十二、和解
突然ぐいっとクロの着物の裾が何者かに引っ張られた。それなりに強い力だったために、立ち上がったクロの身体は少しだけよろめく。見ると、鬼夜がぶすっとした顔でクロを睨みつけていた。
「せっかく久しぶりに会ったのに……あたしにはなんにも、なーんにも言ってくれないんだね!」
「悪かった。鬼夜、久しぶり」
やや苦笑気味にクロが鬼夜に話しかけた。それでも彼女の機嫌がすぐに直るはずはなく、さらにクロに詰め寄るように鬼夜は続ける。
「だいたいその子、クロの知ってる夕じゃないし。夕の従姉妹の子孫だし」
「わかっている。夕はこんなに小さくなかった」
「じゃあなんでそんな愛おしむみたいにしているのよ! 降ろして、あたしが運ぶから」
そんな二人の間に大元が仲介に入った。
「まあまあ。鬼夜ちゃんも落ち着いて……優ちゃんはこっちであずかります。二人とも地上では実体がないんだから……」
クロと鬼夜はぎくりと身体を震わせると、揃って気まずそうな表情になった。しぶしぶと優の身体を大元に託するクロを見ながら鬼夜はぽつりとつぶやいた。
「やっぱり身体があるのって良いな……」
「そうね。たしかに身体があるのは強みにもなるけど、魂も大切だから……身体はそれを守るものとして、同じように大切なわけだけど……」
鬼夜の羨ましがるその言葉に、大元はどう説明したらいいか思案しているようだった。
「不老不死、永遠の時を生きたいと念願する人間は多いけれど、それはもともと魂という永存性を持ち合わせているからこそなのよね。魂はどこまでも身体を通してしか成長できないし、完成できない。地上生活は死後の世界のための修行の場なんだね。だから若くして霊になった人間は、そのぶん苦労も多い……他人の身体を通して成長するしかないから」
「そう! そういうこともあるから余計に羨ましいんだよね!」
大元の説明に激しく同意するように、鬼夜が何度もうなずいた。
「だからね、クロ! これから人間成長するのって結構というかものすごい大変なんだからね!」
「お前こそ……偉そうな口きいているわりには悪いが、あまり成長しているふうには見えない」
クロに痛いところを突かれた鬼夜が、うっと声を出して胸を押さえる。
「相変わらず容赦なかった……クロも変わらないねぇ」
「お互い様だな」
生前の恨みから解放された二人は、とても仲良さげで穏やかに見えた。特に鬼夜からは抑えようのないクロへの思慕が伝わってくる。その思いを受けているクロもまた、どこかまんざらでもない様子だったが、クロが抱いている夕への愛情と鬼夜に向ける愛情は微妙に異なっていて、それをお互いに理解しながらもなお、ストレートに気持ちを伝え合う男女は見ていてむしろ潔かった。
「クロはこれからどうするの?」
「夕に会いに行く」
鬼夜の問いに、それまで彼女を面白そうな顔で見ていたクロの表情は、すっと真剣な決意の現れたものに変わった。
「そっか……だよね。あたしも一緒に行こうかな。行っても良い?」
「別に構わないが……」
鬼夜の切なそうな表情に、クロは少し困ったような顔をしたが、何か感じるものもあって了承したようだった。
「それじゃあ、鬼夜ちゃんとクロさんとはひとまずここで別れましょう。鬼夜ちゃん、案内お願いしますね」
そう言って大元がその場を締めくくると、三猿霊媒師は二人の霊が夕のもとへと飛んでいく姿を見送りながら、地上へと続く道を歩き出した。
三猿霊媒師が鏡から地上に降り立つと、そこは霊媒相談所の鏡部屋だった。扉を開ければその奥では紫苑が待っており、気を失ったままの森山もソファーに横たわっていた。顔色は相変わらずあまり良くない。時計を見やると、まだ夜の九時もまわっていなかったが、それでも家に帰るには遅い時間だった。
「森山さんが目覚めたら家に連絡をしてもらって、今夜はこちらに泊まってもらおうと思う。彼女の実家は県を一つまたいでしまっているから」
「え……それどうやって説明するんですか? 紫雲さん……」
紫雲の言葉に環生が途方に暮れた顔をする。たしかに、娘が突然違う県に行ってしまって、しかも見ず知らずの人の自宅にお泊まりだなんて、常識を逸脱しているように感じられた。
「森山さんの両親は訝しむだろうね。それでも、今のこの事実は変えようのないものだし、娘の安否を伝えることの方が優先的だから」
紫雲の落ち着いた姿勢に環生が思わず舌を巻いていると、突然「おい」と咎めるような声がして、黒川が紫雲を睨みつけていた。紫雲が黒川の顔を見ると、黒川のその視線は紫雲から森山の方へと移されて、まるで苦虫を噛み潰したような表情をした黒川が吐き捨てるように言った。
