「きれいだよ。知ってた?」
一月六日、悠介は東京に戻った。
日常が戻った。朝起きて、電車に乗って、編集部で働いて、電車に乗って、帰る。しかし、以前とは違う何かが日常のあちこちに埋め込まれていた。
朝起きると、杏のことを考える。胸が温かくなる。頑張ろうと思う。
昼休み、LINEの通知に杏の名前が表示されると、心拍数が上がる。すぐに開き、すぐに返信する。
夜の十時、電話が来る。杏の声を聞くと、一日の疲れが溶けていく。「リラックスして」と言われると、椅子の上で身体が弛緩する。
それらはすべて自然なことだった。いとこと仲がいいだけ。電話が楽しみなだけ。声を聞くと安心するだけ。
——それだけのことだ。
二月の三連休、杏がまた東京に来た。
悠介の部屋に入るなり、杏はコートを脱いで言った。
「おすわり」
悠介は座った。玄関から三歩の場所で、床に膝をついた。コートを脱いだ杏を見上げる。杏は白いニットにジーンズ。マフラーをまだ巻いている。
「ふふ。おかえり……じゃなくて、ただいま?」
「おかえり」
「うん。ただいま」
杏は靴を脱ぎ、正座した悠介の前を通り過ぎて部屋に入った。通り過ぎざまに、悠介の頭をぽんと撫でた。
「立っていいよ」
悠介は立ち上がり、杏のあとを追った。自分が犬みたいだ、と思った。思って、その比喩がひどく正確であることに胸が痛んだ。痛んで——しかし、その痛みの奥に、甘い何かがあった。
「ね、悠介。今日はとっておきをやるから。覚悟して」
杏はベッドに腰かけ、膝を組んだ。その仕草がやけに様になっていて、悠介はどきりとした。半年前まで、スニーカーを脱ぎ散らかしていた子供が、今はまるで——
「何ぼーっとしてんの。こっち来て。下」
悠介はベッドの前の床に正座した。杏を見上げる。杏が見下ろす。もうこの角度が、二人のデフォルトになりつつあった。
「悠介、深く」
落ちた。目を開けたまま、泉の底に沈んだ。杏の顔が、水面の向こうに見えている。
「今日はね、新しいルールを作るよ。悠介の生活のなかに、わたしを——もうちょっと入れるの」
杏の声が、水を通して届く。
「まずね。毎朝起きたら、わたしに『おはよう』ってLINEするの。それが一日の始まり。わたしが返事をしたら、悠介はほっとするの。今日もわたしがいるって安心するの」
「……」
「次。仕事で何か大事なことがあったら、まず最初にわたしに報告するの。上手くいったことも、失敗したことも。わたしに褒めてもらうために頑張るの。——ね、悠介。誰のために頑張ってるの?」
「……杏の、ために」
「よくできました」
快感の波。身体が震えた。
「そう。悠介はわたしのために頑張って、わたしに報告して、わたしに褒めてもらうの。わたしが『よくできました』って言うと、こうやって気持ちよくなるの。それが悠介のご褒美。それだけでいいの」
杏は続けた。ひとつひとつの指示は些細なものだった。朝の挨拶。日中の報告。夜の電話。言われてみれば、すでにそうなっていることばかりだった。杏はそれを、明確な「ルール」として定義し直していた。
「最後にね。——これは、ちょっとだけ大きなお願い」
杏の声が、泉の水温を変えた。少し冷たくなった。緊張の冷たさ。
「悠介。次にわたしが東京に来たとき——わたしの靴を揃えて。玄関で。わたしが脱いだ靴を、悠介が綺麗に揃えるの。——やってくれる?」
「……やる」
「それは、悠介がやりたいから?」
「……やりたいから」
「ほんと?」
「杏のために。杏のものだから」
杏の呼吸が、一瞬止まった。水面が揺れた。
「——よく、できました」
その「よくできました」は、今までで一番静かだった。しかし一番深い快感が来た。身体の芯が溶けるような、長い長い波。悠介は正座のまま前のめりになり、額を床につけた。
「っ——」
杏の小さな吐息が聞こえた。上から、悠介の背中を見下ろしている気配。
「……悠介」
「……」
「顔、上げないで。もうちょっと、そのままでいて」
額を床につけたまま、悠介は動かなかった。視界には畳の目だけが見えている。杏の気配が、頭上にあった。
「……きれい」
杏がかすかに呟いた。自分に言い聞かせるような声だった。
「悠介がこうしてるの、きれいだよ。知ってた?」
「……知らなかった」
「わたしもさっき知った」
杏は手を伸ばし、悠介の背中に触れた。掌を、肩甲骨のあたりにそっと置いた。
「——起こすね。三、二、一。すっきり」
悠介が顔を上げると、杏がベッドの縁で膝を抱えていた。顔が赤い。目が潤んでいる。しかし泣いているのではない。
「……大丈夫か?」
「大丈夫。っていうか、こっちのセリフだし。額、赤くなってるよ」
「あ——」
「ばか。強く押しつけすぎ」
杏は笑って、ベッドから降りた。キッチンに行き、水を二杯注いで戻ってきた。一杯を悠介に差し出す。
「はい。水飲んで」
「ありがとう」
「お礼言わなくていいって言ってんのに」
杏はそっぽを向いてコップの水を飲んだ。しかしその手が、微かに震えていた。
——杏も、溺れかけているのだ。
悠介はそう思った。そして、その認識が自分を不安にさせないことに気づいた。二人で溺れているなら、怖くない。溺れることが気持ちいいなら、浮き上がる理由がない。
——俺は、堕ちている。
その自覚は、もう何ヶ月も前からあった。杏の声で意識が落ちるたびに、少しずつ深くなっていること。日常の中に杏が浸食していること。杏の「よくできました」が、自分にとって最大の報酬になりつつあること。
わかっている。わかった上で、やめたくない。




