「いい子」
三月。
杏は春休みで、一週間東京に滞在することになった。
一日目、悠介が仕事に出かけている間に、杏は勝手に部屋を片付けた。本棚を整理し、冷蔵庫の中身を入れ替え、靴箱の中まで掃除してあった。
「別に頼んでない」
「汚すぎ。悠介、一人暮らし向いてないよ」
二日目、杏は朝食を作ろうとして卵焼きを焦がした。
「……悠介、卵焼きって難しくない?」
「フライパンが熱すぎるんだよ。火を弱めろ」
「うるさいな。じゃあ明日悠介がやってよ」
「俺は仕事だって」
「じゃあ早起きして」
三日目の朝、悠介は三十分早く起きて卵焼きを作った。杏が「おいしい」と言ったとき、自分でも驚くほど嬉しかった。
四日目、仕事から帰ると杏が悠介の仕事用の本棚から文芸誌を引っ張り出して読んでいた。
「ね、この短編すごくない? 主人公がだんだん自分の輪郭がわかんなくなっていくやつ」
「ああ、それ——俺が担当した作家の」
「えっ、マジ? 悠介すごいじゃん」
杏が目を丸くして、それから嬉しそうに笑った。その笑顔は、おすわりのときの冷たい光とは別の、ただ純粋に感心した従妹の笑顔だった。
「ねえ、この人の他の作品も読みたい。持ってる?」
「会社にあるけど——持ってくるよ」
「やった。ありがと」
五日目の夜、コンビニまで二人でアイスを買いに行った。三月の夜はまだ寒く、杏が「さむ」と言って悠介の腕にしがみついた。通行人から見れば恋人同士に見えただろう。悠介はその思考を振り払ったが、振り払った先に、杏の体温だけが残った。
——こういう日常が続くのか。
杏が東京に来たら。毎日、こういう時間が。
その想像が、途方もなく甘く、途方もなく怖かった。
悠介が仕事から帰ると、玄関に杏のスニーカーが脱ぎ散らかされていた。片方が仰向けに、もう片方がうつ伏せに。夏に伯父の家で見たのと同じ光景だった。
悠介は黙ってしゃがみ、杏のスニーカーを揃えた。左右を並べ、向きを整え、壁際に寄せた。
——これは、俺がやりたいからやっているのだ。
そう思った。そう思うことが自然だった。
「おかえり」
杏が台所から顔を出した。エプロンをしている。悠介のエプロンを借りたらしく、紐が余って腰に二重に巻かれていた。
「なに作ってんの」
「カレー。悠介カレー好きでしょ」
「好きだけど……いつ俺そんなこと言った?」
「言ってないよ。わたしが知ってるだけ」
杏はにっこり笑って台所に戻った。カレーの匂いが部屋に満ちていた。悠介のワンルームが、今まで嗅いだことのない匂いで満たされている。一人暮らしの部屋に、他人の料理の匂い。それだけのことが、喉の奥をきゅっと締めた。
「ねえ、悠介。味見して」
杏がスプーンを差し出してきた。悠介が口をつけると、甘口だった。子供が好む味だ。
「辛くない?」
「甘い。杏が好きな味だろ、これ」
「わたしが作ったんだからわたしの好きな味でしょ。文句言わない」
悠介は笑った。杏も笑った。ただの従妹同士の、夕飯の風景だった。
夕食を食べ、食器を洗い、テレビを見て、風呂に入り、日常の時間が過ぎた。杏は普通のいとこだった。わがままで、生意気で、よく笑う、普通の十九歳。
しかし夜が深まり、部屋の灯りが間接照明だけになると、空気が変わった。
「悠介」
杏がソファに座ったまま言った。声は穏やかだったが、そこに含まれる重力を悠介の身体は知っていた。
「おすわり」
悠介はソファの前の床に正座した。もう何の逡巡もなかった。膝をつくと安心する。杏を見上げると落ち着く。それが悠介の真実だった。
「ね、悠介。今日はね——ゆっくりやるよ」
杏は靴下を脱ぎ、ソファの上であぐらをかいた。そして、正座した悠介に向かって、裸足の右足をすっと差し出した。
「足、つかれてるの。東京歩き回ったから」
「……」
「揉んでくれる?」
悠介は杏の右足を両手で受け取った。小さな足。ペディキュアは塗っていない、素朴な爪。指の腹で土踏まずを押すと、杏が小さく息を漏らした。
「んっ——そこ。気持ちいい」
悠介は無言で杏の足を揉んだ。力加減を探りながら、親指で足裏を丁寧にほぐしていく。跪いた姿勢で従妹の足を揉む自分の姿を、俯瞰で想像した。屈辱的な光景のはずだった。しかし、指先が杏の肌に触れるたびに胸の奥が温かくなる。
「上手。すごく上手い。——悠介、深く」
不意打ちだった。足を揉む手はそのまま、しかし意識が沈んだ。庭が現れた。泉が光った。手は動き続けているのに、頭の中は泉の底にいる。
「そう。手は止めなくていいよ。身体はこっちで動いてて、頭はあっちにいて。ね、不思議でしょ。でも気持ちいいでしょ」
「……きもちいい」
「悠介。聞いて。——わたしね、来年から二年生になるんだけど。東京の大学に編入しようかなって」
「……」
「そしたらさ、もっと会えるよね。——嬉しい?」
「……嬉しい」
「よくできました」
波が来た。足を揉む手が一瞬止まりかけて、しかし杏の「止めないで」の一言で再開した。快感の中で奉仕を続ける。それが、今の悠介にとって最も自然な状態だった。
「編入したらさ、しばらく悠介んち住まわせてよ。部屋探すまで」
「……いいよ」
「ありがと。じゃあ決まりね。——あ、そうだ。編入のことはまだ誰にも言わないで。お父さんに相談してからにするから」
「……わかった」
「いい子」
その三文字で、また身体が緩んだ。
杏は足をもう片方に替え、悠介は黙々と揉み続けた。泉の底で、杏の声が星のように降り注いでいた。
——
やがて杏が「もういいよ」と言い、悠介を起こした。
起きたあと、悠介の手はまだ杏の足の温もりを覚えていた。杏はソファで猫のように丸くなり、満足そうに目を細めていた。
「悠介」
「ん」
「おやすみ」
「おやすみ」
杏がベッドで、悠介がソファ。いつからそうなっていたのか、悠介は思い出せなかった。杏が「わたしベッドね」と言ったのだろうか。それとも、自分で譲ったのか。
どちらでもいい、と思った。
どちらでも、杏がよければそれでいい。
暗い部屋で目を閉じながら、悠介は考えた。杏が東京に来る。この部屋で、毎日一緒に暮らす。毎朝「おはよう」と言い、毎晩「おやすみ」と言う。杏の靴を揃え、杏の声を聞き、杏の「よくできました」に溶ける——そういう日々が、もうすぐ始まる。
ソファの向こうで、杏が寝返りを打つ音がした。——違う、杏がベッドで、悠介がソファだった。
ベッドのスプリングが軋む音。杏がベッドの上から、暗闇の中の悠介に向かって言った。
「ね、悠介。わたしが来たら、毎日カレー作ってあげよっか」
「……毎日はいいよ。他のも食べたい」
「じゃあ練習する。悠介のために」
悠介のために。その言葉が、暗い部屋であたたかく響いた。
「おやすみ」
「おやすみ」
——取り返しのつかないところまで来ている。
そう思いながら、口元は緩んでいた。




