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「ぞくぞくするの。ここ」

 十二月に入ると、杏からの電話は毎日になった。

 夜の十時、決まった時間に着信がある。悠介はその着信を待っている自分に気づいていた。十時の十分前から落ち着かなくなり、スマートフォンを手元に置く。着信があると、一コールで出る。

「もしもし」

「あ、悠介。今日も一コールで出たね」

「……たまたまだよ」

「ふふ。たまたまね」

 杏は笑い、それから日常の話をした。しかし会話の最後には必ず、声のトーンが変わった。

「ね、悠介。今日も頑張ったよね。疲れたでしょ。リラックスして」

 その一言で、悠介の肩から力が抜ける。呼吸が深くなる。目が閉じかける。

「そう。いいよ。私の声、気持ちいいでしょ」

「……うん」

「今日は短くするね。ちょっとだけ、目を閉じて。吸って——吐いて。——悠介はね、明日も頑張れるよ。朝起きたとき、なんかいい気分なの。で、ふっと私のこと思い出すの。そうすると、もうちょっと頑張ろうって思えるの」

「……」

「聞こえてる?」

「……きこえてる」

「いい子。じゃあ起きて。三、四、五。おやすみ、悠介」

「おやすみ」

 電話を切って、悠介はベッドに倒れ込む。頭がぼんやりとして、心地よい。何を言われたかは、いつものようにはっきり思い出せない。

 翌朝、目覚めると不思議に気分がよかった。歯を磨きながら、ふと杏のことを考えた。

 ——杏、今日は何してるんだろう。

 そう思った瞬間、胸の中に温かいものが広がり、今日も頑張ろうという気持ちが湧いてきた。

 悠介はもう、これを不思議に思わなかった。

 ——

 年末、悠介は山形の伯父の家に帰省した。

 杏は玄関で待っていた。夏よりも少し髪が伸びて、マフラーを巻いている。

「おそい。寒いんですけど」

「電車が遅れたんだよ」

「言い訳しない。早く入って」

 杏は腕を引いて悠介を中に入れた。その手の力が、不思議に心地よかった。引かれるままに従う自分が、嫌ではなかった。

 伯父と伯母の前での杏は、夏と変わらない無邪気な大学生だった。正月の準備を手伝い、祖母の電話に元気よく応対し、こたつでみかんを食べながらテレビのバラエティ番組にけらけら笑っている。悠介に対してもいつも通り、ぞんざいで、遠慮がなくて、時々生意気だった。

 しかし。

 伯父と伯母が買い出しに出かけた午後、居間に二人きりになった瞬間、杏の空気が変わった。

「ねえ、悠介」

 こたつに入ったまま、杏が言った。みかんの皮を剥く手は止めず、しかし声のトーンだけが、半音低くなった。

「おすわり」

 悠介の身体が反応した。こたつから抜け出し、畳の上で、杏の正面に正座していた。冬の畳は冷たかった。しかし膝をついた瞬間の安堵は変わらない。

 杏は、みかんを一房口に入れ、悠介を見下ろした。こたつに入った杏と、畳に正座した悠介。目線の高さが違う。杏が上で、悠介が下。

「……ねえ、悠介。最近考えてたことがあるんだけど」

 杏の声は穏やかだったが、目が真剣だった。

「わたしね、最初は面白半分だったの。本に書いてあること試してみよう、悠介で遊んでやろうって。名前忘れさせたときは最高に笑ったし、おすわりさせたときはもう信じらんないって思った」

 杏はみかんのもう一房を口に入れ、咀嚼し、飲み込んだ。

「でもさ、最近ちょっと変なの」

「変って?」

「わたしね、悠介にあれやってるとき——リラクゼーションしてるとき——すごく……なんていうの。こう、ぞくぞくするの。ここ」

 杏は胸の中央を指で示した。

「悠介がわたしの言うこと聞いてる顔を見てると、お腹の底がきゅってなるの。悠介が落ちていくのを見てると、息が上がるの。おかしいかな」

 悠介は正座したまま、杏を見上げていた。杏の横顔に、夏にはなかった陰影があった。無邪気さの奥にある、自分でも持て余している何か。

「変じゃないよ」

「……ほんと?」

「杏がやってくれると、俺は気持ちいいから。杏も気持ちいいなら——それでいいんじゃないのか」

 杏は悠介をじっと見つめた。それから、ふっと笑った。夏の無邪気な笑みとは違う、もう少し大人びた、しかしどこか危うい笑みだった。

「そっか。じゃあ、いいんだ」

 杏はこたつから出て、悠介の前に立った。正座した悠介を、真上から見下ろす角度。

「ね、悠介。今からやろう。ここで」

「……ここで?」

「お父さんたち、当分帰ってこないから。——悠介、深く」

 悠介の意識が落ちた。畳の上で正座したまま、身体だけが弛緩する。しかし姿勢は崩れなかった。膝をついたまま、頭が垂れ、両手が太腿の上に落ちた。

「すごいね。座ったまま落ちた」

 杏の声が、頭上から降ってきた。遠くて、近い。

「悠介、庭は見える?」

「……みえる。泉の、そば」

「今日は泉に入って。全部、浸かって」

 悠介は泉に身を沈めた。水が顎まで達し、首まで包み、意識の境界が溶解した。

「ここまで深いのは初めてだね。ここでは、もう悠介の考えなんてないよ。あるのは私の声だけ」

「……杏の、声だけ」

「そう。いい子」

 ——いい子。その三文字が、泉の水を温かくした。身体が、声に抱かれていた。

「じゃあね。今日は新しいこと、いっぱいするよ」


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