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「おすわり」

 十月、十一月と、電話でのやりとりは続いた。

 杏からの電話は週に二、三回。たわいない話をして、最後に必ず「リラックスして」と言い、悠介の声が少しとろけたのを確認してから電話を切る。それが儀式のようになっていた。

 そして十一月の末、杏がまた東京にやってきた。今度は買い物が目的だと言っていたが、悠介の部屋に着くなり、買い物袋をソファに放り投げてこう言った。

「ね、今日はがっつりやりたい。長めに、じっくり」

 もう、何のことかを確認する必要もなかった。

 悠介はベッドに横になり、目を閉じた。杏がベッドの縁に座る気配がした。

「悠介、深く」

 落ちた。瞬間的に。呼吸ひとつ分で、庭に着いた。

 しかし杏は、そこで止まらなかった。

「今日はもっと深くに行くよ。今まで行ったことないところ。怖くないから。私がいるから」

 庭の草が、腰の高さまで伸びていた。空は暮れかけの藍色で、最初の星がひとつ見えた。草をかき分けて歩いていくと、庭の奥に——今まで見えなかったものがあった。

「見えてきたでしょ。何が見える?」

「……泉。草の奥に、泉がある」

「うん。その泉がね、一番深い場所。悠介が一番安心できる、一番気持ちいい場所。その水に触れたら、もう何も考えなくていいの。私の言葉だけが聞こえる世界」

 泉の水面は暗い紫色で、星を映していた。悠介は草をかき分け、水際に膝をついた。

「手を入れてみて」

 水に指先を浸した瞬間、身体中の力が消えた。温かくも冷たくもない水が、皮膚の境界を溶かすように浸透していく。

「気持ちいいでしょ。もっと。もっと深く」

 腕を沈め、身体を水に預けていく。水面が胸まで達したとき、悠介は自分が完全に無防備であることを知った。意識はあるのに、意思がない。杏の声だけが唯一の方位磁石で、それがなければどこにいるかもわからない。

「悠介。ここまで深いところで、私の声を聞いてるのは初めてだよね」

「……はじめて」

「ここではね、私が言うことは全部本当になるの。私の言葉が悠介の中に入ると、それは悠介の気持ちになる。悠介の考えになる。わかるよね」

「……わかる」

 ——わかる。本当にわかる。ここでは杏の声が世界そのものだった。

「じゃあね、大事なことを言うよ」

 杏が、一呼吸置いた。泉の水面が、その呼吸に合わせてかすかに揺れた。

「悠介はね、私に従うのが好き。これは新しいことじゃなくて、もともとそうだったの。私が何か言うと、従いたくなる。それが気持ちいいって、もう身体が知ってるでしょ」

 知っていた。否定できなかった。否定したいとも思わなかった。

「私に褒められると嬉しい。私に名前を呼ばれるとどきどきする。私の前で素直でいると、安心する。ね、全部もう知ってることだよね。新しいことは何も言ってないよ」

 杏の声が、丁寧に言葉を並べていった。ひとつひとつが、泉の底に沈む石のように、悠介の意識の深い場所に落ちていった。

「それでね——これから、ひとつ変わることがあるの」

 杏の声が、わずかに低くなった。

「私が『おすわり』って言ったら、悠介は、座りたくなるの。床に、正座。膝をついて、座りたくなる。そうすると気持ちいいの。私の前で膝をつくと、安心して、嬉しくて、気持ちよくなる。——ばかみたいでしょ?」

 最後に、杏は小さく笑った。その笑いには、からかいだけでなく、微かな息遣いの乱れがあった。

「でもね、なるの。なっちゃうの。だって悠介は素直だから」

 泉の水が温かくなった。身体が溶けていくような幸福感の中で、「おすわり」という言葉が意識の底に刻まれていった。

「じゃあ、ゆっくり戻ってきて。一——泉から上がって。二——庭に戻って。三——草の中を歩いて。四——光が見えてきて。五——はい、おかえり」

 悠介は目を開けた。

 杏が、今まで見たことのない表情で悠介を見つめていた。頬が上気し、唇がわずかに開き、目が潤んでいる。しかし悠介がはっきり意識を取り戻すと、杏は瞬時にいつもの顔に戻った。

「おかえり。長かったね。気持ちよかった?」

「……うん。泉があった」

「へえ、泉」

「すごく深くて……きれいだった」

「ふうん」

 杏は立ち上がり、腕を伸ばした。そして、何気ない声で言った。

「あ、そうだ。悠介、ちょっと——おすわり」

 悠介の身体が動いた。

 考えるより先に、膝が床についた。ベッドから降り、杏の前の床に正座していた。動作は滑らかで、自然で、まるで自分の意思でそうしたかのように——いや、実際にそうしたかったのだ。膝をついた瞬間、胸の底にじわりと広がる安堵感。気持ちいい。杏を見上げる角度が、なぜかしっくりくる。

「——え」

 悠介は自分の姿勢に気づいて、固まった。

「え、なに、今の——」

「あはは!」

 杏が声を上げて笑った。ベッドに腰かけたまま、立っている人が座っている人を見下ろすように、悠介を見下ろして笑った。

「すごい! 本当にやった! 悠介、今自分で座ったんだよ? わかってる?」

「いや——なんで俺——」

「ちょっと座ってみたくなっただけでしょ? ね?」

 杏が首を傾げて訊いた。悪戯っぽく、しかしどこか確かめるように。

 悠介は言葉を探した。なんで座ったんだろう。杏が「おすわり」と言って——いや、それは関係ない。ただ、座りたくなったのだ。座ったら気持ちよかったのだ。それだけのことだ。

「……なんか、座りたくなった」

「でしょ? いいじゃん、べつに」

 杏は笑いながら、しかしその目は笑っていなかった。正確には、目は笑っていたが、その笑いの奥に、別の光があった。喜悦、あるいは——権力を握った者の、静かな興奮。

「ね、立っていいよ」

 許可をもらって初めて、悠介は立ち上がった。許可をもらうまで立たなかった自分にも、許可を「もらった」と感じた自分にも、悠介は気づいていた。

 気づいた上で、何も言わなかった。

 杏はベッドの上で膝を抱え、自分の右手をじっと見つめていた。指先が、かすかに震えている。それに気づいた悠介が「大丈夫か」と声をかけると、杏はぱっと手を引っ込めて笑った。

「大丈夫。——ねえ、お腹空かない? なんか食べに行こうよ」

 何事もなかったかのように立ち上がる杏の背中を見ながら、悠介は思った。

 ——杏も、何かを感じている。俺とは違う何かを。

 それが何なのかは、まだわからなかった。

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