第8話:神様との同居生活と、職場の二大美女に挟まれるランチ
目を覚ますと、そこにはいつも見慣れた天井があった。だが、その天井と俺の距離は、以前よりもずいぶんと遠くなっている。
俺と神菜の奇妙な同居生活が始まってから、早くも一ヶ月が経過していた。
「美少女と同棲」と聞けば響きはいいが、特別なドキドキ感なんて微塵もない。なにせ、俺も彼女も(ブラック企業とブラック神界のせいで)一日の大半を外で過ごしているのだから。
毎晩、寝る時間になるたびに俺は究極の選択を迫られる。
美少女の隣で寝るか、それとも冷たいフローリングの床で寝るか。
結局のところ、俺はいつもチキンな心を発揮して、床を選択してしまうのだ。
もし俺が先にベッドを占領しようものなら、神菜は一切の躊躇なく横に潜り込んでくる。そうなれば、俺の心臓は一晩中早鐘を打ち続け、一睡もできずに朝を迎えるハメになるからだ。
どうやら、実年齢数百歳(推定)のババア……いや、神様にとっては、若い男と同じベッドで寝るなんて些細な問題らしい。
不幸中の幸いなのは、神菜が魔法を使ってベッド周辺のゴミだけは綺麗に片付けてくれたことだ。おかげで俺は、ベッドのすぐ横に清潔なスペースを確保することができた。
俺はその空きスペースに、長年押入れの肥やしになっていた寝袋を敷いて寝泊まりしている。
思い返せばこの寝袋、大学を卒業して新社会人になった頃、「週末はソロキャンプで充実した社会人ライフを送るぞ!」と意気込んで買ったものだ。
しかし現実はどうだ? 今や俺の週末は、平日の睡眠負債を返済するための『泥寝』か、『休日出勤』に完全に支配されている。今こうして自室での避難生活に使われていると思うと、なんとも皮肉な話だ。
俺はミノムシのように寝袋から這い出した。ベッドの上に、すでに神菜の姿はなかった。
『出勤するわ』
ちゃぶ台に置かれたガラケーには、彼女からの短いメッセージだけが残されていた。
送信時間は午前4時。相変わらずの早朝出勤だ。
神界株式会社の始業時間はそんなに早いのだろうか? それとも、ただ単に彼女の労働時間がバグっているだけなのか。
そんなブラックな想像を巡らせながら、俺は手早く洗顔と身支度を済ませ、自宅を後にした。
「ふぅ……」
午前の業務が一段落し、俺は自席のオフィスチェアに深く背中を預けた。
モニターの右下にある時計に目をやると、昼休みまであと10分というところだ。
右隣の席を見ると、橘先輩も午前のタスクを終えたらしく、コーヒーを優雅に飲んで一息ついていた。
そういえば、先輩はいつもお弁当を持参せず、社員食堂でランチを済ませているはずだ。
『普段、私に連絡したり祈りを捧げたりする時は、その端末を使いなさい』
ふと、同居初日に神菜が言っていた言葉が脳裏をよぎった。
(アイツ、一応あれが本業なんだし。別に俺の私利私欲じゃなくて、アイツのノルマ達成のために祈ってやるんだからな……)
俺はそんな見え透いた言い訳を心の中で並べ立てながら、コソコソとカバンからガラケーを取り出した。
『今日、橘先輩と一緒にランチに行けますように』
キーパッドを打ち込み、送信ボタンを押す。
「あははっ! 日向先輩、一体どこの骨董品屋でそんな化石みたいなガラケー拾ってきたんですか?」
不意に左側から声がして、後輩の三浦美咲が俺の手元を覗き込もうと身を乗り出してきた。
ヤバい!
俺は慌ててガラケーをパタンと閉じた。もし今の「先輩とランチに行きたい」なんていうキモい祈りを見られたら、社会的に殺されてしまう!
「こ、これか? これはネットのオークションで落としたんだよ。俺、こういうレトロなガジェットを集めるのが趣味でさ」
俺は必死に早口で言い訳を並べた。
「ふぅーん……? 私はてっきり、先輩は二次元の美少女が引けるソシャゲにしか興味がないのかと思ってましたけど」
三浦はジト目で俺を見つめ、明らかに俺の苦しい言い訳を疑っている様子だった。しかし、俺がそれ以上秘密を共有する気がないと悟ると、空気を読んでスッと自分の席に戻っていった。
そういえば、三浦は他人の嘘や隠し事を見抜くのが異常に上手い。だからこそ、チーム内のムードメーカーとして絶妙な立ち回りができるのだろう。
とはいえ、「実はこのガラケー、神様と直通のホットラインになってまして……」なんて超常現象を打ち明けるわけにもいかない。今度、スタバの新作フラペチーノでも奢って誤魔化すしかないな。
俺は小さく安堵の息を吐き、再びガラケーをこっそり開いた。
神菜からの返信はない。しかし、俺の送ったメッセージの横には、しっかりと『既読』の文字がついていた。
――出たよ、伝家の宝刀『既読スルー』。
「おい、せめてスタンプの一つくらい返してくれよ……」
心の中で悪態をついていると。
「『マク○ナルド案件』のプロジェクトチーム、ちょっと集まってくれ。今日の昼、みんなでランチミーティングに行くぞ」
昼休みのチャイムが鳴った瞬間、クソ上司が立ち上がり、フロアに響き渡る声で号令をかけた。
「あ、はい」
橘先輩は短く返事をすると、上司のデスクの方へ小走りで向かっていった。
(……おいおいおい!)