「これは一体どういうことだ」
黒川のその様子に、紫苑と環生は戸惑ったが結局何も言うことができず、困ったように大元の顔を見やった。すると彼女も悲しそうな表情をしていたので、二人はますますどうすればいいのかわからなくなってしまった。
「あのとき、傷は癒えたと言っていたのに……なぜまだ傷が残っている」
詰問する黒川のその言葉に、「え?」と環生も森山の身体を見てみたが、特にどこにも傷ついたところはなく、ただ顔色が悪いくらいだった。だが、考えてみれば森山が傷つけられたのは霊界での出来事であって、本当のところ傷つけられたのは魂の方で肉体ではないのだから、その傷が実際に身体に現れることなんてあるのだろうか。そこまで考えてから、環生は合点がいった。本来は目に見えないからこそ、黒川にだけは見えているのだろうと。
「黒川君、私はたしかに傷を癒やしたわ。鵺に付けられたぶんは……」
紫雲の横から大元がそう言ったのをきいた黒川は、目を少し見開いたあとで「そうか……」と言ったきり黙ってしまい、その表情はさらに思いつめた険しいものになっていた。
「なぁ黒川。森山さんとは同級生だったんだって?」
環生の質問に黒川がちらっと目を向けた。環生は緊張しながらも、それをおくびにも出さず、さも剽軽な口振りで言葉を放った。
「すごい偶然があるもんだよな。クロと鬼夜の子孫が同級生として出会うとか! しかもなかなか可愛い子だし……先祖の二人みたいに黒川たちも仲良かったのかな、なんて思ってさ」
黒川のまとう雰囲気が冷たくなっていくのがひしひしと感じられたが、環生はそれでも言葉を止めることができなかった。もう環生自身、何をどう言えば良いのかよくわからなかったが、それでも黒川がこれ以上自分を責めたりしてほしくなかったし、黒川自身が自分を追い詰めるくらいなら、その不機嫌さがこちら側に向いた方がまだ良いだろうかと思われた。
「実際のところはどうなんだよ?」
「特に……何も……」
黒川の歯切れが悪いことに気がかりを感じたが、それでも環生はなんだかじれったくなってきてしまい、つい何の気なしにぽろりと出てしまった言葉に後悔した。
「王子様がキスの一つでもすれば、姫は目覚めるんじゃないか?」
それが黒川を逆撫でしてしまい、環生は気がついたら黒川に胸倉をつかまれて、今にも殺されるんじゃないかというくらい鋭い眼光で睨まれていた。
「黒川君、落ち着いて!」
「黒川……悪い、もう言わないから……」
まわりも慌てて口出してくれたが、黒川が乱暴にばっと手を離してから、環生は背中の冷や汗が流れ落ちるのを感じていた。
「ねぇ、もう遅いから……植田君は明日早朝からバイトが入っているんじゃなかった? もう帰りましょう。優ちゃんもお家に帰さないといけないし……」
「そう……ですね……」
大元の言葉に従い、その場はひとまず解散となった。環生が帰ったあとしばらくしてから、優がふっと目覚めたので大元が付き添って自宅までタクシーで送って行った。最後に残った四人だったが、紫苑もそろそろ帰ろうと戸締まりの確認をしていたとき、黒川が紫雲を部屋の隅に呼んで何やら話しかけていたが、その内容は紫苑の耳には届かなかった。
森山がようやく目覚めたのはそれから約三十分後だっただろうか。当然のことではあるが、かなり混乱した様子であからさまに不安な表情をしていたが、黒川の姿を認めたときはさらに顔色が青白くなった。黒川は何も言わずに出て行ってしまい、そんな彼の行動に対して紫雲も紫苑も呆れたように見ていたが、すぐに森山へと意識を戻して丁寧に現在の状況を説明した。最初、森山は信じられないという顔をしていたが、最後には目の前の二人の人柄の良さを信じることにして、自宅に安否の連絡をしてから峯崎家に一晩泊まることになった。
すべてが落ち着いてから紫雲は一人、森山が自宅に電話していた内容を思い出した。森山は両親に対して「高校の同級生に会いに行きたくなったから」と言っており、それをきいた紫雲は内心驚いた。森山の記憶の中では、黒川に襲われて傷つけられたことになっていたが、そのときの正体は鵺であることを紫雲はちゃんと伝えておいた。それでもやはり、自分を傷つけた相手に対して恐怖心を抱くのは仕方のないことだが、しかしそれでもなお、森山が黒川のことを少なからず思っていることが感じられ、その姿には感慨深いものがあった。
――魂に刻まれた傷は、どうしたら癒えるものなんだ?
黒川がそう紫雲に問うたときの、彼の失望したような顔を思い浮かべながら、それでも紫雲はこれから先の二人の行く末が、少しでも希望的で幸せなものであることを願った。