「明日から、楽しくなるね」
四月。
桜が散り始めた頃、杏から電話があった。
「編入、決まった」
「おめでとう」
「ふふ。悠介、嬉しそう」
「嬉しいよ」
「じゃあ褒めて。わたしのこと」
「杏はすごいよ。頑張ったな」
「んー、もうちょっと」
「えらい」
「もうちょっと」
「……杏は、すごい。本当にすごい」
「よし。合格」
杏は笑い、それから少し低い声で言った。
「ね、悠介。わたしそっち行ったら、いろいろ変わるよ。覚悟してね」
「いろいろって?」
「内緒。——悠介、リラックスして」
電話越しに、身体が弛緩した。
「そう。いい子。じゃあね、おやすみ」
電話を切ったあと、悠介はしばらく動けなかった。
恐怖はなかった。期待があった。杏がそばに来る。杏の声が毎日聞ける。杏に毎日従える。
——俺は、取り返しのつかないところまで来ている。
その自覚が、快感を伴って胸に沈んだ。取り返しがつかないことが、怖くない。杏の声がある限り、沈んでいくことは幸福なのだ。
——
五月の連休明け、杏が上京した。
駅の改札を出てきた杏は、大きなキャリーケースを引いていた。悠介を見つけると、ぱっと笑顔になった。無邪気な、太陽のような笑顔。
「悠介! 荷物持って!」
「はいはい」
悠介はキャリーケースを受け取った。杏は身軽になった手をぶらぶらさせながら、悠介の隣を歩いた。
「わー、東京だ。これからよろしくね、悠介」
「よろしく」
杏は手を伸ばし、不意に悠介の手首を掴んだ。通行人の多い改札前で、いとこが手首を掴んでいる。何気ない仕草に見えただろう。しかし悠介は、その指の圧力に、あの庭の感触を覚えた。
杏は笑顔のまま、悠介の耳元に顔を寄せた。
「帰ったら、おすわり、ね」
囁いた声は、駅の喧噪に紛れて誰にも聞こえなかっただろう。しかし悠介の身体は、それだけで微かに膝が緩んだ。人混みの中で崩れ落ちなかったのが不思議なほどだった。
「——なんてね。冗談」
杏は手を離し、けらけらと笑った。
嘘だ、と悠介は思った。杏は冗談のつもりで言っていない。そして、自分も冗談だとは思っていない。
マンションに着いた。
杏が靴を脱ぎ散らかした。悠介がそれを揃えた。杏が部屋に入り、悠介が荷物を運んだ。杏がソファに座り、悠介が飲み物を出した。
杏が、にっこりと笑った。
「ただいま」
「おかえり」
「——おすわり」
悠介は座った。新生活の始まりの夕暮れに、膝をついた。見上げる先に、杏の笑顔があった。
「これからよろしくね、悠介。ずーっと、よろしくね」
「……よろしく」
「ふふ。いい子」
杏は身を屈め、正座した悠介の頭をぽんぽんと撫でた。犬にするように。いとこにするように。自分のものにするように。
窓の外で、風が鳴った。五月の風。夏の予感を含んだ風。去年の夏、あの庭で始まった何かが、今ここで新しい形を取ろうとしている。
「ね、悠介。今日はもう遅いからさ、明日からちゃんとやろう。新しいルール、いっぱいあるから」
「いっぱいって——」
「内緒。でも、悠介は全部従えるよ。だって——」
杏は悠介の顎に指をかけ、顔を上げさせた。目が合った。暗い茶色の虹彩に、夕暮れの光が反射している。
「——悠介は、わたしのものだから」
「……うん」
「よくできました」
快感が走り、悠介の目が潤んだ。こんな簡単な言葉ひとつで、こんなにも幸福になれる。それが異常であることは知っている。知った上で、この場所にいることを選んでいる。
泉の底は温かい。杏の声は甘い。そして膝をつく畳は、どんなベッドよりも安らかだった。
——
夜。
杏は悠介のベッドで眠り、悠介はソファで目を閉じた。
暗い部屋に、杏の寝息だけが聞こえていた。
杏は夢を見ていた。
夢の中で、杏は庭にいた。夏草の深い、あの庭。しかし夢の中の杏は庭を歩いているのではなく、庭の真ん中に立って、すべてを見渡していた。草も、光も、泉も、空も——全部が自分の庭だった。
泉のそばに、悠介がいた。水に浸かり、目を閉じ、穏やかな顔をしている。杏が名前を呼ぶと、悠介はゆっくりと目を開け、杏を見上げて微笑んだ。
——わたしのもの。
その言葉が、庭に木霊した。草が揺れ、水面が光り、夏の匂いが濃くなった。
杏は夢の中で唇の端を持ち上げた。
八つ年上のいとこ。東京の出版社で働く、真面目で優しい男。子供の頃は「ゆうちゃん」と呼んで慕っていた人。その人が今、自分の声ひとつで膝をつき、額を床につけ、足を揉み、靴を揃え、「杏のもの」と囁く。
面白半分で始めたことだった。本当に、ただの遊びだった。
——でも。
杏は寝返りを打ち、悠介のベッドのシーツに頬を埋めた。悠介の匂いがした。
——これは、もう遊びじゃない。
胸の奥で、何かが芽吹いていた。支配の喜び。所有の甘さ。そして——それだけではない、もっと深くて名前のない感情。
杏は薄く目を開けた。暗い部屋の向こうに、ソファで眠る悠介のシルエットが見えた。
「……ゆうちゃん」
小さく、呟いた。子供の頃の呼び方。今はもう使わない名前。
そしてすぐに、唇の形が変わった。にい、と。口角が上がった。暗い部屋で、誰にも見えない笑み。
「——明日から、楽しくなるね」
その囁きは、悠介には届かなかった。杏は目を閉じ、また眠りに落ちた。
夏草の庭が、二人を待っていた。
(了)




