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「私の声は、悠介にとって一番心地いい音」

「じゃあ、目を閉じて」

 悠介は畳の上に仰向けになり、言われたとおりに目を閉じた。障子を通した午後の光が(まぶた)の裏をぼんやりと明るくしている。隣に正座した杏が、本をぱらぱらとめくる音が聞こえる。

「えーと……まず、深呼吸して。鼻から吸って、口から吐く。ゆっくりね」

 杏の声は、普段のぞんざいな調子とは少し違っていた。本に書いてあることを忠実にやろうとしているのだろう、ぎこちないが丁寧な口調だった。

「そう、吸って——吐いて。もう一回。吸って——吐いて」

 悠介は従った。暑い午後の空気が、呼吸とともにゆっくり出入りする。遠くで蝉が鳴いている。

「いいよ。じゃあ次は、身体の力を抜いていくから。まず足の先。足の指に、ぎゅって力を入れて——はい、抜いて」

 杏は本を見ながら、一つ一つの部位を順番に指示した。足の指、ふくらはぎ、太もも、腹、胸、腕、肩、首、顔。力を入れて、抜く。入れて、抜く。その繰り返しのたびに、悠介の身体は少しずつ畳に沈み込んでいくような感覚を覚えた。

「ね、ちょっと気持ちいいでしょ?」

 杏が小声で訊いた。

「……まあ」

「身体、重くなってきた?」

「少し」

「よし。じゃあね、今から私が十から一まで数えるから。数が減るたびに、もっとリラックスしていくの。いい?」

 悠介は小さくうなずいた。

「十——身体がどんどん重くなっていく。九——まぶたも重い。八——呼吸がゆっくりになって——七——周りの音が遠くなっていく。六——もう何も考えなくていいよ。五——」

 杏の声が、不思議な質感を帯び始めた。言葉の意味というよりも、音そのものが身体に染み込んでくるような感覚。悠介はぼんやりと、杏の声って意外と低いんだな、と思った。

「四——もっと深く。三——どんどん沈んでいく。二——」

 蝉の声が遠のいていった。畳の硬さも、汗の不快さも、どこか他人事のようになっていく。

「一——はい、すごく深くリラックスできてるよ」

 沈黙が降りた。悠介の意識はまだはっきりとそこにあったが、身体が妙に遠い。動こうと思えば動けるのだが、動く理由がない。

 杏がしばらく黙っていたのは、本の次のページを読んでいたからだ。やがて、少し興奮を含んだ声で言った。

「ねえ、悠介。今から私が『目を開けて』って言ったら、目を開けて。でも開けたら、すぐにまた閉じたくなるから。閉じたら、さっきよりもっと深くリラックスできるよ」

「……」

「目を開けて」

 悠介は薄く目を開けた。杏の顔が、ぼんやりとした輪郭で見えた。杏は本を片手に、少し前のめりになって悠介の顔を覗き込んでいた。

「はい、また閉じて」

 目を閉じた瞬間、身体がさらに重くなった。まるで水の中に沈んでいくような感覚だった。

「すごい。もう一回ね。目を開けて——閉じて」

 開いて、閉じる。そのたびに、意識の水位が上がっていく。あるいは、自分が沈んでいく。どちらなのかはわからなかったが、心地よかった。三度目に目を閉じたとき、悠介は自分が微笑んでいることに気づいた。

「え、なに笑ってんの」

 杏の声に、素の驚きが混じっていた。

「わかんない……気持ちいい」

「マジで? すごくない? 本の通りにやっただけなんだけど」

 杏は小さく笑った。面白いものを見つけた、という声音だった。

「じゃあもうちょっとやるね。えーと——悠介、今すごくリラックスしてて、すごく気持ちいいよね。この気持ちよさは、私の声を聞いてるともっと深くなるよ。私の声は、悠介にとってすごく心地いい音で、聞いてるだけでどんどんリラックスが深くなる」

 本を見ながら語りかける杏の声は、いつの間にか自信を帯び始めていた。最初のぎこちなさは消え、ゆっくりと、しかし淀みなく言葉を紡いでいく。

「今ね、悠介のいる場所を想像してほしいの。すごくリラックスできる場所。悠介にとって一番安心できる場所」

 悠介の意識の奥に、像が浮かんだ。

 ——庭だ。

 伯父の家の裏庭。夏草が茂り、紫陽花が咲き、古い石灯籠がある。子供の頃、杏と二人で遊んだ庭。しかし、今見えているそれは現実の庭とは少し違っていた。草はもっと深く、光はもっと柔らかく、どこまでも続いているように見える。草の匂いが濃密で、空気が甘い。

「その場所が見えたら、もっと深くそこに入っていって。その場所は悠介だけの場所だから。安心していいよ」

 悠介は、深い草の中を歩いていた。足首まで草に埋もれ、葉先が肌を(くすぐ)る。風がない。静かだ。蝉の声すら聞こえない。あるのは杏の声だけだった。

「いいよ。すごくいい。じゃあね、今日はここまでにしよう。これから私が一から五まで数えたら、ゆっくり目が覚めるから。でも、起きたあともこのリラックスした気持ちよさは残ってるよ。一——少しずつ戻ってきて。二——身体の感覚が戻ってくる。三——指先が動く。四——もうすぐ目が覚める。五——はい、目を開けて」

 悠介はゆっくりと目を開けた。

 天井の木目が見えた。障子の光。杏の顔。

 ——なんだ、これは。

 身体がとろけるように弛緩(しかん)していた。頭の中に霧がかかったような、心地よいぼんやりとした感覚が残っている。嫌な感覚ではない。むしろ、ずっとこのままでいたいと思うほど、穏やかだった。

「ねえ、どうだった?」

 杏が目を輝かせて訊いた。

「……すごかった」

「でしょ? わたしもすごいと思った。悠介、めっちゃかかるね」

「かかるって言うな。なんか語弊がある」

「でもかかったじゃん。本の通りにやっただけなのに、笑い出すし」

「あれは——なんか、勝手に」

「ふふ。やっぱ悠介ぼーっとしてるからだよ」

 杏は笑いながら本を閉じた。それから急に思い出したように立ち上がり、本を胸に抱えた。

「これ面白いなー。またやろ」

 悠介は起き上がりながら、頷いていた。断る理由など、思いつきもしなかった。

 杏は襖の前で振り返り、にっと笑った。

「明日はもっとすごいのやってあげる。ちゃんと予習しとくから」

 そう言って階段を駆け下りていく足音を聞きながら、悠介は畳の上でぼんやりと天井を見つめていた。身体にまだ、あの心地よさの残響があった。

 ——予習って何だよ。

 そう思ったが、不安よりも期待のほうが、少しだけ大きかった。

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