やっぱりあのポンコツ神様、ただの役立たずじゃないか! 俺のベッドを不法占拠して、偉そうにデカい顔をしているくせに、いざという時には何の役にも立たない! 俺の腹の底からフツフツと怒りが湧き上がってきた。
俺は親指に怒りを込め、ガラケーのキーを強く押し込んだ。
『せめて、先輩をランチに誘うチャンスだけでもくれよ!』
送信後、すぐに『既読』のマークがついた。
そして今回は珍しく、数秒後に神菜からの返信が届いたのだ。
『申請を受理。現在、周囲の環境を調整中』
……周囲の環境を調整? なんだか嫌な予感しかしないフレーズだ。
その直後だった。
『プルルルルッ!』
フロアに上司の社用スマホの着信音が鳴り響いた。上司は電話に出て二、三言厳しい顔で言葉を交わすと、舌打ちをして声を張り上げた。
「悪い、みんな! クライアントから緊急のオンライン会議が入った。今日のランチは急遽キャンセルだ。各自で取ってくれ」
上司の周りに集まっていたチームのメンバーたちは、表向きは「お疲れ様です」と神妙に頷きながら解散していった。
だが、俺には分かる。彼らの心の中では、サンバのパレードが開催されているはずだ。高級フレンチでも奢ってくれるならともかく、気詰まりな上司とのランチミーティングなんて、誰が好んで行きたいものか。
「……じゃあ、私は一人で社食に行ってこようかな」
橘先輩は自席に戻ってくると、少し手持ち無沙汰に、苦笑いしながらそう呟いた。
(ナイスだ、神菜! 最高のアシストだぞ!!)
俺は心の中でガッツポーズを決めた。
「あの、先輩! もしよかったら、俺と……」
よし、今度こそあのセリフを言う時だ! 俺が意を決して口を開きかけた、その瞬間――。
「あっ、じゃあ私も先輩と一緒に行っていいですかぁ? 今日から使えるお得なクーポンがあるんですよ~♪」
どこからともなく湧いて出た三浦が、橘先輩の腕にスッと絡みついた。そして、先輩の死角から俺に向かって『アッカンベー』と露骨な挑発の顔を作ってみせた。
(…………ッッ!!)
俺は心の中で膝から崩れ落ち、血の涙を流した。
神菜、お前……!
「環境を調整」って、これ、俺のアシストじゃなくて三浦のアシストになってるじゃないか! なにが神様だ、ただのポンコツ乱数調整機じゃないか!!
どうやらこの小悪魔は、俺が橘先輩を誘おうとしている空気を完全に読み取り、さっき「ガラケーの秘密」を教えてもらえなかった腹いせに、わざと先手を打って妨害してきたらしい。本当に恐ろしい後輩だ。
「えっと……どうしようか?」
橘先輩は、腕を組んでくる三浦と、絶望の表情で固まっている俺を交互に見比べ、困ったように柔らかく微笑んだ。
「せっかくだし、三人で一緒に行こっか。その方が賑やかで楽しいしね!」
……ああっ、あなたは女神ですか、橘先輩!?
先輩のその慈愛に満ちた一言で、俺のHPは一瞬にして全回復した。
「えーっ……まぁ、いいですけどぉ。会社の二大美女を独り占めできるなんて、日向先輩、今日はツイてますねぇ」
三浦は少し不服そうに唇を尖らせたが、先輩の提案を無下に断るわけにもいかず、しぶしぶといった様子で同意した。
「うるさいな。嫌ならお前だけ他のヤツと食べてくればいいだろ」
俺はここぞとばかりに反撃した。
「はいはい、二人とも喧嘩しないの。行くわよー」
結局、最後は橘先輩が仲裁に入り、俺たち二人の背中を押すようにして社員食堂へと向かうことになった。
当初思い描いていた「先輩との甘いふたりきりのランチ」という野望は脆くも崩れ去ったが……。
まぁ、結果的に先輩と同じテーブルでご飯が食べられるのだから、ミッションは一応クリアと言えるだろう。
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