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「覚えてなくていいの」

 悠介が東京に帰ったあとも、杏からのLINEは続いた。

 最初はたわいないやりとりだった。大学の愚痴、サークルの話、地元の友達と撮った写真。しかし時折、不意打ちのように挟まれるメッセージがあった。

『ねえ悠介、今なにしてる?』

『仕事。なんで?』

『なんでもない。ちょっと声聞きたくなっただけ。電話していい?』

 電話がかかってきて、杏は他愛ない話をした。大学の食堂のメニューがどうとか、レポートが面倒だとか。しかし会話の端々に、あの日の「声」の片鱗が混じっていた。

「悠介、なんか疲れてない? 声でわかるよ」

「……まあ、ちょっとな」

「でしょ。深呼吸して。吸って——吐いて」

 杏が電話越しにそう言った瞬間、悠介の身体に微かな弛緩が走った。肩の力が抜ける。呼吸が深くなる。

「もう一回。吸って——吐いて。ね、ちょっと楽になったでしょ」

「……なった、かも」

「ふふ。よしよし」

 ——よしよし。

 その声に、悠介は自分の瞼が重くなるのを感じた。電話越しなのに。文字通り、声だけで。

「じゃあね。おやすみ、悠介」

 電話を切ったあと、悠介はしばらくスマートフォンを握ったまま動けなかった。掌が汗ばんでいた。心臓が、おかしな速さで脈打っていた。

 ——俺は、杏の声を待っている。

 その自覚は、恥ずかしさと同時に、甘い麻痺を伴って訪れた。

 ——

 九月の連休に、杏が東京に遊びに来た。

「大学の友達と原宿行くんだけど、ついでに悠介んち泊まらせて」と当然のように言い、悠介のワンルームマンションに転がり込んできた。

 夜、友人との遊びから帰ってきた杏は、悠介のベッドに座り込み、部屋を見回した。

「狭いね」

「一人暮らしだからな」

「本ばっかり。悠介らしい」

 杏はそう言って笑い、それからすっと表情を変えた。悠介がドキリとするほど、自然な移行だった。

「ね、久しぶりにやろうよ。あれ」

「あれって——」

「リラクゼーション。ずっとやってないでしょ。東京で疲れてるなら、なおさら」

 杏の声は優しかった。しかしその優しさの奥に、悠介は別の色を感じ取った。期待、という色を。

「……ここで?」

「ベッドでいいじゃん。横になって」

 悠介は従った。自分が従うことに迷いがなくなっていることに、悠介は気づいていた。

 杏はベッドの縁に腰かけ、悠介の横顔を見下ろす位置に座った。

「目を閉じて」

 閉じた。

「深呼吸して。吸って——吐いて。——ね、もう身体がわかってるでしょ。私の声を聞くと、どうなるか」

 わかっていた。声を聞いた瞬間から、身体はもう沈み始めている。

「悠介、深く」

 あのトリガーが、二ヶ月ぶりに発動した。意識が一気に落下した。庭が広がった。しかし今回の庭は、夏のそれとは少し違っていた。草は高く、空は薄暮(はくぼ)の紫に染まり、どこからか水の音がした。

「——すごい。まだちゃんとかかるね」

 杏の声が、庭の上空から降ってくるように聞こえた。声に含まれる微かな喜びが、水面に落ちる雨粒のように悠介の意識に波紋を広げた。

「悠介、今ね、すごく深いところにいるよ。前よりもっと深い。この深いところで、私の言葉は全部、悠介の中にしみ込んでいくから」

 杏のペースが変わっていた。夏のときの、本を見ながらのたどたどしさはもうない。自分の言葉で、自分のリズムで話している。

「いくつか、覚えておいてほしいことがあるの。簡単なことだよ」

 杏は悠介の耳元に顔を近づけた。吐息が肌に触れる距離。

「まずね、これからも私と電話するとき、私が『リラックスして』って言ったら、今みたいに少しだけ力が抜けるの。深くは落ちないけど、ふわっと気持ちよくなる。自然に。なんでかは考えなくていいよ。ただそうなるの」

 悠介は聞いていた。水の音と、杏の声と、自分の呼吸だけが世界のすべてだった。

「それからね——悠介はこれから、前よりもちょっとだけ、私のことが気になるようになるよ。LINEが来たら、すぐ見たくなる。電話がかかってきたら、すぐ出たくなる。私の声を聞くのが、一日で一番ほっとする時間になる。ね、それって自然なことでしょ? だって、私は悠介のいとこで、仲がいいんだから。自然なことだよね」

「……自然なこと」

 悠介は反復した。草の庭の中で、その言葉が足元に根を張っていくのを感じた。

「うん。それでね、もう一つ。起きたあと、私が何を言ったかは、はっきりとは思い出せないの。気持ちよかったことは覚えてるよ。でも、具体的に何を言われたかは、夢みたいにぼんやりしちゃうの。覚えてなくていいの。ただ気持ちよかったことだけ覚えてればいい」

 杏の声が、最後にそっと、甘さを帯びた。

「だって、覚えてたら恥ずかしいでしょ? 悠介、こんなに素直なんだから」

 ——素直。

 その言葉が、不思議に嬉しかった。

「じゃあ起こすね。一——二——三——四——五」

 悠介は目を開けた。ベッドの上で、横を向いている。杏が見下ろしている。柔らかな笑顔。

「おかえり。気持ちよかった?」

「……うん。すごく。なんか、夢見てたみたいだ」

「何の夢?」

「……庭。草が、いっぱいあって。水の音がした」

「ふうん。素敵な夢だね」

 杏は立ち上がり、冷蔵庫からお茶を出して飲んだ。その仕草は、何事もなかったかのように自然だった。

「あー、喉乾いた。ね、悠介。明日の朝、駅まで送ってくれる?」

「いいけど」

「やった。じゃあわたし先にシャワー借りるね」

 杏が浴室に消えた後、悠介はベッドの上でぼんやりと天井を見つめていた。

 ——何を、言われたんだっけ。

 思い出そうとすると、記憶が水面のように揺れて像を結ばない。気持ちよかったことだけが鮮明で、内容が霞んでいる。

 不思議だったが、悠介は追求しなかった。追求する気力がなかったのではない。追求しないことが、心地よかったのだ。

 その夜、杏はベッドを占領し、悠介は床に敷いた寝袋で寝た。暗闇の中で杏が「おやすみ」と言ったとき、その声だけで身体がふわりと弛緩したことを、悠介はもう不思議に思わなかった。

 翌朝、目が覚めると、何をされたかは思い出せないのに、胸の奥がほんのり温かかった。杏の寝息を聞きながら、その温かさをしばらく味わっていた。

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