「ねえ、名前なんだっけ?」
二回目は、翌日の夕方に行われた。
伯父と伯母が買い物に出かけた後、杏は当然のように「やろう」と言い、悠介を二階の客間に連れていった。前日のうちに本を隅々まで読んだらしく、付箋がいくつも貼られていた。
「昨日より長くやるから。楽な格好で横になって」
悠介が横になると、杏は前日と同じように正座し、しかし今度は本をほとんど見なかった。
「目を閉じて。深呼吸、覚えてるよね。吸って——吐いて」
杏の声を聞いた瞬間、悠介の身体に前日の感覚が甦った。畳に身体が沈んでいく、あの重力。
「そう。もう身体は覚えてるんだよね。昨日、すごく気持ちよかったこと。私の声を聞いて、リラックスしていった、あの感じ。身体が覚えてるから、今日はもっと早く、もっと深くリラックスできるよ」
杏の言葉通りだった。前日は五分かかった弛緩が、今日は一分もかからなかった。杏の声が始まった瞬間、身体のスイッチが切り替わるように力が抜けた。
「いいね。じゃあ昨日と同じように、十から数えるよ。十——九——」
カウントダウンの途中で、もう悠介の意識は深い場所にいた。あの庭だ。夏草の庭。昨日よりもさらに草は深く、光は柔らかい。
「五——四——すごく深いところにいるね。三——二——一——はい。ここはもう悠介の場所だよ。安心して、もっと深く」
杏が一拍置いた。何かを考えているような沈黙だった。
「ね、悠介。今、すごく気持ちいいよね」
「……うん」
自分の声が、遠くから聞こえた。
「この気持ちよさは、私の声が作ってるの。わかる? 私の声を聞いてるから、こんなに深くリラックスできてる。だからね——私の声を聞くと、安心するの。もっと聞いていたくなる。私の声は、悠介にとって一番心地いい音」
杏の声が、庭の空気そのもののように身体を包んでいた。言葉の意味を考える必要はなかった。ただ、声が心地よく、声に包まれていることが幸福だった。
「それでね、一つだけ覚えてほしいことがあるの」
杏の声がわずかに変わった。少しだけ真剣な、しかし優しい響き。
「今度、私が悠介の名前を呼んで、『深く』って言ったら——そのとき悠介は、今のこの気持ちいい状態に、すぐに戻ってこられるの。目を閉じて、すとんって、ここに戻ってくる。わかった?」
「……わかった」
「繰り返して。私が名前を呼んで、『深く』って言ったら?」
「……ここに、戻ってくる」
「そう。いい子」
——いい子。
その言葉が、庭に陽だまりのように落ちた。悠介の意識のどこかで、従妹に「いい子」と言われることへの違和感がかすかに明滅した。しかし、それは草の間に消えていった。気持ちよさのほうが、ずっと強かった。
「じゃあ一回起こすね。一——二——三——四——五。目を開けて」
悠介は目を開けた。杏が覗き込んでいる。
「ね、今の覚えてる?」
「覚えてる。庭のこととか——」
「うん。じゃあ試していい?」
杏は小さく息を吸い、そしてはっきりと言った。
「悠介、深く」
——落ちた。
目を開けていたはずなのに、瞼が落ち、身体が落ち、意識が落ちた。畳に倒れ込むように横になっていた。あの庭の、深い草の中に、一瞬で戻っていた。
「うそ、マジで?」
遠くで杏の声が聞こえた。驚きと、それから——歓びの声だった。
「すごい。すごいすごいすごい。本当にかかった」
杏は興奮していた。悠介にはその声だけが聞こえていた。庭の奥で、杏の声が空のように広がっている。
「悠介、聞こえてる?」
「……きこえてる」
「わたしがこう言うだけで、悠介はこうなるんだ……」
杏の声に、不思議な熱があった。それは悪意ではなく、純粋な驚嘆だった。おもちゃを手に入れた子供の興奮、とも少し違う。もっと深い何か——力を持つことへの、無自覚な陶酔。
「じゃ、起こすね。一、二、三、四、五」
悠介は目を開けた。杏が頬を紅潮させて笑っていた。
「悠介、これヤバくない? 一瞬で落ちたよ。完全にぐにゃってなった」
「……あんまり覚えてない」
「えー、うそ。じゃあもう一回——悠介、深く」
また落ちた。
そして起こされ、また落とされた。
何度目かのとき、杏が言った。
「ね、今度起きたとき、自分の名前が思い出せなくなってたら、面白くない?」
深い庭の底で、悠介はその言葉を聞いていた。
「起きたら、自分の名前が一瞬だけわかんなくなるの。私が『思い出していいよ』って言うまで。ね、やってみよう」
悠介は何も答えなかった。だが、拒否もしなかった。
「一、二、三、四、五。はい起きて」
悠介は目を開けた。杏がにやにやしている。
「ねえ、名前なんだっけ?」
「え——」
悠介は口を開いて、固まった。
名前。自分の名前。知っているはずなのに、言葉が出てこない。喉元まで来ているのに、形にならない。霧の中で手を伸ばしても何も掴めないような、奇妙な空白。
「え、ちょっと、まって——」
「あはは! マジじゃん! うける!」
杏が腹を抱えて笑った。無邪気な、屈託のない笑い声だった。
「顔! 悠介の顔すごい! めっちゃ困ってる!」
「いや、ちょっと——なんで——」
「はい、思い出していいよ」
瞬間、「悠介」という名前が頭に戻ってきた。自分が藤宮悠介であること、二十六歳であること、出版社に勤めていること——すべてが一気に、当たり前の場所に収まった。
「……いま、本当に出てこなかった」
「すごいよね。わたし才能あるのかも」
杏は得意げに言い、それからふと、真剣な目をした。
「ね、これ、他の人には言わないでね。お父さんとかに言ったらたぶん怒られるし」
「……言わないよ」
「約束ね」
杏は小指を差し出した。悠介はその小指に自分の小指を絡めながら、胸の奥にかすかな不安が芽生えるのを感じていた。
——今のは、何だったんだ。
名前が消える。声ひとつで意識が落ちる。それは「リラクゼーション」の範疇を超えていないか。
しかし、不安よりも強い感覚があった。あの庭の心地よさ。杏の声に包まれる幸福。「いい子」と言われたとき、胸の底を掠めた甘い痺れ。
悠介は、不安に蓋をした。自覚的に、意識的に蓋をした。見なかったことにしたのではない。見た上で、目を逸らしたのだ。
だって、気持ちよかったのだから。
その夜、悠介が客間で寝転がっていると、階下から微かな物音がした。台所の灯りが点いている。降りていくと、杏がテーブルにあの本を広げていた。付箋のついたページを、指先でなぞるように読んでいる。
「まだ起きてたのか」
「……っ、びっくりした。なに、悠介も寝れないの」
「喉乾いて」
「ふうん」
杏は本を閉じ、表紙を手で隠すようにした。しかしその目は、本から離れたばかりの人間特有の、少し焦点の合わない熱を帯びていた。
「おやすみ、悠介」
「おやすみ」
杏が本を抱えて自分の部屋に戻っていくのを、悠介は麦茶を飲みながら見送った。
——あいつ、明日何をするつもりなんだろう。
その問いに対する答えは、怖くもあり、どこか待ち遠しくもあった。




