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「悠介ってすぐかかりそう」

悠介(ゆうすけ)、おすわり」

 ソファから見下ろす従妹(いとこ)のその一言で、俺の膝は床についている。自分から座ったのだ。座りたくて座ったのだ。——たぶん。

「ふふ。今日も素直」

 (あん)は裸足のつま先で俺の膝をちょんとつついた。

「ねえ、今日の仕事どうだった」

「企画が通った」

「え、マジ? すごいじゃん。——よくできました」

 その言葉が落ちた瞬間、背筋をぞわっと甘いものが駆け上がった。思わず息が漏れる。杏がにやっと笑う。

「いい顔。それ見たくて訊いてんだよね、わたし」

「……性格悪いぞ、おまえ」

「褒め言葉として受け取っとく」

 杏はソファから身を乗り出して、俺の顎をくいっと持ち上げた。細い指。見上げた先に、得意げな笑顔がある。

「ほら、目そらさないで。ちゃんと見て。——悠介のこの顔が、わたしは大好きなの」

 好きと言われて心臓が跳ねる。こいつは従妹だ。八つ下の、生意気な従妹だ。去年の夏までは、盆に顔を合わせる程度の関係だったはずだ。

 なのに今、俺はこの子の前で膝をついている。この子の「よくできました」が、世界で一番欲しい言葉になっている。

 どうしてこうなったかは——まあ、順番に話すしかない。


 ——


 悠介が伯父(おじ)の家の玄関を開けたとき、最初に目に入ったのは、土間に脱ぎ散らかされたスニーカーだった。片方が仰向けに、もう片方がうつ伏せに転がっている。

 ——杏が帰ってきているのか。

 伯父から「盆に顔を出せ」と言われたのは六月のことだった。悠介は二十六歳、東京の出版社に勤めて三年になる。実家は新潟だが、母方の伯父一家は山形の内陸部、最上川(もがみがわ)の支流沿いの町に住んでいた。子供の頃は夏休みのたびに預けられた場所だ。

 伯父の家は築四十年の日本家屋で、敷地だけは無駄に広い。裏には手入れの行き届いた庭があり、夏になると蝉の声で何も聞こえなくなるような場所だった。

「おじゃまします」

 声をかけると、奥の居間から伯母(おば)の返事があり、続いて廊下をばたばたと走る足音がした。

「あ、悠介だ」

 角を曲がって現れたのは、紺色のTシャツにデニムのショートパンツという出で立ちの女の子だった。栗色がかった髪を無造作にひとつに束ね、日焼けした頬に笑窪(えくぼ)を刻んでいる。

 藤宮(ふじみや)杏、十八歳。今年の春から山形市内の大学に通い始めた、悠介の従妹(いとこ)だ。

「うわ、久しぶり。いつぶり? 三年?」

「二年。おばあちゃんの——」

「あー、法事ね。でもあのとき全然しゃべんなかったじゃん」

 杏は悠介の荷物を一瞥し、遠慮なく言った。

「相変わらず荷物多いね、悠介。旅行下手でしょ」

「……余計なお世話だ」

 杏は昔からこうだった。八つ年下の従妹のくせに、悠介のことを完全に対等——いや、むしろやや下に見ている節がある。子供の頃は「ゆうちゃん」と呼んで慕ってくれていたはずなのだが、いつの間にか呼び捨てになり、敬語も消え、遠慮の二文字はどこかに蒸発してしまった。

「悠介、スイカ食べる? お父さんがでっかいの買ってきたんだけど」

「もらう」

「じゃあ縁側来なよ。切ってあげるから」

 上から目線で言って、杏はまた廊下を走っていった。

 悠介はため息をつきながら、しかし口元は少し緩んでいた。都会の生活に疲れていたのは事実で、こういう遠慮のない空気が、今はむしろ心地よかった。

 縁側でスイカを食べながら、裏庭を眺めた。夏草が膝の高さまで伸び、紫陽花(あじさい)が盛りを過ぎた青を残している。奥の方に古い石灯籠(いしどうろう)が見えた。子供の頃、杏と二人で虫取りをした場所だ。杏がトンボを追いかけて転び、膝を擦りむいて泣いた。悠介がおぶって家まで連れ帰ったら、伯母に「ゆうちゃんは優しいねえ」と褒められた。

「なに見てんの」

「庭。変わんないな」

「そりゃ庭だもん。——悠介、種飛ばさないでよ。行儀悪い」

「おまえに言われたくない」

 杏はスイカの種を庭に向かってぷっと吹いた。それから悠介の皿を覗き込んで、「悠介、そこの赤いとこまだ食べれるじゃん。もったいない」と言って、遠慮なく手を伸ばした。

「おまえ、人の皿から取るなよ」

「いいじゃん減るもんじゃないし。あ、減るか」

 自分で言って自分で笑っている。昔からこうだ。杏のペースに巻き込まれると、悠介はいつも言い返すタイミングを逃す。


 ——


 盆の三日間は、何もしなかった。

 伯父と縁側でビールを飲み、伯母の作る山形の郷土料理をたらふく食べ、裏の川まで散歩して、あとは畳の上で昼寝をした。杏は大学の友人と出かけたり、居間でスマートフォンをいじったり、思い出したように悠介にちょっかいを出したりしていた。

「悠介って会社で何してんの?」

「編集。本を作る仕事」

「へえ。じゃあいっぱい本読むの?」

「まあ、それなりに」

「ふうん」

 杏は興味があるのかないのかよくわからない相槌を打ち、すぐにスマートフォンに視線を戻した。

 変化が起きたのは四日目の午後だった。

 悠介が二階の客間で文庫本を読んでいると、階段をどたどたと上がってくる音がして、襖が勢いよく開いた。

「悠介、ちょっと暇?」

 杏が一冊の本を抱えて立っていた。ハードカバーの、少し古びた本だ。

「暇だけど」

「じゃあ付き合って。面白いもの見つけた」

 杏は悠介の隣にどかっと座り込み、本を開いて見せた。『心と呼吸の瞑想法——自律訓練とリラクゼーションの技法』という、いかにも九十年代に出版されたような装丁の本だった。

「お父さんの本棚にあったの。なんか、瞑想とかリラクゼーションの本なんだけどさ、途中からすごいこと書いてあるの」

 杏が指さしたページには、「暗示によるリラクゼーション誘導」という章題があった。内容を覗き見ると、被験者を深いリラックス状態に導くための、声かけの具体的な手順が書かれていた。

「これさ、要するに人をぼーっとさせる方法じゃん。やってみたくない?」

 杏の目が、きらきらしていた。新しい遊びを見つけた猫のような目だ。

「……おまえがやるの?」

「うん。悠介にかけてあげる」

 杏はにやりと笑った。悪戯を思いついた子供の顔だ。

「絶対面白いって。悠介ってなんかぼーっとしてるし、すぐかかりそう」

「かかりそうって何だよ」

「いいじゃん、減るもんじゃないし。ちょっと目つぶってリラックスするだけだよ? 嫌なら途中でやめればいいし」

 悠介は断る理由を探したが、見つからなかった。杏がこういう顔をしているときは、断っても結局押し切られるのだ。それに、田舎の午後は長い。冷房のない二階は暑く、頭はすでにぼんやりしていた。

「……まあ、いいけど」

「やった。じゃあそこに横になって」

 杏は嬉しそうに言い、本を自分の膝の上に広げた。その横顔に、無邪気な好奇心とは別の何かが、一瞬だけちらついた気がした。——気のせいだろう、と悠介は思った。


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