声をかけてきたらしい。某と同じ年頃だ。どこかで見覚えはある気もするが……誰であったか?
私の疑問には某が答えてくれた。
「クラウス殿下!」
某は目を見開きながら男の名を呼ぶと、慌てた様子で私の胸倉から手を放し跪礼をした。私も無難にそれに倣っておく。
「ライアン、いつも言っているであろう。私とお前の仲でそのような堅苦しい作法は不要だと」
殿下は某と何度か言葉を交わすと、こちらへ燃えるような赤い瞳を向けてきた。
「して、ライアン。そこの者と何かあったのか?」
某は嫌悪のにじむ目で私を見ると、吐き捨てるように言った。
「いえ、何でもありません」
「そんなことは無いであろう。見慣れぬ者だが……貴公、名を何と言う?」
「お声がけいただき光栄です。エリアス・フォン・ブリリアン三世と申します」
「ブリリアン……」
口元で呟いた殿下は、私の家名に聞き覚えがあるようだった。顔を不快気に歪めて、手の甲で空気を払う仕草をすると鼻の詰まったような声で続けた。
「……さっさと消えろ。匂いが付いてはかなわぬ」
――
私の職場――糞尿処理科の研究室は王宮の端に設置されている。取り扱う試料の物質的、社会的特性のため、高貴な方々の近くに置くには憚られるためだ。
こちらとしても高貴な方々に憚らず実験をできる環境は願ったりなのだが、会議などは王宮の中心部で開かれるため、その移動に要する時間が無駄になる点は不満の1つだ。
というよりも、会議そのものが無駄だ。私は暇ではない。ここ数ヶ月は下水処理施設の設計にかかりきりで全く眠っていないくらいなのだ。
疲労は回復術式でなんとかできるが、失われた時間は戻ってこない。伝説には時間術式なるものがあるらしいが……。
などと、益体もないことを考えながら廊下を歩いていると、研究室の扉が見えてきた。
いや、正確に言うならば扉は見えていない。扉が破壊されており、研究室の内部が見えている。
研究室の中に踏み入ると、泥棒に家探しされた後のように室内が荒れていた。
ガラス製の実験器具のいくつかは割れて床の上に散乱しており、薬品と試料の混じった濃厚な香りが室内を満たしている。
「科長!!」
呼びかけられた方に目を向けると、2つの人型が並んでいた。
全身が茶色く染まっている。
我が糞尿処理科には私の他に3人所属しているので、そのうちの2人だろう。
「実験に失敗でもしたのですか?」
「いえ、少し前に近衛騎士団のやつらが来て……あいつら、私たちの話も聞かずに……!!」
小柄なツインテールがわなわな震えながら言うと、周囲に火花が散り始めた。
名札に便が付いていて確証は持てないが、背格好と火花から判断するに、こちらがセラ・エーデルワイス女史だろう。
「可燃性の物質が多くあるので、火の取り扱いには注意してください」
「あ、すみません」
セラ君は両手に持っていた雑紙の束を机の上に置くと、改めて両拳を握りしめて続けた。
「あいつら突然やってきて、爆発がどうのこうの! 知らないって言ってるのに、こんな滅茶苦茶にして! ぜぇったいに、後で賠償してもらうんだから!!」
「セラ、休んでないで手を動かしてよ」
机を布で拭っていた大柄な短髪が、セラ君の頭を手の甲で小突いた。
「あたっ! ちょっと、髪が汚れるでしょ!」
「どうせもう汚れてるから、これくらい誤差だよ」
こちらも名札が便で汚れていて確証が持てないが、背格好とセラ君への態度から判断するにウルフ・ノーマン氏なのだろう。
ウルフ君はセラ君と少し言い合ってから私へ目を向けた。
「科長も片付け、手伝ってください」
――
実験中に爆発は時折起こるので、片付けには慣れている。
数刻で原状回復を終えたころにはちょうどティータイムの時刻であったので、屋外のテーブルで今回の事案について話し合うことにした。
「なるほど。修練場のトイレが突然爆発し、以前の事故との関連が疑われていると」
「は、はい……襲撃は一部の団員が暴走して行ったとのことです」
控え目な口調でこたえたのは、桃色の髪を肩口で切り揃えた女性――フェルト・サーレ女史である。
彼女は近衛騎士団に連行されていたらしく、少し前に帰ってきた。
フェルト君は栗鼠を彷彿とさせる動きでポケットをまさぐりながら、
「それで、あの、騎士団長から賠償金を受け取っていて」
コトリ、と。
机に置かれたのは、1枚の銅貨だった。
「は?」
セラ君の冷たい声に、フェルト君が小さな肩をさらに縮めた。
「賠償金って、は? 馬鹿にしてるの!?」
「馬鹿にしてるんだと思うよ」
真っ赤な髪を熱く輝かせ始めたセラ君の隣で、ウルフ君は眠そうな顔で紅茶を啜っている。
「ところで、科長。実際のところ、科長は今回の件には関わっていないんですか? 最近は毎日泊まっていたみたいだし、僕らの知らないうちに何かしていたりは?」
ウルフ君の問いかけに、赤色と桃色の瞳が注がれる。
眉毛の角度から判断するに、私のことを疑っているらしい。
「それは悪魔の証明というものですよ。私がしたという証拠がない限り、推定無罪となるべきでしょう」
「それが道理ですが、道理の通じない人たちに道理を説いても無駄ですよ。やっていないって証明できなければ、僕らのせいにされちゃいます」
たしかに、ウルフ君の言う通りではある。嘆かわしいことではあるが、王宮では道理よりも権力が幅を利かせている。
紅茶を手に持ち、薄く雲のかかった空へ目を向ける。
爆発が起きたというのなら原因があるはず。それを解き明かし、私たちと無関係だと証明できれば身の潔白が示される。
爆発の原因。以前は術式の干渉が原因だった。誰かがトイレで術式を展開していた? いや、あれは自動展開型術式の弊害で生体による術式で――あるいは魔道具――錬金術的原因の可能性もあるが――かちょう――ケルン学院の研究で――かちょう!――
「科長!!」
セラ君が私の顔をのぞき込んでいる。髪とグラデーションになるように空が赤く染まっているのが見えた。
「どうしましたか?」
「……もうっ。暗くなってきたので、室内に戻りますよ」
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